16 -原田結良-
放課後に思いを馳せながら悶々と授業を受ける。ちょっとした事件が起こったのは5時間目の授業が終わり休み時間に入った辺りだ。
自分の席で次の授業の準備をしていると不意にクラスメイトの女の子に声を掛けられた。
「鶴城さんに会いに来てる子がいるよ」
そう言いながらクラスメイトは視線で教室の出入り口を示す。
言われるままに廊下に出てみるとそこに居たのは
「つ、鶴城さん、初めまして。原田結良です」
原田結良が立っていた。
「え……、あ……」
予想外の不意打ち。明悟はどう返して良いのかわからず、
「初めまして、鶴城薙乃です……」
とそのまま返事を返した。
「その、下駄箱の手紙、読んでくれた、かな?」
薙乃よりやや背の低い原田は上目遣い気味に切迫した口調で尋ねた。
「うん、読んだよ。……会う予定は放課後って書いてあったけど?」
一瞬手紙を読み間違えた可能性が脳裏を過ったが、同時にもうひとつ、明悟が手紙を読んだときに浮かんだ懸念が頭に浮かんだ。
「いや、うん、放課後で合ってるよ、合っているんだけど……」
原田はバツの悪そうに眼を逸らした。それで明悟は、原田が前倒しで明悟に会いに来たのは『もうひとつの懸念』に関する事だろうと目星を付けた。
「今日の放課後に会おうって書いたんだけど、よく考えたら今日の放課後って学校に残っちゃ駄目なんだよね、ドッペルゲンガーの事件のせいで」
「確かに……」
明悟は実に申し訳無さそうな原田をなるべく刺激しない事を祈りながら言葉を選ぶ。……部活動が中止されるのは生徒達を早期に帰宅させてドッペルゲンガーによる被害が起こる可能性を減らす事が目的だ。生徒が学校に居残る事自体許されない筈だ。その事を、手紙を書いている段階で原田は失念していたのだろう。
「だからその、手紙を読んでもらって悪いんだけど今日の放課後会うのは中止ね、ごめんね」
ショートカットの活発そうな少女が羞恥心と申し訳無さで泣きそうな顔をしながら謝罪してくる。……どういう内容かは未だ不明だが、一人の女の子が見知らぬ相手に手紙を出して『何か』を始めようとする、その勇気と意志に感じ入ってしまった。このままにしておくべきではないだろう。
「今日、学校の外で会う事は出来ないかな? 例えば多那橋駅で」
「えっ?」
驚いたような顔をする原田。そうか、この言い方だと自分が原田の家の場所を知っている様に、バスで学校まで来ている事を知っている様に思われる。
「いや、私は多那橋駅までバスで行くから、原田さんもそうなら学校の外で落ち合えば良いと思ったのだけど?」
「うん! わたしもバス!」
原田は力強く同意する。
「多那橋駅でも大丈夫! 会おう! えと、どこで会おう?」
「差支えが無いなら、多那橋駅のバス停で待ち合わせをするのはどうかな?」
「うん、問題無いよ。そうしよう」
原田は真剣に頷いた。
「その、ごめん。わたしから呼び出したのに鶴城さんに予定を決めさせるような事をして。てかこれ何なの、わたし格好悪過ぎる……」
自分の失敗に立ち直っていないらしく、自責の念に満ちた言葉で呻く。
「いやでも、私も放課後は拙いんじゃないかと思っていたけれど尋ねに行けないでいたからね。放課後になる前に予定変更が出来て良かったよ」
「うん……。何から何まで有難う……」
どうも、慰めさせてしまっている事を感じ取ったらしく、気を取り直した様な笑顔を明悟に向ける。早々に立ち直って見せた。
「じゃあ、行くね。また放課後に」
そろそろ休み時間も終わる。手を振って立ち去ろうとする原田に「また、放課後に」と明悟も手を振り返す。
「……原田と、仲良くなったんだな」
明悟が席に戻った時、斜め後方の席で突っ伏して仮眠をしていたらしい樫井良治が上体を持ち上げ、明悟に尋ねる、というか感想を漏らすような口調で言った。少しだけ、安心したような気配が込められていた。
「いや、これから知り合うかもしれない、という段階だけど……」
そんな樫木に明悟は困ったような笑顔を向けた。
「ただ君の言いたかった事は理解出来た気がする。彼女、多分スゲー良い奴だよ」
……思えば、街中で女性と待ち合わせするという事態は人生に於いてあまり経験に無いなと、下駄箱で靴を履き替えながら明悟は思う。まぁ、だからどうしたという話なのだがふとそんな事を考えてしまった。妻の千恵子とは見合いの席が初対面で、明悟は所謂男女交際というものをした経験が無いのだ。だが女子高生として女子高生と待ち合わせする現状は男女交際とかデートとかそういうモノとは完全に別種の次元の名状し難いイベントだが、ハッキリ言って明悟は少しだけ緊張していた。だがこの緊張感は異性とのデートとかそういうものより、例えば、取引先の代表と会う時の様な感覚を想起させられる。魔素体研究の趨勢に繋がりかねないという点ではその感覚はあながち間違いではないのだが。……ある種、審査される側に立っているといえなくはないだろうか? 原田から切り出される話はそういった類のものになるだろうという予感があった。
昨日に引き続き、下校時のバスを待つ生徒数が以前に比べて非常に多くなっていた。学課が終了した直後のバスは部活に参加しない学生しか乗っていないので、生徒各々の放課後の動向の差異により生徒達がバスに乗る時間帯が割と分散するようになっている。ただ今日は昨日同様に全ての部活が中止。ホームルームの終了と共に普段部活動をしている生徒も皆バス停に殺到。バス停に長蛇の列が形成されてしまっている。最早バス一台のキャパシティを超えてしまっている人数で、乗り切れなかった生徒達は次のバスを待たねばならない。自転車通学の生徒達はそんな行列を眺めながら悠々と学校を去っていく。その表情は仮面によって窺い知れないが。
クラスメイトの何人かはバス停の順番待ちが消化されるまで教室で時間を潰すつもりだと話しているのを耳にしたが(生徒達を速やかに帰宅させるための部活中止の筈なのに、皮肉な話である)、明悟は多那橋駅で原田と待ち合わせをしており、出来るだけ早くバスに乗りたかった。そう、よく考えれば待ち合わせの時間を決めるのを忘れていたのだ。バスを一本でも乗り過ごせば、長時間相手を待たせてしまう危険性があった。
列に並び始めてから二度バスを見送り、三本目のバスにようやく乗車する事が出来た。仮面を被った学生達が寿司詰めになったバスは重々しく心なしか慎重に多那橋駅に向かう。
バスの中はひしめく仮面姿の生徒達、仮面の中でくぐもった苦し気な息遣いが無数に響いていた。今朝のバスで茅原は立ち居振る舞いで仮面を身に付けている相手でも誰なのか目星が付く場合があると言っていたが、今のバスの中では最早完全に身動きが取れない。乗客一人一人が他の乗客を固定してしまっているレベルだ。無理な態勢を取っている者も多く、背丈すら判別し辛い。狭い場所に過密に押し込まれる事により生徒達の匿名性を増している。最早それは明悟自身も慣れた光景だし自身もその光景の一部ではあるのだけれど、やはりそれは奇妙な光景に思えてしまう。そして何より問題なのは、視界に入る情報が非常に限られるので、バス内の数割の人間の性別が辛うじて把握できる程度なのだ。バスの中にどういう背格好性別の生徒が乗っていたのかある程度確かめておきたかった。そのせいで、多那橋駅のバス停について下車した時、振り向き様に明悟の後ろに立っていたこの目の前の少女が原田結良なのかどうか即座に判別できなかった。
「……!」
「え……、あ……」
どうやら同じバスに乗っていたらしい。結良からしてみれば、目の前の乗客に機械的に付いて行きようやく狭苦しいバスから解放されたと思ったら急に目の前の女子高生が振り向いて、こちらを凝視してくるのだ。
「鶴、城さん……?」
明悟の背格好に視線を走らせながら仮面の少女は恐る恐る尋ねる。
「うん、私は鶴城薙乃だよ」
明悟は補足の意味を込めてその場で仮面を外して見せた。その様を見て仮面の少女は驚いたように硬直した。仮面の下でどんな表情をしているのか、それが確認できない事が明悟には残念なように思えた。
「原田さん、で合っているよね?」
明悟が尋ねると「うん、あ、はい、原田です!」と慌てながら自分の仮面を外そうとしたので、「あ、いや、大丈夫、わかるから大丈夫」と明悟は静止した。
「……同じバスに乗っていたんだね、全然気付かなかった」
仮面を外すのを踏み止まってくれた原田は改めてしみじみと言う。明悟も仮面を被り直した。
「うん、ただでさえあんなに混み合っている上にみんな仮面を被っていたからね。誰が乗っているかなんて中々わからないよ」
「……バスに乗ってる間、どうやって仮面を被った鶴城さんを見つけようかずっと悩んでいたの。鶴城さんがわたしを見つけてくれて凄く助かった」
「いや、私も原田さんから話し掛けてくれたから確証が持てたんだ。助かったよ」
その後、何故か妙な沈黙が二人の間に訪れる。意思疎通はちゃんとできている筈なのに何故か気まずい、と明悟は感じる。そうか、これは恐らく仮面のせいだ。お互い表情が読み取れないので相手が何を感じているのか推し量る事が出来なくなっている。駒木や小野や茅原などある程度関わりのある相手ならば言動で最低限判断する事が出来るのだが、殆ど初対面の女の子に対してはそれは無理だ。そしてそれは原田の方も同じらしく、彼女の戸惑いだけは仮面越しからでも手に取るように分かった。
「それで……、話をしたい事があるんだけど……」
原田がおずおずと切り出す。
「仮面を外して話をしたいんだけど……」
「うん、私もその方が良いと思っていた所だ」
明悟が同意すると、仮面の原田が明悟の目(仮面越しの目が有る辺り)を見て、一瞬の間。微笑んだ? 様な気がしたけれどやはりよくわからない。
「どうしようか? 駅ビルの中なら……、いや、うちの高校の学生が多そうだよね……」
ここで明悟は原田のリアクションを観察し、今から原田がしようとしている話が同じ高校の学生達が近くに居る場所で差し障り無く出来る様な内容かどうか目星を付けようとしたが、案の定仮面によって感情の起伏が読み取れなかった。その代わり原田は考えを巡らせるように一瞬虚空を見詰め、「ちょっと遠いけど東口の駅前の喫茶店、とかでも大丈夫?」と訊いてきたので「構わないよ」と同意する。やはり、出来るだけ人に訊かれたくない内容なのだろうか?
明悟は原田の後に続く。バス停から駅の階段を登り橋上駅舎を西から東へ横切る。途中、下層階がデパートになっている駅ビルの入り口が有り、その周囲に多那碧川高校の生徒達がたむろしていた。安全の為に部活が中止されているのに寄り道をしては本末転倒ではないかと眉をひそめたが、自分達も全く人の事を言えないのでこの感傷は理不尽である。
東側から駅舎を出ると駅前デッキの2階になっており、歩道橋と広場を掛け合わせたようなスペースが広がっている。高架下には複数のバス停や路面電車の駅が並んでいる。原田は駅前デッキから更に東に延びる歩道橋を真っ直ぐ進み、多那橋駅の向かいに立ち並ぶビル群の谷間の商店が連なる区画を目指す。
ビルの1階を利用した目的地の喫茶店は歩道に面してガラス張りになっており開放的な造りになっているのだが、件のドッペルゲンガーの事件の影響かガラスには漏れ無く丁寧にブラインドが下ろされ、喫茶店の店内は若干薄暗くなっていた。しかし、木製のインテリアや内装で纏められた店内は薄暗い中に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
明悟と原田は店員に促されて奥のボックス席に腰掛けた。客はまばら、主婦らしい女性達が数組とスーツ姿の男性が居るだけだ。全員、仮面は外している。学生の姿は無い。やはりこの店の辺りは下校時の高校生達のテリトリーの外側という事なのだろうか。
「初めて来る店だ」
明悟は仮面を外しながら、余り意味の無い日常会話としてそんな言葉を口にした。
「そもそも東口の方には殆ど来たことが無いからね。あまり地理に明るくない」
「鶴城さんはこの辺の人じゃないの?」
仮面を外した原田は、微かな好奇心を表情に浮かべて尋ねてきた。
「ウチは新哉に有るんだ。高校に入るまで多那橋の方まで出掛ける機会もあまり無かったからね」
「えぇ~そうなんだ……。えっ、新哉って魔素体の警戒レベル2でしょ? 危なくないの?」
居住地を明かすとしばしばされる定番の質問ではある。
「少なくとも今まで魔素体が人里に現れた事は無い。まぁ、屋外で仮面を被る事が規則になっているけれど」
「あ、やっぱり被らなきゃダメなんだ」
「ああ、被らないといけない。巡回中の警官などに見つかるとこっ酷く注意されるらしい」
「へぇ~。……それって、外に出ている時はいつも?」
「いつもだよ。電車でも多那橋市に入るまでは付けていないといけない事になっている」
「ええ、電車の中でも!」
原田は目を丸くして驚いた。本当に、比喩的な意味では無く見事に目を見開いて驚いている。
「……まぁ、そこまで厳密にしている人は少ないんだけどね」
「はぁ~、すごく大変そう。安全の為に必要なのはわかるけど」
原田は大袈裟に慮る様に口にする。
……明悟は密かに驚いていた。原田結良の情感豊かな口調や表情に。仮面の下で今まで表情が隠されていたから余計にそう感じるのかも知れないが、学校内でのやり取りも含めてまだ短い時間しか会話をしていないが非常に目まぐるしく表情を変化させる。年頃の少女らしい溌剌とした、悪く言えば落ち着きがない様子なのだが、問題なのはこの原田結良が目を見張るほどの美少女だという事。整った目鼻立ちのショートヘアの少女が百面相をさせながら愛らしさを振り撒く様はハッキリ言って気圧されてしまう程だ。『鶴城薙乃』とはまた違うベクトルの魅力で、会話をしながら浮き足立ちそうになる。……そして、そんな舞い上がっている自分自身に明悟は呆れた。何を考えているんだ馬鹿が、見惚れている場合ではないぞ、と胸の内で叱咤した。
店員が注文を取りに来て会話が区切られる。原田はアイスティーを、明悟はホットコーヒーを注文した。店員が立ち去ると、原田は居住いを正して背筋を伸ばした。その動作だけで二人の間に流れる空気の重さが変化したように明悟には感じられた。
「……そろそろ、本題に入るね」
原田の顔付きも変わった。真剣、と言う以上に思い詰めた様な表情でまっすぐと明悟を見据える。
「うん、いいよ」
明悟も、力まず自然な態度を装いつつ原田の視線に応える。
明悟の様子に対して原田は、改めて話すべき言葉を思い出すような、最後の覚悟を決める様な間を作った。
そしてそれを口にする。
「鶴城さんは、鶴城栄美っていう人の事、何か知ってる?」
その声には、切迫した中にほんの微かな恐怖心の様なものを感じられるように明悟には思えた。気のせいかも知れないが。
「うん……、知っている」
しばしの間を置いて明悟は返答する。勿体ぶったというより、その質問をした原田の表情から、これからの会話の推移に関するヒントを読み取ろうと一瞬だけ観察したのだが、原田はただ真摯な眼差しで明悟の次の言葉を待つだけだった。
「原田さんは、その……、『栄美さん』の友達だったのかな?」
この時明悟はとんでもない事に気付いた。『鶴城薙乃』の立場で『栄美』の名を呼ぶ時、どう呼ぶべきか全く想定していなかったのだ。咄嗟に『栄美さん』と呼んではみたのだが、自分の孫娘を同年代の縁遠い女子の様に扱っている違和感に、明悟は何故か胸が痛んだ。
「うん、友達」
原田の返事には、明悟の言葉と友達という概念を噛み締め、自分自身に染み込ませていくような重々しい力強さがあった。
「鶴城……、その薙乃さんは栄美ちゃんの姉妹とか親戚なのかな……?」
『鶴城栄美』との区別の為だろう、原田は若干の申し訳無さを籠めつつ『薙乃』と名前で呼んだ。
……少女性の追求は必要。鶴城栄美を模したシフト・ファイターの身体と明悟の精神性を合致させる事でより大きな力を扱えるようになる。明悟が鶴城薙乃として受けた刺激に的確に反応できるのは理想的な形で、目標としている事である。鶴城明悟としてでは無く、鶴城薙乃として栄美の話をしなければならない時、それはどのような態度で口にされる事なのか、秘書との打ち合わせの元想定されてきた事なのだ。
「……私は養子なんだ」
明悟は一瞬意を決するような間を置いてから答えた。原田は「え……?」と小さく驚いた様な声で呟く。
「そもそも
「……」
「そして保護してくれた民間軍事会社を経営している鶴城家に養子として迎えられたんだ」
それを訊いた原田の表情は、驚きながら酷く困惑しているようだった。そういう表情をされる事は明悟も予想していた事なのだが、明悟の言葉がダイレクトに原田の感情と表情を激しく揺さぶっている状況に明悟が逆に戸惑ってしまった。
「……は、波乱万丈」
そしてそんな表情の原田の口から出て来た言葉がそれだった。
「ふふ、確かにね」
明悟も思わず笑ってしまった。自虐では無く、荒唐無稽な『真実』と『過去』に自分でも可笑し味を感じているという様な種類の笑みだ。
「あっ、その、ごめん、変な事言っちゃった。……もしかしてわたし、凄く話し辛い話をさせてる?」
「いや……、そんな事は無い。飽くまでもこれはもう終わった、過去の羅列でしかないからね。気に病む事は無いよ」
そうは言ったが、原田は表情を曇らせたまま慮るような眼差しを明悟に向ける。その視線に明悟は罪悪感を刺激される。そもそも、今し方明悟が口にした『鶴城薙乃』の半生は全て嘘である。豊柴市の孤児院に薙乃――旧姓は『韮澤(にらさわ)』――という少女が居た事は事実だしその少女を養子として迎えたのも戸籍上間違い無い。書面の上で存在する少女の立場を栄美に変身した明悟が拝借しているのだ。本物の『韮澤薙乃』は孤児院の他の関係者共々、恐らくもう生きてはいないだろう(魔素体大禍後、小岩井に都合の良い行方不明者をピックアップさせたのだ)。薙乃を保護して養子とした、という話で関係のある人物は全員、断片的な事実を知る関係者(明悟の養子が韮澤薙乃では無い事は知っているがその正体は知らない)か全てを知る関係者(明悟=薙乃だと知っている)かのどちらかだ。口裏は合わせている。表面上、明悟が原田に明かした『薙乃の身の上話』はどうしようもなく『事実』なのだ。
「私の養父は栄美さんの祖父に当たる人物で」
平然と、それが唯一無二の『事実』であるかのように筋書きをなぞりながら明悟は、秘書から受けたあるアドバイスを思い出していた。
「だから私は立場上、栄美さんの、……叔母という事になるね」
『叔母』という単語を、明悟は微かな羞恥心を織り交ぜながら言い辛そうに明かした。『叔母』という単語に込めた含羞は秘書の指導の賜物だ。
「叔母……」
原田は明悟の言葉を反芻しているようだが、『叔母』という女子高生があまり背負う機会が無い不穏当な称号を『薙乃』が恥ずかしがっている(演技をしている)事を原田も察したらしく、呟く言葉は非常に遠慮がちだった。それよりも、原田の表情が、明悟の言葉に対して腑に落ちていないというか、余りピンと来ていないような気配を漂わせている事が明悟には気になった。
が、次の瞬間原田は弾かれる様に目を見開き、小さくぱんと手の平を合わせた。
「そっか、栄美ちゃんのおじいちゃんの娘だから、立場上お母さんと同列? になるんだ……!」
力強く合点が行ったという感じのすっきりした表情だ。どうも、『叔母』という単語の意味合いが直感的に理解出来ていなかったらしい。明悟は「その通り」と言いつつ深く頷いた。
「なら、栄美ちゃんのお母さんの姉妹って事になるんだ」
「そうだね」
「……なんだか不思議」
原田は感心したような表情で呟く。
「不思議? そうかい?」
「うん、理屈はわかるんだけど、栄美ちゃんと同じ年齢なのに叔母か……。言葉のニュアンスと実情が伴っていないというか。あとぶっちゃけ、薙乃さんに叔母って呼び名は似合わない」
「……私もあまり叔母とは呼ばれたくはないね」
「あ、うん、ごめん。絶対呼ばないようにする!」
「はは。……まぁ、私のケースは特殊だけれど原田さんの……、私達の年齢でも叔母という立場になる可能性は低くないよ。例えば原田さんに二十代の兄弟が居たとして、結婚して子供が生まれたとしたらその子供にとっては原田さんは叔母になってしまう」
「うわ、本当だ! 何か急に年を取った気分になる!」
原田は目を丸くして本気で驚いてみせる。その様子に明悟もちょっと小さく笑ってしまう。
お互いひとしきり小さく笑った後、明悟は「……栄美さんに関してだけど」と、若干無理矢理かつ生真面目に話の進路を戻す。その一言には憂いが込められており、これから口にされる話の『性格』を暗に示唆している。
「
原田は小さく、しかしハッキリと頷いた。痛々しい程に真摯な眼差しをしている、様に感じられた。……原田が栄美の死を知っているという情報は明悟も既に把握していた。年に一度行われている魔素体大禍の慰霊祭に出席していたと、小岩井の調査資料に書いてあった。
「義父も栄美さんを可愛がっていたみたい、それは孫娘だから当然か。盆と正月に里帰りしてくる時ぐらいしか会う機会が無かったみたいだけど」
我ながら、よくも簡単にこんな事が言えたものだな、と明悟は自分で自分に毒付いた。ただ『薙乃』の立場上、過度な思い入れは不自然である。原田の内心を推し量りつつ淡々と『私見』を口にする。実際、原田結良に対して栄美について語る言葉など薙乃も明悟もそれほど持ち合わせてはいない。恐らく、原田の方がより孫娘について多くを知っているはずだ。
「ちょっと失礼な話かもしれないけれど……」
原田はバツの悪そうな表情で切り出す。
「ん?」
「薙乃さんの姿を初めて見た時、ちょっと吃驚しちゃったの。薙乃さん、栄美ちゃんに凄く似ていたから」
「……似ている」
危険物をゆっくりと持ち上げる様な声色で、明悟は訊き返すでもなく反芻した。
「いや、年齢が違うから似てるって変だよね、でも雰囲気とか髪型の感じとか結構そっくり!」
「……それは義父や義父の会社の人にもたまに言われるな。栄美さんの写真を見た事があるけど、確かに似ている気がしたよ」
原田が力強くしみじみと頷く。
「似ている様に見える理由はやっぱり髪型のせいかな? 栄美さんも髪を降ろしていた事が多かったみたいだし」
内心穏やかではないが、明悟は平静を装いつつ話を繋げる。今原田の目の前に居るのは栄美の成長の可能性の一つと言える姿だ。似ているなんてレベルでは無い。
「いや、髪型もあると思うけど、こう、なんか……(両掌をかざしながら適切な言葉が見つからずもどかしげな表情をしている)、キリッと! キリッとしている所が似てる!」
「キリッと……?」
「うん、空気が引き締まって、良い意味で緊張感が出る感じ」
その表現を訊いて明悟がイメージしたのは、休み時間終了直後の教室に教員が入室してきて、瞬く間に生徒達が着席し授業の準備を始める光景だったのだが、そういう理解で正しいのだろうか。
「栄美さんは結構怖い人だった、とか?」
明悟は、自分でも少し意地悪かなと思いつつ質問をした。
「いや、そういう訳では無いんだけど、あの、勿論薙乃さん怖いって言ってる訳じゃないんだよ!? あー、巧く考えている事が出力できない!」
慌てたり自責したりコミカルである。
明悟にも、原田の言わんとしている事が理解できるような気がした。
栄美は利発な娘だった。それでいて、大人の言動を鋭く射抜く洞察力を子供の無邪気さで敢えて隠しているような所さえあった。大人が望む『子供』を朗らかに演じつつしばしば大人としての本質的な部分を試してくるような瞬間が見え隠れする。邪険に扱うべきでは無い、邪険に扱いたくないという緊張感を大人達に与えてくる、可愛らしくも末恐ろしさを感じさせる、存在感のある女の子だった。だがそれと、今の明悟が纏っている空気感が同じものだとは思えない。恐らく、似ているだけなのだろう。
「……原田さんは、もしかして入学式の時に私に気付いていなかったかい?」
何となく訊いても大丈夫そうな雰囲気だと感じたので、明悟は予てからの疑問を口にした。原田は一瞬きょとんとした顔をして
「あ、うん、見てた。薙乃さんも気付いてたか……」
とばつの悪そうな顔ではにかんだ。
「あの時さ、わたし凄い表情してなかった?」
原田が恐る恐る訊くので「うん、していた」と正直に答えると、原田はさらに申し訳無さそうに笑った。
「うん、その、本当に驚いたの。しかも苗字を調べたら同じ『鶴城』でしょ? 本当に驚いてね、えと、うぁ……、あれ?」
原田は、微かに笑顔さえ浮かべて明悟の姿を見た時の驚きについて話していた。快活に、朗らかに言葉を紡いでいた原田の声色が不意に震える。楽し気な表情を微かに強張らせた瞬間、原田の頬を大粒の涙が伝った。
愛らしい少女の表情が瞬く間に凍り付くような驚きに変化する。まるで、自分が今泣いている事が自分で信じられないとでも言う様に。そして、凍り付いた表情が砕け散る様に、唇を震わせ、瞳を戦慄かせて声も無く泣き始めた。
明悟は、その一部始終を真正面から見届け、酷くショックを受けてしまった。少女の心が壊れる瞬間をまざまざと見せつけられたようで、言葉を失ってしまった。そしてすぐ、矢も楯もたまらず明悟は立ち上がり、原田の隣に座り、俯いて涙を流す原田の背中を擦った。想像していたよりも熱い体温が掌に広がる。
原田は顔を両掌で覆って声を殺して泣いていた。
「ごめんなさい……、ちょっと、ちょっと待ってて……」
震える声で、声の震えを必死に押し殺しつつ、絞り出すように会話の中断を詫びる言葉を継げる原田。嗚咽を止められない事が酷く不本意で、泣いている事を酷く恥じている様な声色だった。
明悟は肩から原田を抱きしめた。余計な事など考える暇は無く、こうする選択肢以外無いように思えた。
「大丈夫……、謝らなくていい、謝らなくていいから」
唯一言葉に出来た気持ちはそれだけだった。そして言い聞かせるように頭を撫でた。
そうだ、原田結良は何も悪くは無い。一体何を謝らねばならないと言うのだ。
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