20  -年上の男-




 原田結良の行動分析――意識不明女性の事件以後の謎の散策とそれ以前の日常での生活と移動パターンなど、そして多那橋市内の地形・ロケーションの調査等、原田結良の『おびき出し』のために必要な情報が纏められ、IKセキュリティの実務部門により、ケース別の行動計画が策定される。


 ……魔素体浸透域内(危険地域内)での安全な行動計画の策定・リスク分析は民間軍事会社であるIKセキュリティの基礎であり最重要とも言える業務だが、そもそもIKセキュリティの実務部門のスタッフの大部分が傭兵、元自衛官、元警官、他の警備会社からの転職(或いはヘッドハンティング)という者が大部分。基本的には対人専門の人間ばかりなのだ。即ち、「どのようにすれば危険な状況を回避する事が出来るか」という技術はそのまま「どのようにすれば対象を危険な状況に追い込む事が出来るか」という技術に転用できる。結良と接触するためのポイントは、人目に付かず、スタッフや機材を展開させやすく、また万が一のための逃走経路が確保されている地点が望ましいとされた。悪い大人達だな、と明悟は密かに自嘲したが、勿論そんな事は口には出さない。


 ……これらの分析は、月曜日を丸々使って行われた。その間にも結良の監視は行われており、月曜日にも、放課後に結良が自転車で市内を散策している事が明らかにされた。……原田結良がシフト・ファイターであるとか、ドッペルゲンガーやそれに類する怪物が潜んでいるとかいう仮説が全て老人の妄執が呼んだ勘違いで、少女の気晴らしのサイクリングに大の大人達が右往左往しているだけ、という結末ならどんなに心が救われるだろうか?




 そして次の日の火曜日の放課後。多那橋駅の東側のバス停で明悟は人を待っていた。――多那碧川高校の登下校で使われるバス停は西側なので、高校の生徒の眼はある程度避けられる(無論、西側から東側のバス停に乗り換える生徒も居るにはいるが)。


 因みに当然だが、今の明悟は女子高生の制服を着た鶴城薙乃の姿をしている。駅に併設されたショッピングセンターをふらふらと見て回って時間を潰した後、バス停近くベンチに腰を下ろし、学校の図書室で借りた新書に目を遣りつつも辺りにも目を配り、学校の顔見知り、特に原田結良が現れないかどうか注意する。一応彼女が利用するバス停から死角になっている場所で待っているので、余程の事が無い限り見つかる事は無いと思うが。


 暫くして、バスターミナルの外れに、見慣れた白のセダンが入って来た。IKセキュリティの社用車である。運転する男も、『薙乃』の方とも関わりのある人物で、まさに待ち合わせをしている相手である。


 ベンチから立ち上がり、バスターミナルの端の辺りに停車したセダンに歩み寄る明悟は、ふとある事に気付き、少し悩んだ。明悟は今、セダンの後部座席に乗る心積もりだったのだが、今の自分は会社の会長では無く一介の女子高生である。運転する人物はIKセキュリティのスタッフで成人男性である。堂々と後部座席に座ろうとするのは不躾だろう。明悟は助手席の窓を覗き込み、中の男性の視線を確認して小さく会釈する。そしてドアノブに手を掛ける。


「こんにちは、失礼します」


 目上の人間に対する声色、態度を意識しながら挨拶をし、助手席に乗り込む。ドアを閉めた後運転席の男性――年齢は三十代後半から四十代前半、ただ顔立ちは二十代後半でもギリギリ通用しそうな精悍な顔立ちで、鍛えられた身体にジーンズにポロシャツ、スニーカーというラフな格好、魔犬捕獲の時、明悟と駒木を乗せたトラックを運転していた輸送部隊の隊長であった男、北森伸一きたもりしんいちである――は、きょとんとしたような、驚いた表情をしていた。


「……あ、助手席に乗るんだね」

 男は、意外そうに口にした。


「……? 何か、都合の悪い事がありましたか?」


 余計な感情を含ませない様に、それでいて冷たい言い方になり過ぎない様に気を遣いながら明悟はおずおずと尋ねた。


「いやね、後部座席に乗るものだと思っていたから。会長令嬢に乗ってもらう訳だし」

 なるほど、『雇い主の娘』を車に乗せる心積もりだったから明悟の行動に戸惑った、という事らしい。


「そんな気遣いは結構ですよ。お仕事にご同行させていただく立場ですから」

「……まぁ、僕としてはどちらでも構わないよ。今日はよろしく」

「はい、よろしくお願いします」

 車の中でお互い軽く会釈する。そして北森は車を発車させる。


 ……言葉遣いが立場を作るという側面は確かにある。薙乃の姿をしている時に(薙乃の立場から見て)目上の人物に対しては確実に敬語を使うようにという指示が研究チームから出ている。逆に『会長令嬢』に対して敬語を使う年上の人間が居た場合、敬語を使わない様にやんわりと注意するように、という指示さえ受けている。自らが雇っている会社の社員に少女の立場で敬語を使うというのは奇妙な感覚だった。初心に返った気分で、何故か高校に通っている時より学生時代を追体験している感覚がある(高校での生活は、『女の子』を演じなければならないという切迫感の方が強い)。


 ……慣れとは恐ろしいもので、かつて持ち合わせていた筈の人前で少女を演じる事に伴う羞恥心はほぼ麻痺していた。ロールプレイングを、客観的に精査する余裕すら有った。


 IKセキュリティのスタッフと車で向かうのは、結良をおびき出す場所として候補に挙がっている場所の視察、作戦のための下見である。作戦の要である薙乃に現場の様子を予習させておこうという訳である。


「作戦を行う場所は、どのように決めるんですか?」

 明悟は、純粋に疑問をぶつけるという態度を意識しつつ北森に尋ねた。


「ターゲッ……、いや、原田結良さんが何らかの怪物を探していると仮定して、彼女の行動範囲からまだ探していない地域、これから探索すると予想される地域の中で、人気の無い場所を探す感じだね」

 運転しながら、北森はちらちらと進行方向から助手席の女子高生に視線を向けながら答える。


「明日から学校の部活動が再開されるのはご存じですか?」

 きっと報告を受けているだろうという事を十分承知しながら明悟は、実務部門側の事情に不案内な薙乃の立場を想像しながら生真面目に質問する。


「ああ、報告は受けているよ。行動パターンが変わるだろうから今日の下見は無意味になるかもしれない」

「はい」

「学校での彼女はどう言っていた? 部活はしばらく休むつもりだとか、そういう風な事は言ってなかったかい?」

「いいえ。寧ろ部活の再開をとても楽しみにしているようでした」

「……そうか」


 北森は、何故か異様に優し気な声色で相槌を打つ。


「彼女が真面目に部活動を始めるとなると、こっちは長丁場になるかもしれない。相手がいつ動き出すかわからなくなるからね、何日も気を張って待機してもらわなくちゃならなくなるかも」

「いえ、それは問題ありません」

 そう返事すると、北森は「助かる」と言い、意識を運転に向けた。暫く沈黙が車内にもたらされる。


「……学校での原田結良さんは、どういうなの?」

 半ば沈黙を無理矢理破る様に北森が訊く。


「写真を見た感じだと明るい娘だなぁ、って印象を持ったんだけど」

「はい、明るい娘です。それに凄く機転の利く優しい人だと思います」

「へぇ……」


 北森は感心したように呟く。話の内容、と言うより、『薙乃』が結良をそう評価した点に興味を示した様な言い方だったと明悟には思えた。


「原田さんとは仲が良いの?」


 北森が純真に尋ねる。反射的に返答をしそうになり、明悟は思い止まった。ここは『薙乃』の気持ちを想像せねばならない場面だ。君も迂闊だ、北森くん。その質問は少々残酷だ。


「その、最近知り合ったばかりで、仲が良いという訳では……」


 わざとしおらしく、答えに窮しているという態度でそう言ってやると、北森は前方を見たまま、家具の角に足先をぶつけた様な表情を作り、「オレは馬鹿だな。この質問は忘れて、無かった事にして」と言った。


 今更するまでも無い自明の話だが、IKセキュリティのスタッフ・北森伸一にとって鶴城明悟と鶴城薙乃はそれぞれ別の人物だ。それぞれが別個のパーソナリティとして北森の認知の中に存在している。そして、今回の『原田結良をシフト・ファイターかどうか探る』という諸々の計画のスタート地点が、多那碧川高校の入学式で薙乃(=明悟)が結良の只事では無い表情を見たから、だとは当然知らない。恐らく、藍慧重工の会長である明悟の独自の情報網の中で結良の存在が浮かび上がった、という程度の認識しかないだろう。北森も、先週薙乃が結良と接触を持った事は知っている。しかしそれは、明悟が得た情報を精査するためのイチ工程、薙乃は、明悟に指示されて結良と仲良くなったのだと認識されている筈だ。結良を利用するために敢えて近寄った、と。


 そもそも、この隣の男、北森伸一から見た『鶴城薙乃』という人物は、その存在だけで心の平穏を脅かすような、中々特異な人物である。北森は立場上、IKセキュリティの暗部と言ってしまって差し支えない、『シフト・ファイターの人体実験』に関わっている人間だ。魔素体浸透域で偶然保護した少女、韮澤薙乃がシフト・ファイターに変身する素質があると気付いた鶴城明悟はそれを世間に公表する事無く養子という形で囲い込む。心身の療養の為に新哉市の屋敷で安静にさせていると嘯いている傍らで魔素研究の実験台として扱い、魔素体と戦う兵器として仕立て上げる為に戦闘技術を叩き込む――そもそも、薙乃(明悟)に銃火器の扱い方を指導したのは元自衛官でもある北森である。改めて『罪状』を羅列すると、明悟は北森にとって、冒険活劇に出てくる悪の黒幕役で十分通用しそうな人物と認識されていてもおかしくない。憂鬱に思わないと言うと嘘になる。


 北森はIKセキュリティの深部で行われている事の意義、鶴城薙乃を実験台にしてでも魔素体の研究をせねばならない重要性を十分に理解している。『新世界覇権の担い手』というのが決して利己主義者への蔑称というだけでなく、未曾有の国難、いや、世界の危機を乗り切るための旗手としての重要性を持っているという事、そしてその価値は倫理観など投げ捨てても十分お釣りが来るという事、何より、藍慧グループのトップの二者、藍慧重工社長・鶴城誠一とその父親にして会長・鶴城明悟の悔恨と憎悪に因る暗い原動力が、組織内外の似た境遇の者達に広く秘かに支持され、賛同者を集めているという現状。それらは北森にも嫌という程理解出来ている筈だ。理屈では理解っているし納得している。しかし北森伸一感情的な部分でどうしても飲み込めないらしい。会社の方針には従っているが密かにわだかまりを持っているらしい。未成年の少女を積極的に矢面に立たせようとする現状に。


 ……北森は妻子持ちで、嫌でも自分の子供と薙乃の立場を重ねてしまうのかもしれない。優しさを噛み殺し切れない北森の在り様は明悟には好感が持てた。もっとも、尊重は出来ないのだが。


「わたしが言えるような事では無いのかもしれませんが」


 明悟は、コミュニケーションの一環としてもう少し踏み込んだ話をしてもいいのではないかと考えた。無論、薙乃の立場で。


「原田さんはとても良い娘なんです。そんな彼女がドッペルゲンガーを相手に無茶な事をしようとしているなら何とか止めたいんです。きっとそれが、最優先事項だと思います」


 そう言うと北森は、一瞬驚いた様な、そして微かに傷付いたような表情を溢した。


「……大丈夫だよ」

 北森は絞り出すように呟く。


「君の気持ちはきっと原田さんに伝わるから。オレ達が出来る事をしよう」

 優しい声で力強い言葉を掛けるのだな君は。薙乃の心の軋轢(半分明悟の演技だが)に寄り添い励まそうとする北森の言葉に、感心するのを通り越して驚いてしまった。明悟は、自身よりずっと若い男に、年下の少女を勇気付けるような言葉を掛けられるという事態に混乱してしまった。予想外の不意打ちだった。


「北森さん……、優し過ぎます」


 何か返答せねばならないと思ってしまい、口について出た言葉がそれだった。

 その言葉に北森は道路の先を見据えながらハッキリしない口調で「そんな事、無いよ」と呟き、唇を固く結んだ。


 明悟にはその表情の意味が理解出来てしまった。

 

 『薙乃』の言葉に頬が緩みそうになっているのを必死で抑えているのだ。


 女子高生に「優し過ぎる」などと評されて舞い上がってしまうのは余りにも締まらないし、何より文脈上そんなだらしのない表情を晒してしまえる状況では無い、台無しだ。努めて『まともな大人』を、そして『冷酷な大人』を演じているのがその表情から明悟にはわかってしまった。そもそも最近明悟も似た様なシチュエーションに出くわしている。喫茶店の件で結良に言われた言葉が印象に残り過ぎていて、つい口を吐いて出てしまったのだ。


 明悟は両手で自分の口元を抑えた。不安と言うか、動揺の表れで。自分の顔色が真っ赤なのか真っ青なのかよくわからない。そのまま堪らず、両頬を掌で覆って俯いてしまった。


 今自分は、意図して北森に女の武器を使ってしまった。


 このシチュエーションにおいて、北森が、一人の男が一番喜ぶ言葉を計算して選んでしまった。この男は自分の様な女子高生にこんな事を言われてどんなリアクションをするのだろうかという悪戯心が、無意識下に確かに存在していたと、今ハッキリと認識してしまった。


「えと……、どうかした?」

 心配そうな北森の声が聴こえてくる。


「いえ何でもありません気にしないで下さい」


 敬語を使わざるを得ない立場が、更に恥ずかしさを助長した。


 今から車を降りて着替えて変身を解いて、会長として後部座席にどっしりと座る事が出来ればどれだけ気楽だろうかと思わずにはおれなかった。ただそもそもこの恥知らずな演技を始めたのは他ならぬ自分なのだ。ただ、意図しないタイミングで『年上の男性に対する女子高生』に成り切れてしまった精神的ダメージが癒えるのにはほんのしばらく時間が掛かりそうだった。




 ……その数分後、北森は明悟に仮面を被る様に促した。窓の外の景色を見ると、駅前からやや離れた南側の住宅地に差し掛かっていた。そろそろ目的地、近々結良がやって来ると思われる地点に到着する。現状の行政やIKセキュリティの判断では、この周辺にドッペルゲンガーが居る可能性は非常に低い。しかし仮面の装着は、結良が探しているかも知れない『何者か』に対する警戒だ。明悟はスクールバックに留めてある仮面を外し自身の顔に装着する。北森も赤信号で停車した際に手早く仮面を被った。正直、仮面で表情を隠せるのは今はとても助かる。


 住宅地を抜けると、不意に視界が拓けた道に出る。前方を幅の広い川に塞がれたT字路に差し掛かった。二人を乗せた自動車は右に曲がり河川敷に沿った道路を川下へと進んだ。


「よし、到着」


 自動車は停車。仮面を被った二人は下車する。


 自動車を留めた場所は河川敷の土手で、そこから対岸まで数十メートルはあり、川幅の広い川を見下ろす事が出来る。ここ最近晴天が続いているので水路は細くなっており、今は渇いている高水敷には背の高い雑草の姿が多く見られた。


 明悟は土手から周囲を見渡す。土手の道路は車の往来は少なく、河川の反対側にはマンションや工場が立ち並んでいたが土手から下がった場所に有るせいか、心持ち距離を感じる。対岸の方の景色は視界が拓けているので非常によく見渡せ、広い農地のそこかしこで、養生シートを被った背の高い建造物の姿が見て取れた。再開発の最中らしい。高校の周囲の光景に似ている。


「視界は拓けているように思えますけど、確かに人気は有りませんね」

 明悟は同じように周囲を見渡している北森に話し掛ける。


「ああ、実際土手を下ると辺りの建物からは川表は見えない。この土手以外からは死角になるんだ」

 川面を見下ろし、掌で川の流れをなぞりながら北森は説明する。

「そうすると、『武器を識る者ウェポン・マスタリー』は川岸で使うという事ですか?」

「そうだな。ただまぁ、当日の様子や車の往来の量によってはワゴン車か何かに隠れてもらいながら能力を使うというケースも考えられるね。周辺の車やヒトの動向はうちのスタッフで徹底的に監視するから、君は能力の発動に集中してくれればいいよ」


 明悟は北森の話に相槌を打ちながら、この場所に自転車を走らせ、ドッペルゲンガーに類する何者かを探す原田結良の姿を想像した。自分達の隣辺りに自転車を停め、川を見下ろし、研ぎ澄まされた視覚・聴覚で異常を探す。想像の中の結良の表情は静かだが、異様な厳しさを秘めていた。魔素体による裂傷を抱える『時代』に対する憤りが滲むあの表情。


 スマートフォンを取り出し、周囲を撮影し始めた北森を眺めながらそんな妄想に耽っていると、ふと、呼ばれたような声が聴こえた気がして振り向いた。振り向いた先、土手の下部に広がる住宅地に視線を走らせたが声や音を発しそうなものは何も見つけられなかった。いや、そもそも『音』が聴こえたかどうかも怪しい。自分の背後から『何か』を感じ取って、振り向いた。何かを感じたはずなのに、それが音なのか何なのかハッキリと反芻できない。


「どうした?」

 明悟の隣にやって来た北森が、スマートフォンのカメラを胸元で構えながら明悟と同じ方向に視線を遣る。


「……ハッキリとはしないのですが、何か『気配』の様な物を感じて」

「……気配?」


 ん、気配?


 一瞬、自分自身の発した言葉に猛烈な引っ掛かりを覚え、明悟は思わず北森の顔を見た。北森の方も弾かれる様に明悟に視線を向けていた。仮面のせいで北森がどんな表情をしているのか見て取れなかったが、容易に想像は出来た。多分自分も同じような表情をしている。


「君は今、第一段階に変身しているのかい?」

 北森は、努めて感情を制御している様な淡々とした口調で明悟に尋ねる。


「え、あ、はい。第一段階です。魔素体が現れる可能性が有ったので……、前以て変身していました」

 若干言い訳がましい口調になってしまった。『鶴城薙乃』は変身前と第一段階では姿が変わらない事になっているし、実験目的以外では変身していない事になっている。本当は女子高生の姿をしている時は確実に『第一段階』に変身しているのだが。


「方向はわかる? その『気配』を感じた方向」

 スマートフォンの持ち方を変え、忙しなく操作を始めた北森が明悟に尋ねる。


「あちらの方です」

 明悟は住宅地の向こう側、北の方角を指差した。


「距離は……、多分遠いな。先週半田崎で魔犬の気配を感じ取った時よりかなり遠い気がします」


 そう、先程『気配』を感じ取った感覚は先週仏壇・仏具店の中で向かいのペットショップに居た魔犬が動き出した事を感じ取った感覚に酷似していた。


「距離がわかるの?」

「先日の感覚と比較してそんな気がする、という程度の認識ですが」

「何か聴こえる、という訳では無いんだよね?」

「この感覚、わからない……。『視線を感じる』というのが一番近い気がします」


 不意に、北森の手の中のスマートフォンが高らかに着信音を鳴らした。北森は、待ち構えていたように素早く電話に出る。


「もしもし……、ああ……、うん、ああ……、やっぱりそうか……。ああ、今こちらは薙乃君と河川敷に来ていた。……ああ、察知したよ」


 北森の断片的な電話の主とのやり取りを聴いている内に、明悟の中では、水面下で進行するある筋書きがその姿を詳らかにさせようとしている事が感じられた。


「方向は? ああ、ああ、北西だな……。ああ、追跡だ。だが近付き過ぎるな。追って指示を出す」

 電話を切り、北森の仮面の顔が明悟を真っ直ぐ見据える。


「原田さんが動いた。自転車に乗って自宅を出たらしい」


 ぼんやりとした予測がハッキリとした形を作り現実として浮かび上がった。


「疑い様の無いタイミングだな。『何か』が現れている」


「これは……、罠ですよね?」


 明悟は仮面を外し、やや上目遣い気味に北森を見据えた。薙乃の怜悧で蠱惑的な眼差しを露骨に意識して、凛とした真剣な表情を意図して作る。要するに女の武器である。それをフル活用しなければならない事態が起こり始めている。


「罠だと、思うかい……?」


 北森も仮面を外す。明悟の考えを再確認するような呟きだが、北森も同じ確信に至っている事がその声色から感じ取れた。


「間違いありません。わたし達がしようとしていた事をそっくり先取りされています」


「今まで完全に街の真ん中で隠れていたのに、急にシフト・ファイターにだけ存在を明らかにした……。なんて事だ、相手には知性があるじゃないか」


「結良と合流しましょう」


 明悟は努めて冷静な口調で、力強く言い聞かせるようにそれを口にした。北森は一瞬驚いたが、直ぐ表情を正し、真摯な眼差しを明悟に返した。


「危険だ。気配の主とかち合う可能性が高い」


「尚更です。結良さんを危険な事に巻き込んでしまいます。結良さんがシフト・ファイターかどうかもまだハッキリしていないんでしょ?」


 北森は、先程運転中に一瞬見せた、痛みを噛み殺すような表情を作る。薙乃を危険地帯に送り込む事に難色を示している。それは職務上のリスクと言う以上に、薙乃を危険に巻き込みたくないという心情の表れだった。まったく、良い奴だな君は。


「磯垣さんには私からもお話をします。だからお願いします」

 多分、北森がそれ程気にしていないであろう懸念に対して口にして、明悟は喰い下がる。北森は苦い表情を作りながらしっかりと薙乃の瞳を見返す。北森もわかっている筈だ、決断にあまり時間が残されていない事を。結良を助けるつもりなら今すぐにでも移動を始めなければならない。もし北森が結良との合流を渋るなら、或いは決断が出来ないでいる振りをして薙乃を現場に連れて行かないという判断を取るのなら、明悟は北森をぶちのめしてでも車を奪って、結良の元へ行かねばならない。


「……わかったよ」


 北森は根負けしたように薙乃の眼差しから視線を逸らし小さく溜息を吐いた。


「事態の推移でどうするかは不確定だけど、とにかく原田さんの向かっている方向に移動しよう」

「わかりました」


「それからこれだけは約束してくれ。オレが危険だと判断したら絶対に撤退するんだ。原田さんがどんな状態でも、だよ」

 明悟は力強く頷いて見せた。



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