10 -女子高生の疑似人格-
玄関から庭に出る。石畳を門まで歩いていると村尾(夫の方)が庭掃除をしているのを見掛ける。「行ってくる」と明悟が声を掛けると、彼は「ああ、いってらっしゃい」と手を上げる。その表情が、眩しいものに対して眼を細めるような優し気で、慈愛に満ちているのだ。そんな、孫娘に向けるような表情は止めて欲しいと心の中で思ったが、触れないでおいた。無論、彼も目の前の少女の『中身』については把握しているが、村尾夫妻も栄美が両親(明悟の息子夫婦)と共に里帰りしてきた時は非常に可愛がっていた。彼らは彼らで思う所があるのだろうが……。
門の傍に留めてある自転車の籠にスクールバッグを入れ、バッグの脇に取り付けた白い仮面を外し、それを被る。新哉市は魔素体浸透域から離れてはいるものの、警戒レベル2に指定されている地域で、屋外に出る際には仮面の着用が義務付けられている。
門を開き、自転車を押して屋敷を出て、自転車に跨る。
屋敷から最寄り駅に向かう道は緩やかな下り坂になっており、あまりペダルを漕ぐ必要が無い。空は昨日に引き続き快晴、山の麓まで続く広大な田園風景を自転車で走りながら眺めるのは中々気持ちがいいが、仮面によって顔を隠しているので爽快感は半減である。そもそも自転車での登校を始めた最初の頃は仮面を被ったまま自転車に乗るのが大変だった。自転車に乗る事自体数十年ぶりだった上に仮面により限定される視野に慣れなければならなかった。
安全保障の一端を担う明悟の見地から言っても、新哉市の屋外での仮面の着用は必要である。山の麓や田畑の各所に魔素体を感知するモニタリングポストを備えた電柱が立てられており、監視網は十全、新哉市の民家が密集する区画や駅前にドッペルゲンガーが現れる可能性は皆無ではある。しかし、魔素体を感知してから自衛隊なりIKセキュリティなりが対応するまでには若干のラグが有り、山を越えて麓に突然現れたドッペルゲンガーを運悪く発見してしまう、などという可能性もゼロではないのだ。ハッキリ言って、新哉市は浸透域の愛知県中心部と、安全地帯である多那橋とその先の静岡県の緩衝材としての役割を押し付けられてしまっている。それゆえの警戒レベル2である。
自転車は田園地帯を抜け民家やアパートが並ぶ市街地に入って行った。程無くして視界の開けた広場、新哉駅のバスターミナルに出た(バスターミナルと言っても、バスがすれ違う程度の広さしかないが)。その先の野天の月極駐輪場に自転車を停めた。
駐輪場を出た辺りで丁度バスターミナルにバスがやって来る。停車し、扉を開き、乗客を吐き出す。バスから下車する人々は皆、似た様なデザインの白い仮面を被っている。……スーツ姿のサラリーマンやOLが一様に仮面を被って歩いている様を初めて見た時、恐怖感を抱かなかったと言えば嘘になるが、今では慣れてしまった。慣れとは恐ろしいものである。そもそも、斯く言う自分も仮面を被った女子高生なので、周りをとやかく言う筋合いは無いだろう。明悟はスカートをはためかせ何食わぬ足取りで、風に煽られ乱れた黒髪を手串で整え、バスから降りる仮面の行列の端に加わった。
新哉駅は決して大きい駅では無い。山村と呼んでも差し支えないレベルの地方都市の中心地でしかないが、多那橋市への通勤・通学客により朝方はそれなりに混み合う。向かいのプラットホーム、長野県方面への乗客は殆どいないが、こちら側のプラットホームには白い仮面を被った乗客がずらりと並んでいる。
女子高生を演じている明悟としては、仮面で顔を隠せる駅や電車内での時間帯は(比較的)気が楽である。表情を作る必要が無い。遠くの景色を眺めながら直立していればそれ以上の演技は必要無い。何処かから視線を感じたとしても気付かぬ振りをして無視しておれば良い。神経を擦り減らす時間帯は少ないに越した事は無い。仮面に感謝したい所だ。
「鶴城さん……、鶴城さんだよね?」
後ろの方から名前を呼ばれた。振り向くとそこには同じ仮面と、同じブレザーの制服を着た少女が立っていた。ブレザーの襟元のワッペンは明悟のそれと同じ赤色。即ち一年生である。
「おはよ~」
温和な口調で手を振りながら挨拶する彼女は、同じ中学校に通っていたクラスメイト、
年相応の少女を演じるに際し、どのように演じるのが『適切』か、その方向性を決めなくてはならなかった。
「過剰に女の子を模した喋り方に無理があるとお感じでしたら、そうですね……、むしろ『少年的』な喋り方を意識してみては如何でしょうか?」
そう提案してきたのは秘書だった。
「……少年的?」
最初のそう言われた時、明悟はあまりピンと来なかった。
「どうして女の子を演じようという時に『少年』が出てくんだ?」
「まぁ、妥協案ですね。違和感無く自然な気持ちで女の子として過ごすならば口調は本来の会長のもの近い形が理想だと思うのですが、その、会長の喋り方をそのまましてしまうと……」
「まぁ余りにも横柄過ぎるな」
「あは、そうですね……。それで間を取って『少年的』な感じです。
会長も、かつては少年だった訳ですからその頃を思い出していただければ、思春期の女の子をイメージしながら演じるよりも幾ばくか楽だと思います」
かつて少年だった自分。
明悟はその言葉を反芻する。かつての自分はどんな少年でどんな喋り方をしていたのか? 子供の頃の思い出として真っ先に思い浮かぶのは油の匂いと鉄がぶつかり合う音に満ちた工場。小学校の放課後に親父に連れられて会社のトラックや建設機械の工場を見て回った事。工場現場でどのような仕事が行われているのかを息子に覚え利かせ叩き込む事が親父なりの『帝王学』だったらしい。働いている工員にちゃんと礼儀正しく挨拶しなければ親父に本気で引っ叩かれたのを異様にハッキリ覚えている。と言うより、工場の様子や引っ叩かれた時のインパクトが強過ぎてそれ以外の記憶が中々想起出来ない。自分は、一体どんな『少年』だっただろうか。
「……それは、間を取れていると言えるのか?」
「ええ、ええ。わたしのイメージでは中々悪くないです」
明悟の過ぎ去りし日々を知ってか知らずか、秘書は喜々として捲し立てる。
「少年と言いましてもガサツな感じでは無くてですね、快活かつ礼儀正しくて、人懐っこさと凛々しさが絶妙にブレンドされたような物腰を有しておりまして、」
秘書が眼を爛々と輝かせながら熱弁する。
明悟は、気圧されるという以前に言っている事がいまひとつ上手くイメージ出来なかった。明悟の少女としての振る舞い、『薙乃』としてのライフスタイルの助言をこの秘書から求める事が多く、殆ど薙乃として振る舞うための指南役と呼んで差し支えない程だった。ただ、時としてこの秘書の異様な熱の入り様に困惑させられる事がある。真剣に仕事に臨んでくれていると理解は出来るが、明悟がいまひとつ理解し得ない過剰な熱意を帯びる気配が有る。
「王子様、というのとは少し違いますね……。こう、ピーターパン的みたいな、本来成長するはずの無い彼が大人の憂いを理解してしまって、でも本質的な無邪気さや純粋さは失わないみたいな。そしてそれと共に、思春期の女の子でありながら男の子っぽい喋り方や性質が抜け切らない事への含羞を滲ませつつ……、あの、会長はピーターパンはご存じですか?」
急にクールダウンして秘書が質問してきた。
「いや、タイトルを訊いた事がある程度だな。内容までは」
そもそも、ピーターパン以前にこの秘書の言っている事がさっぱりピンと来ない。
「早急にディズニーと名作劇場の映像データを入手しておきます」
秘書は鼻息荒くして自身の手帳にメモを叩き込む。
……秘書の気勢はともかくとして『少年を演じる』という方針は合点が行く部分が
有った。研究チーム曰く、必要なのは鶴城薙乃としてのパーソナリティのチャンネルであって必ずしも『女の子らしさ全開』である必要は無いとの事。つまり、『環境のせいで男っぽいさばさばした喋り方をしてしまう(秘書談)』少女のパーソナリティを完璧に構築できれば、それは十全に要求を満たしている事になるのだ。中学校において年頃の少女の様な振る舞いをせねばならないのかと明悟は半ば戦々恐々としていたので、秘書の演出プランによって多少救われた気分になった。
身体の重心を切り替えるのと同じだ。ある意味、家庭での自分と仕事での自分を切り替えるのにも似ている気がする。しかし、今から行う切り替えは、意識的に行わないとボロが出てしまうという点で過去のそれよりもずっと心を擦り減らせる。
「おはよう、小野さん」
明悟は微かな驚きを滲ませつつ努めて朗らかに挨拶をした。
「よかった~、正解だ」
小野は明悟の隣に並ぶ。
「人違いだったらどうしようっていっつもドキドキする。鶴城さんが髪型変えたら自信無くて話し掛けられないかも」
「……それは私もそうだな、自信が無い」
小野の髪型は、ややくせ毛気味のセミロングをお下げにしている。確かに明悟も、髪型を見て人物を判別している部分が有る。隣に居るのは明悟と同じ制服を着て、似た様な仮面を被った少女で、気を抜けば鏡が傍にあるような錯覚に陥る。
「……ああ、そうだ、鶴城さん、体調は大丈夫?」
小野が控え目に探る様に尋ねる。
「ああ、念のためだと言われて、休まされた。今日は何ともないよ」
「高校入ってからは初めてだよね?」
「うん……、いままでずっと調子は良かったんだけどな」
やや気取った様な、それでいて少年らしさと少女らしさを含ませた疑似的なパーソナリティをさり気無い風を装って全力で演じる。
昨日は平日で、魔素体の捕獲の為に高校を体調不良を偽り休んだのだ。薙乃の姿で中学校に通い始めた初期の頃は、変身時間が足りなくなったり、能力の測定などで学校を休む事が多々あった。小野にはその頃の印象が強いらしく、しばしば薙乃の体調を慮ってくれる。……嘘に嘘を重ねていく感覚に微かな罪悪感を呼び起こされたが、明悟は無視した。最早そんなものに構ってもどうしようもない。罪が消える訳でも免罪符になる訳でもない。
「ノートが必要なら貸してあげるから言ってね~」
と柔らかな口調で小野は言う。仮面で表情はわからないが、多分笑顔だと思われる。
「ああ、恩に着るよ」
自然に漏れた笑顔と共に明悟は言う。仮面で表情はわからないだろうけれど。
「いえいえ、困ったときはお互い様ですよ」
明悟は小さな笑いで返した。その時丁度、プラットホームに電車到着のアナウンスが流れる。
多那橋市。
愛知県の南東部、静岡県との境界に接した地方都市。広い平地に位置し、古くから陸路・海路の要所として栄えた土地だが、魔素体大禍以後その性質は大きく変質させられた。愛知中心部が魔素体に脅かされた事により大量の難民が流入。更に県庁など県の中核を担うための機能の大部分がこの地に移転され、名実ともに県の中心地となってしまった。流入した人口に対応するため空き地は漏れなく公団住宅が作られ、それに伴い工場や商業施設も次々増やされる。これは各地の衛星都市に見られる傾向で、手放しで喜べない地方再開発が世界各地で行われている。多那橋については特に、世界規模に展開する自動車会社の新本社工場が多那橋北部に再建される計画が進行中で、経済界でも非常に重要なトピックスとして扱われている。そう言えばIKセキュリティのロボットや装甲車のメンテナンスを行っているスタッフの何名かが元々自動車部品を造っている工場で働いていた難民で、件の自動車工場の再始動に伴い工場の移転・再稼働を準備しているからウチに戻ってこないかとかつての部品会社の人間から声を掛けられているという話を訊いたが、あの件はどうなっていただろうか? 『本丸』が再始動するなら専門分野で働きたいというのも人情、わからなくも無いが。ううむ、魔犬捕縛の計画に傾注し過ぎていて経過を訊いていない。まぁ、人事部に任せておけば問題無い案件だろうが――
「鶴城さん鶴城さん」
傍を歩く少女の声に、明悟は現実に引き戻された。自分の現実、女子高生として学友と共に登校をしている現実に。
「ん、ああ、なにかな?」
「やっぱり、いつもより仮面を被っている人が多いよね」
小野にそう指摘され、明悟も多那橋駅を行き交う利用客の顔に視線を走らせた。
魔素体大禍以後も、多那橋駅は交通の要所である。
北へは長野、東へは静岡、南へは渥美半島に続く線路が伸びており、三方からの人の流れを集約する中心地として機能する。かつてはここから西の愛知県中心部へと続く路線が伸びていたのだが、それは魔素体浸透域により分断され、今は自衛隊の専用貨物列車のみが利用している状態だ(その貨物列車すら数駅先の蒲香(かばか)駅より向こうへは行かない。そこから先は魔素体浸透域に指定されている)。西への進路が立たれた事により多那橋市に都市機能が集中し、多那橋駅は通過点ではなく目的地となった。
各路線は全て地上にあり、東から西へ緩やかなスロープを形成する橋上駅舎に登ってから別の路線の改札に入り直し、また地上に下るという構造になっている。現在は朝の通勤ラッシュ中、別の路線に乗り換えようとする者や駅舎から地上に出てバスに乗ろうとする人々が入り乱れ、駅舎内は勤め人や学生でごった返していた。
「確かに……、いつもより多いな」
明悟は小野の指摘に同意した。確かにいつもより仮面を被っている者が多い。
「やっぱり朝のニュースの影響かな?」
「多分……、そうだね」
多那橋市の魔素体警戒レベルは1、基本的に警戒レベル1の地域では屋外での仮面の着用は義務付けられていない。しかし警戒心の強い者、或いはドッペルゲンガーに恐怖心を抱いている者達には外出時には必ず仮面を被るという者も少なからず居る。それに警戒レベル2の地域からやって来てそのまま仮面を被ったまま出勤・通学をするという場合、また逆に警戒レベル2の地域に通勤・通学するというケースもあるので、『平時』の多那橋駅内でも仮面を被っている者はちらほら居る。
しかし今日は、仮面を被ったまま通勤・通学をする駅利用者の割合が圧倒的に多い。明悟同様に今朝のニュースを視て警戒している者が多いという事なのだろう。
「やっぱり今日は仮面を被ったままの方がいい? 取ると危ないかなぁ?」
二人が通う高校へは、橋上駅舎から階段を下り駅を出て、西方向へ向かうバスを利用する。同じ学校の制服を着た学生達や勤め人らしい大人達が順番待ちをするバス停に同じように並んでいる時、小野は明悟に尋ねた。勉強でわからない所を訊いてくる時と似通った日常的なトーンだな、と明悟は密かに思った。ただ、そう訊いてくる小野も未だに仮面を被ったままである。そして、明悟自身も。
「……本来は多那橋でドッペルゲンガーの被害が出るというのは有り得ないんだ」
小野が真剣に自分の話に聞き入っているのが仮面越しからでも感じ取れた。今、明悟はある意味専門家としての意見を求められている様なものかもしれない。小野は『鶴城薙乃』の立場、薙乃が藍慧重工及びIKセキュリティの会長の養女だと知っており(無論、その養女の正体は知らない)、事情に通じた者の的確な私見を期待しているのだ。
「ただ、実際私もニュースで視た範囲の事しかわからないんだけどね……」
一応そう前置きをする。世間話の延長のようなニュアンスで話題を振ってくれているのはわかるけれど、求められればわかる範囲で真剣に答えたいという気持ちが働く。業界関係者のプライドである。
「相当に例外的な事態でない限り、名古屋の方から歩いてきたなら新哉市か蒲香の防衛ラインの辺りで発見されるはずなんだ。野生動物と違って、直立でただ歩くだけのドッペルゲンガーはよく目立つ。モニタリングポストの警戒網もあるし」
「でも、相当運が良いドッペルゲンガーなら誰にも見つからずモニタリングポストの抜け穴を通って多那橋まで来てしまうって事は?」
「まぁ……、無くは無いけど、低い確率だね」
実際はほぼ有り得ないと言っても良いのだが。それから、ドッペルゲンガーの運の良し悪しに注目する小野の感性を純粋に少し面白いなと、明悟は密かに思った。
「……『相当に例外的な事態』っていうのは例えばどんなものなの?」
「考えたくないけど、人為的にドッペルゲンガーをけしかける可能性はある」
「人為的……」
例によって仮面で表情は読めないが、少なからず戸惑っている事は声色から読み取れた。
「例えば、浸透域でドッペルゲンガーを一体生け捕りにしてバレない様に多那橋まで運んで人を襲う様に仕向ける」
「……そんな事をする人が居るなんて考えられない」
小野はドッペルゲンガーを持ち込む方法の是非ではなく動機に疑問を持った。ドッペルゲンガーをバニラ状態で捕獲して自衛隊の防衛線を超えて市街地に持ち込むなど民間人の素人にはほぼ不可能なのだが。
「まぁ、それくらい突飛な可能性を考えないと有り得ない――」
ここで明悟は、自分の話しぶりや話す内容が果たして通学途中に同級生に対するものとして適切かどうか自問した。小野が纏う空気がおかしい。話の内容では無く、薙乃に対して戸惑いを感じ始めているように思えた。
「――という様な事を今朝義父さんが言っていたよ」
という形で話を軟着陸させた。
「仮面は多分……、付けていた方がいいと思うよ。まだ何が原因かわからないからね」
少なくとも第二の被害者が出ない事を確認するまでは、と明悟は心の中で付け加えたが、無論薙乃の唇からそれを発する事はしない。
「……1匹見たら30匹居ると思え?」
小野は神妙な声色で恐る恐る冗談を言った。
「ん、1匹見たら30匹居ると思え」
明悟は小さく笑いながらリフレインした。
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