11  -多那碧川高等学校-




 5年前、魔素体大禍の直後の多那橋市はカオスの坩堝だった。溢れかえる避難市民に機能不全に陥るあらゆる都市システムに魔犬が到達してくるのではないかという恐怖。しかし人々はめげずに生活の立て直しへと舵を取った。産業の復興や学校教育の維持なども多くの人々の努力の賜物である。


 ただ、そんな人々の努力は、常に魔素体群の恐怖と隣り合わせだった。昨日女性を襲ったとされるドッペルゲンガーの存在が安寧への願いを恐怖に塗り替える。いつもより確実に多い仮面を被った通勤・通学客の姿が不安や恐れを滲ませている。


 多那橋に至るまでのあらゆる警戒網を抜けてドッペルゲンガーが住宅地で人を襲う可能性というのは確かにゼロでは無い。ただやはりそれは通常ではありえないレベルの確率で、何かもっと恣意的なものを感じてしまう。小野と話している時は口に出さなかったが、例えばドッペルゲンガーを造り出せるシフト・ファイターの能力とか、ドッペルゲンガーと同じ事が出来るようになるシフト・ファイターの能力とか。


 だがどれもこれも現状ニュースで取り扱われているレベルの情報では妄想の域を出ない。そろそろIKセキュリティの社員が出勤して情報収集を始めている頃だろうか? 女子高生を演じて学校に来ている我が身がもどかしい。




 学生とサラリーマンを満載したバスは駅を離れ西側へ進路を取る。駅の周辺には大きな建物やちょっとしたビルが連なっているが、駅を離れるに従い建物の密度はまばらになり田畑が目立ち始める。しかし所々に、建造中の巨大な建物の姿も目立っている。もともとこの辺りは農地の中に工業施設が点在している様な割と大らかな土地の使われ方をしていたらしいが、魔素体大禍以後は地方都市周辺の土地は次々に国や民間企業に買い取られ、急ピッチで公共団地等々が建設されている。未だに、プレハブ住宅での生活を余儀無くされている避難民は沢山居る。


 やがて、真っ平らな農地の果てに、4階建て程度の白い大振りな建物が複数立ち並ぶ、まるで荒野に鎮座する砦の様な光景が現れる。明悟が、鶴城薙乃として通う高校、県立多那碧川たなみどりかわ高等学校である。

 白塗りの塀とその内側の樹木で二重に目隠しされた区画に沿って進んだバスは校門の斜め前辺りで停車し、扉を開く。明悟と小野も他の学生達の流れに合わせて下車する。


 下車した学生達はそのまま、正門に向かう列を形成する。正門なのだが、正門の前にはイベント会場の目隠しに使う様な衝立が立てられている。これは明悟が入学した一か月前から立てられており、どうも学校の外側の景色が内側から直接見えないようにしてあるらしい。防犯上の理由というより、ドッペルゲンガー対策として。その衝立の前には、ジャージ姿の生活指導担当の男性教師が仮面を着用して仁王立ちしている。……この生活指導担当の教師はしばしば校門の前の衝立に鎮座しているが、仮面を付けている姿を見たのは今日が初めてだ。


 明悟と小野はその横を「おはようございます」と言いながら通り過ぎた。生活指導担当の教師は仮面の顔で小さく頷いた。


「生活指導の先生も仮面を被ってたね」

「うん。ニュースの影響だろうね、きっと」


 校門を抜け生活指導の教師から十分に距離を取った辺りで密かに打ち明けるように小野がそう口にした。周りの生徒達も生活指導の教師が仮面を被っていた事について(揶揄を籠めて)話題にしている。大人(教師)に関する話題や評価に関する事柄を自然に振られる時、自分が大人では無く子供の立ち位置で扱われていると改めて自覚させられる。




 学校内の窓という窓にはカーテンが取り付けられており、今それは全て閉じられている。外は晴天なのだが校内は薄暗い。朝の陽射しを防ぐ事が目的というより、学校の外のドッペルゲンガーを視界に入れないための措置なのだろう。普段はここまで過剰にカーテンを閉じられていないが、ニュースを受けて特別な安全対策を取ったらしい。生活指導の教師の仮面着用が彼独自の判断では無かったらしい事が読み取れる。


「もう取っても大丈夫だよね」

 一年生の教室が有る四階への階段が登りながら小野は仮面を外した。明悟もそれに倣う。


 小野はそのまま仮面を鞄の金具に引っ掛け、鞄から眼鏡ケースを取り出し、眼鏡を取り出しすぐさま掛ける。……その所作が何となくこれ見よがしで、仮面を外して即眼鏡を掛けるという行動を暗に明悟に見せつけている様な恣意的な動作だった。


「仮面があると眼鏡が掛けられないから大変だね」

 明悟はその無言のネタ振りに乗ってやる事にする。


「うんそう~、外を歩く位なら裸眼でも大丈夫だけどね」

 仮面から解放され眼鏡を掛けた穏やかな表情を緩めながら、小野は言う。

「眼鏡の上から被られるタイプの仮面なんて物も、探せば有るんじゃないかな? こう、目元が膨らんでいるタイプの」

 そう言いながら明悟は両掌をお椀型にして自分の目の前に被せる。

「うんあるある。でも試してみたんだけど良くなかったの。仮面がこめかみの部分で眼鏡の蔓を押さえ付けて、視界が歪むの」

 そう言いながら小野は自分の眼鏡の両サイドの蔓に指先で力を籠めて眼鏡全体を軽く歪めた。明悟は「なるほどなぁ……」と丁寧に感心してみせた。


 他愛のない会話をしながら教室に辿り着く。


 教室の窓はやはりカーテンが閉じられていて、それほど厚い生地ではないカーテンは朝の陽の光で白く発光しているようだった。陽の光が無理矢理遮られている教室内は蛍光灯の光で十分に明るいが閉塞感があり、いつもの教室より狭い印象を受けてしまう。


 教室に入った時点で小野は「じゃあ」とふわりと笑いながら手を振って教室の奥に入って行った。明悟もほぼ条件反射で手を振り、笑顔を見せる。小野は窓際(カーテン際)の席で明悟は廊下側の壁際の席だ。


「……っ!」


 自分の席に座ろうとした瞬間、明悟は表情を強張らせて唇を噛んだ。今、反射的に「どっこいしょ」と言いそうになったのだ。寸前で押し留めた。仮面を付けたままの長距離の移動が視界と顔面を圧迫し、いつも以上に疲労を与えていたらしい。思わず老人の身体の時の癖で自分の身体を過度に労わってしまった。少女の所作は激し過ぎても行けないが身体の負担を気にし過ぎるのも厳禁だ、気を付けねば。


 一限目の授業の準備をしながら明悟は、ちらりと教室内の『高校生達』の様子を観察する。まぁ、光源が蛍光灯に変わっていていつもより薄暗い以外は概ねいつも通りに思える。よく見る組み合わせのグループで朗らかに談笑をしていたり授業の準備をしていたり机に突っ伏して寝ていたり。ただ、会話をしている生徒達の話題はどうやら多那橋のドッペルゲンガー被害者(と思われる)女性の話が中心らしく、スマートフォンで件のニュースを見ているらしい。……一応、学校内での携帯電話の使用は校則で禁止されているのだが、ほぼ形骸化しているらしく誰も守っていない。流石に教師の前で使う者は居ない。見つかると、教師にも依るが場合によっては厳重注意と共に放課後まで没収される場合があるらしい。校門前にいた生活指導担当など要注意だ。この件に関する明悟の立ち位置は複雑で、学校が課しているルールを学生達が破っている現場を大人である自分が黙認している事への罪悪感は持ちつつも、生徒達の大部分が無意味だと感じて破っているルールに黙認という形で暗に支持している女子高生の演技というのも重要だとは理解している。いや、そもそも、校内で秘書や会社からのメールを確認出来なくなるので厳しく禁止されると明悟は困るのだが。

 



 教室内の座席がほぼ全て埋まった頃、チャイムが鳴り、立ち話をしていた生徒達も素早く携帯端末を片付け、それぞれの席に着いた。程無くしてクラスの担任が入室し、授業の前の朝礼が始まる。担任の女性教師(年の頃は明悟の秘書と同じくらいか、パンツスーツ姿の快活な女性・現代国語の教師)が「みんなももう今朝のニュースで知っていると思うけど」という前置きから例のドッペルゲンガーの事件について話を始める。事件が発生したのが住宅地のど真ん中である事、魔素体浸透域からかなり離れた多那橋にまでドッペルゲンガーやってくるのは通常では非常に低い可能性である事など、恐らくニュースで語られている範囲の話をし、それでも念のために、あと数日は校内のカーテンは全て締めっぱなしにしておくと生徒達に伝えた。


「現状ではまだ魔素体警戒レベルを変更する予定は無いそうですが、まだ予断を許さない状態です。下校時は極力寄り道せずに真っ直ぐ帰宅するようにしましょう」


 にわかにざわつく生徒達の様子に注意深く目を配りつつ担任はそう締め括り、教室を出て行く。入れ替わりに数学の教師(白髪交じりの初老の男。ただ、明悟よりは若い)が入室し、一日の授業が始まった。


 朝礼でドッペルゲンガーに対する注意喚起はあったものの、一限目・二限目はつつがなく進行した。カーテンを閉め切り蛍光灯の光に頼っているせいで教室内がいつもより若干薄暗い事と、教師達が皆授業の始まりにドッペルゲンガーの事件に触れる事以外は学校の様子はいつも通りだった。近場にドッペルゲンガーが現れたと言っても仮面の着脱以外に学校教師や生徒レベルではどうしようもない。日常が成り立たなくなるギリギリまで平常通り活動するのが妥当であるのは確かだ。




「そっかー、新哉の方ではいつもに仮面を付けていないといけないんだ……」


 休憩時間、茅原舞子ちはらまいこが感心したように目を丸くして言う。

「えっ、じゃあさじゃあさ、今日みたいに教室のカーテンもいつも締めてるの?」

 茅原は興味津々という感じで窓の方を指差しながら尋ねてくる。


「うん、いつも締めてたよ~」

 小野がふわりとした口調でしみじみと応えた。


「開けてると先生に怒られるんだよね」

 と小野が明悟に同意を求めてきたので

「……男子が悪戯で開けていて怒られていた事があるな、そう言えば」

と話を合わせる。茅原は「へ~~」「は~~」と大袈裟に二人の話に感心する。


 ……休憩時間、クラスメイトの茅原と小野が明悟の席まで集まって来て井戸端会議を行うというのが習慣になっていた。茅原舞子とは高校に入ってから知り合った(要するに先月からの付き合い)のだが、入学当初の席位置が近く、意気投合し(とは言っても茅原の方から積極的に話し掛けてくるのが常だったが)、席替えした後も茅原の方から明悟の席までやって来て話し掛けてくれる。


「やっぱり大変なんだ、警戒レベル2って」

 同年代の女子の中では比較的小柄で、小さく纏めた二つのお下げの可愛らしい容姿の茅原は感慨深げに言う。茅原は多那橋駅の東側に住んでいるらしく、駅まで自転車に乗り、そこからバスに乗るらしい。


「わたしなんかは住んだら危険だと思う、外出るとき絶対仮面忘れる自信が有る!」

 話の輪に小さな笑いが起きる。


「でも大丈夫だよ? 警戒レベル2でも魔犬もドッペルゲンガー今まで出た事無いし」

「んー、……まぁ、山の方さえ見なければ危険は少ないだろうね」

「おお、魔素体は山から来る!?」

 茅原は現地人(明悟)の生の声にオーバー気味に関心を示す。


「うん、山から来る。名古屋の方から山を越えて新哉まで来る可能性は無くは無い」

「そっかー、山はノーマークになっちゃうんだ……」

「でも、基本的に魔素体は比較的平坦な道を進みたがる性質があるみたいだから、やっぱり、過剰に心配し過ぎる必要は無い、かな」

「おおお、流石に詳しいな、鶴城さん。専門家ってだけはある」

「……私じゃなくて養父おやが専門家なんだ。私は聞かされた事を鵜呑みにしているだけだよ」

 明悟は苦笑いしながら謙遜してみせた。


 思春期の女の子の振りをする行為。目の前の二人の少女、そしてクラスメイトや学校の教師から『鶴城薙乃』の正体を疑う素振りは一切見られない。明悟自身は、女の子らしい女の子を完璧に演じる事が出来ているという自負は一切無いが、周りの人々が明悟を女子高生という認識/前提で捉えているので多少言動に違和感があっても薙乃の個性として受け入れてしまうのだ。少女ではなく少年を演じましょうという秘書の指示はそういう計算を加味した上でのものかもしれない。『薙乃』という疑似パーソナリティに前以て大きな違和感(見た目クールビューティーなのに喋るとボーイッシュ、とか嬉し気に秘書が評していた)を用意しておく事で小さなミスや違和感を覆い隠しているのだ。


「てか、今日多那橋駅で凄い驚いたの。仮面被ってる人が凄く多くて!」

 茅原は大事な事を思い出したように興奮気味に息巻く。


「うん、いつもより多かったよね~」

「なんか、圧迫感というか、光景ヤバいよね!? いや、わたしも仮面被ってたしこんなん言うの変なんだけど、なんか凄いSFを感じたの!」

「『SFを感じる?』」


 明悟と小野は同時に同じ言葉をリフレインし、声がハモった。一瞬の間の後、「あはは、被った、声が被った!」と茅原が爆笑し、小野もくすくすと笑い出した。明悟は完全に笑うタイミングを逸し、戸惑い半分の苦笑いが漏れただけだった。この『箸が転がっても笑う年頃』の感性がどうしても模倣出来ない。この手の笑いに同調できなかった時は無理に笑わない方が良いとこの一年余りで学んだ。それも個性だ、とまかり通す。


「『SFを感じる』ってどういう事?」

 ひとしきり笑った後、小野が茅原に尋ねる。

「うん、未来の世界とかで大気が汚染されてて皆ガスマスクを被ってたりするじゃん。今日の多那橋駅がまさにそんな感じだった!」

「風の谷のナウシカ的な?」

「そう、まさにそんな感じ!」

「……新哉駅はいつもそんな感じだけどね」

 明悟も話に乗っかってみる。

「うん、駅のホームに仮面を被った人がずらりと並ぶよ~」

「うお、未来都市・新哉!」

 茅原が都市の固有名詞にスタッカートを加えてつつ驚いてみせる。小野は「いや、凄い田舎だけどね~」とくすくす笑いながら言う。


「うん、理由は違うんだけど、沢山の人が仮面被ってる姿を見ちゃうと改めて時代が変わっちゃったんだなーって思っちゃうの。朝起きたらいつの間にか何世紀も未来の世界にワープしていた、みたいな。いや、未来都市から来てる二人からすれば今更かもしれないケド」

「あはは、わたし達が小さい頃から考えると有り得ない光景だもんね~」


 ……『時代』の変化を感慨深げに語る女子高生二者の会話を訊きながら明悟も事も無げに頷いてはいるが、薙乃の姿の下に隠した本心では、ある種の焦燥感が燻っていた。正に時代は変わっている。その時代の只中にいる若者達にとってはそれは受け入れるしかない事象だろう。多分、そこにある種のわだかまりを感じるのは酷く身勝手な事、もっと言えば老人のやっかみかも知れない。


「おお! すっげぇ! もう更新されてる!」


 突然、教室の奥の方から男子生徒の驚く声が響いた。三人は弾かれたように声の方に顔を向ける。声の主はクラスメイト。カーテンで閉ざされた窓際の席にたむろしていた男子四人のうちの一人が驚きと微かな歓喜を表情に浮かべながらスマートフォンを凝視している。隣に居た別の男子に「声でけえよ、バカ」と半笑いされながら肩を叩かれていた。


「えっ? なに突然?」


 茅原は怪訝な表情をしながら窓際の男子達を一瞥する。小野は「んー?」と疑問を持ちながらも、その実余り興味も無さそうに首を傾げる。

「スマホで……、何か見てる? ゲーム?」

「はしゃいでるなー……」


 ……こういうワンシーンで、明悟は実は密かに戸惑ってしまう。教室内で馬鹿騒ぎしている男子生徒に対する冷ややかな反応、同性に対する態度との明確な違いに驚かされる。まぁ、そういった反応の違いは考えるまでも無く当たり前で、無関心なものに対しての振る舞いが突き放したものになるのは至極当然である。ただ明悟はどうしても、目の前の女子生徒が異物を無感情に眺めるような視線を男子生徒に向けている時、あの視線を向けられている男子生徒の(女子生徒からの)立場を想像してしまうのだ。この時、明悟は非常に強い疎外感を覚える。いや、自身が阻害されてしかるべき人間であると冷や水を掛けられたように思い出さされるのだ。


「シェイプシフター・ソリディファイだよ。魔素体の情報を集めてるウェブ・サイト」


 急に、斜め後方の近い所から明悟達に向けて喋る声。三人が一斉にそちらに視線を向けると机に突っ伏して仮眠していたらしい男子生徒がゆっくり上体を持ち上げてこっちを見ていた。


「今朝の多那橋の事件が早速更新されていて皆見てんだよ」

「てか、いきなり話し掛けてきたから何事かと思ってちょっとビビった」


 しかし茅原は、その男子生徒の話の内容よりも話し掛けてきた事自体を話題に挙げた。


「あ、いや、教えてやりたい気持ちが暴走してしまった。驚かしたなら許してほしい」


 男子生徒は妙におたついたような演技をしながら明悟達に詫びて見せた。


「あっ、いや、大丈夫。ほんのちょっとだけ『えっ、なんでコイツわたし達の会話に割り込んで来てんの?』って思ったけど別に驚いたりとかはしてないよ。教えてくれてありがとう」

「いや待って! 驚かしてはないけどスゲー嫌がられてる!?」

「いやいや無い無い大丈夫。ちょっとウザいと思ったけど全然問題無い」

「お前辛辣! それスゲー辛辣!」


 ……こういう若者達のじゃれ合い、再現はおろか付いて行くのも難しいなと、明悟は観察しながら思う。


 茅原とこの応酬をしている男子生徒・樫井良治かしいりょうじは、茅原とは多那橋の同じ中学からの知り合いとの事。両者とも外向的な気質で率先して周りに話し掛けていく性質で、中学の頃からこのような気の置けないやり取りをする仲だったらしい。


「シェイプシフター……のサイトって、ドッペルゲンガーも紹介してるんだね?」


 ひとしきり馬鹿をやった後で小野が樫井に尋ねる。


「ああ、してるしてる、がっつり」

「前に視た時、シフト・ファイターの人について凄く細かく載っていてビックリして、シフト・ファイターを扱ったサイトだって勝手に思い込んでた」

「ああ……、若干引くレベルの情報量だからな。まぁ、だから人気が有るんだろうけど」


「ここで頭の悪い質問をさせてもらうけど」

 小さく挙手しながら茅原が言う。


「おう、頭の悪い茅原の質問を訊こう」

「ッ……! おい、頭が悪いとか言うな!!」

「いや、お前が自分で言ったんだろ!」

「頭が悪いのは質問の内容の方! わたしじゃなくて!」


 小野を一瞥すると、困ったようだが楽し気な笑顔を浮かべた彼女と眼が合ってしまった。お互いに小さく笑う。


「ああ、悪かった、さっきのは取り消す。頭の悪くない普通の茅原の頭の悪い質問を訊くよ」

 あからさまに含みのある言い方に茅原は「う~……」と不満を漏らすように呻いたが、それについてはそれ以上追及しなかった。


「そのサイトの名前のシェイプシフター……、そりてぃ?」

「ソリディファイ」

「そうそれ、ソリディ。それってどういう意味なの?」

「まずシェイプシフターは意味わかるよな?」

「いや……、そこからさっぱり」

「oh……」

 樫井は大袈裟に天を仰いだ。


「シェイプシフターというのは、姿を変える妖怪や怪物の総称だよ」

 明悟は思わず説明してしまった。

「形状や姿を表す『shapeシェイプ』を自由に『shiftシフト』、つまり変化させるから併せてシェイプシフターという訳だ」

「なるほど、魔犬やドッペルゲンガーは姿を変えられるから纏めてシェイプシフター扱いなんだ」

 茅原は手を叩いて納得の意を示した。


「え、じゃあソリディファイは?」

「『凝固させる』とかそんな感じの意味」

 今度は樫井が説明を請け負った。


「『シェイプシフター・ソリディファイ』っていうのは要するに、姿が不定な怪物を凝固させて姿を明確化したい、正体不明な魔犬やドッペルゲンガー、あとシフト・ファイターの性質をみんなで情報を集めてハッキリさせたいっていう意図があるサイト名なんだよ」


「……シェイプシフターとかソリディファイとかって、高校の授業で習う単語?」

 物凄く真剣な顔をしながら茅原が問うた。

「いや、まぁ習わないだろうな」

 樫井が答える。

「ならわかんないよ。わかんなくて当然だよ」

「お前それ、最高に頭が悪い発言だぞ」

「……ッ! だから頭が悪いとかそういう事言うな!」

 茅原は拳を振り上げ殴ろうとするようなジェスチャーをし、樫井は半笑いしながら

我が身を庇う。勝手知ったるという感じだ。


「前から疑問に思っていたのだけど……」


 明悟がそう口にする。三者の視線が自分に集まってきた時、明悟は少しだけ物怖じした。今自分が口にしようとしている『疑問』は今この場で、女子高生を演じながら口にするには不適切ではないかも知れないと、少し後悔した。『同級生達』との距離感を掴むのはとても苦労する。近付き過ぎるのは危険だが遠ざけ過ぎて只の傍観者になれば何のために『鶴城薙乃』を演じているんだという話になる。


「『シェイプシフター』という言葉の定義の範囲が少しあやふやなんだ」

 明悟は覚悟を決めて口火を切る。


 樫井は難しい顔をして唸った。それは『薙乃』の話に困惑しているというより、これからの話題を腰を据えて聴こうという態度の表れのようだった。


「それこそソリディファイのサイトではドッペルゲンガーも魔犬もシフト・ファイターも十把一絡げに『シェイプシフター』として扱っているけれど、『シェイプシフター』の本来の語用から考えるとシフト・ファイターは含むべきでは無いと……、思うんだけど、どうなんだろう? シフト・ファイターはただ魔素を纏っているだけな訳だし……」


 樫井の目の前に『魔素を纏っているだけのシフト・ファイター』では無い例外中の例外が存在する訳だが、一般例からは大きく外れるのでここでは無視する。


「……十把一絡げなんて言い回し、久しぶりに訊いた。渋いな」


 明悟の話を訊いて一瞬後に出た樫井の反応がそれだった。


「……あんまり言わない、かな?」


 明悟は平静を装ってそう返した。大丈夫、『世間から少しズレた感性のボーイッシュなお嬢様』を演じろ。


「いや、十把一絡げはいいんだけど、質問自体が渋いな。うん、流石コアだわ」


 樫井は居住いを正しながら感慨深げに言う。明悟は一瞬、どういう表情をしたらいいかわからなくなった。


「確かに『シェイプシフター』と『魔素体』ってほぼ同じ意味合いで使われているよな、日本では」

「形状を変化させる『シェイプシフター』と魔素の身体の『魔素体』だったら確かに全然意味が違うよね?」

 小野が二人のやり取りを見守る様に恐る恐る確認をする。


「ああ。アメリカではかなり早い頃から魔犬やドッペルゲンガーを『シェイプシフター』と纏めて呼んでたんだけど、日本ではシェイプシフターって単語がマイナー過ぎて、『魔素体』って言葉が定着するまでは飽くまでも『魔犬』と『ドッペルゲンガー』は別々に扱われていたんだ。それで魔素体という言い方が日本で広まった辺りで『アメリカでは魔犬とドッペルゲンガーを纏めてシェイプシフターと呼んでるらしい』っていうのが知られるようになって、魔素体=シェイプシフターっていう間違った訳が日本で広まったんだ」


「成程、やはりシェイプシフターにはシフト・ファイターを含まないか」


「含まない、はず」


 ……『はず』とは付け加えたが、樫木の言い方は酷くキッパリしていた。


 ――樫井の話を元に正しい語用でのシェイプシフターと魔素体の差異は端的に表すとこうなる。



シェイプシフター = 『魔犬』『ドッペルゲンガー』 

         ≠ 『シフト・ファイター』


魔素体 = 『魔犬』『ドッペルゲンガー』『シフト・ファイター』



「ただ誤訳が定着した前提で世間ではシェイプシフターって呼称を使ってる場合が多いよな。ソリディファイでも海外の文章を引用する時以外は魔素体=シェイプシフターで通してるし」

「……成程。定着した誤訳を無理に訂正しようとして余計に解り辛くなるという事は往々にしてある」

「そういう事。……そういや英語で『魔素体』ってなんていうんだっけ。スゲーインパクトのある呼び方だったはずだけど」

「エーテルフィギュア」

「そうそれ! 中二病全開でヤバい奴!」


 『中二病』『ヤバい』。この場の文脈では恐らく両方『格好良い』という感じの意味なのだと思われるが。


「シェイプシフターに対して、エーテルフィギュアという言い回しはあまり聞かない気がするな」


 ……話題を口にしつつこの辺りで明悟は、自分の内面が鶴城薙乃の演技の化けの皮が剥がれ鶴城明悟に戻りつつあると感じ始め、内心拙いと感じ始めていた。


「アメリカの方ではシェイプシフターとシフト・ファイターは完全に分けて考えられているみたいだしな。てか、確かアメリカではシフト・ファイターの事は『ヒーロー』呼びが一般的なんじゃなかったかな? アメコミとかの影響で」


「『ヒーロー』とは……。なんと、まぁ……」


 明悟は樫井の話に目を丸くした。なんとまぁ、朗らかで能天気な称号だろうか。


「日本でも一時期『正義の味方』と呼ばれていた事があるな。まだシフト・ファイターの呼び名が広まっていない時分に」


「寧ろアメリカでは後々になってからヒーロー呼びが定着していったみたいだな。なんだろうな、国民性の違いってヤツ?」

「ふむ、なるほどな……」

英雄に対する寛容さの差異だろうか? 彼の国らしいと言えば彼の国らしくはあるが。


 そこでふと、明悟は目の前の樫井の視線の違和感に気付いた。ある種の驚きと興味を視線の先の人物に対して感じている様な、そう、瞳が輝いている。


「鶴城さんって、なんか、格好良いって言うか、雰囲気があるよな」


 樫井が心底感心しながら、秘密を打ち明けるように呟いた。


「……な!?」


 明悟の背筋に変な汗が流れた。


「いや……、喋り方が凛々しいっていうのもあるんだけど、一本筋の通った自分の世界? みたいなものを持ってる感じがして、ブレが無い感じが、なんか格好良い」


 茶化しているようでは無く言葉に屈託が無い。いや、かなり意識的に無難な言葉を選んで表現をオブラートに包んで屈託無い風を装っている点が屈託と言えなくも無い。年頃の少年が、年頃の少女に対して意識的に一歩踏み込んだセンシティブな話題を取り上げる時の緊張感とそれを気取られない様に装う態度が言葉の随所に感じ取れた。緊張感と気遣いが嫌という程伝わる。それがわかるのは自身にも似たようなアプローチを異性に――つまり女性に気を遣い気を遣い試みてきた経験があるからだ。そして、その気遣いと緊張感の下に隠れた異性に対する『興味』を樫井良治から向けられているという事実を彼の口調と視線から感じさせられ、明悟は不意に自身を顧みた。鏡に映った、下着姿から制服に着替える凛としてかつ蠱惑的な少女の姿を幻視する。非常に居心地が悪く、居た堪れない気分になるが、それをおくびにも出さない様に細心の注意を払う。気を抜くなよ、自分がどんな姿で何をやっているのか意識しろ。


「格好良いか……」

 明悟は、『悪い気はしていないがそれ以上に戸惑っている』という態度を演じながら答える。

「それは、褒められていると考えていいんだよね……?」


「おい! 変な事言うから鶴城さん驚いてるじゃない!」


 樫井がリアクションする前に、妙な空気を感じ取った茅原が樫木に噛み付いた。小野の方は、妙にキラキラした眼差しを明悟と樫井に交互に向けていた。小野に諸々の勘違いを指摘してやりたい思いに駆られたが、それは叶わぬ願いだろう。


「いや、いやいやいや、変な意味じゃなく! 純粋な感想! 悪気は無い!」


 詰めた間合いから全力で後退し、予防線を張り始めた。明悟は内心ほっとしたが少しだけ樫井がかわいそうになった。


「つか、茅原にもわかるだろ! 鶴城さんのイケメンっぷり!」

「あ、うん、それはわかる」

 だが樫井の意見には茅原はあっさり同意した。


「うん、あのー、わたしも格好良いと思っちゃった」

 小野にまで同意されてしまうと、明悟は「参ったな……」と苦笑いするしかなくなってしまった。


「アメリカでの魔素体の呼ばれ方とか話しているのが、なんかプロフェッショナルっぽくて格好良かった」

「まぁ、オタク知識の延長線上だからな。大したことないですよ」


 小野が声を弾ませて感想を口にすると、ここで何故か樫井は人差し指を伸ばした指を前頭部の右前辺りに添え、気取った口調で恐縮してみせた。


「いや、なんでこの流れでアンタが褒められてる解釈になるのよ」

 呆れながら茅原が言う。


「いやだって、さっきのディスカッションは俺と鶴城さんの共同作業みたいなもんだし? 間接的に俺が評価されていると考えるのはあながち的外れでも無いのではないかと」


「共同作業とか言うな、気持ち悪い」


「ちょっ……! 気持ち悪いっておい!」


 二人のやり取りに小野は困ったように小さく笑い、「あ、でも樫井くんもほんのちょっとだけ格好良いと思ったよ」と『ほんのちょっと』の部分を力強く強調しながら小野がそう言うと、樫井は力強くガッツポーズしながら「っしゃあぁぁぁ! 褒められたぁ!!」と小声で絶叫した。少年のそんな様を見た茅原は「もう、小野さんは優し過ぎるよぉ」と呆れながら笑う。


 明悟は寛いだ様な笑みを何とか浮かべながら、若者達の目まぐるしいやり取りに着いていっている風を装っていた。


 

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