9 -魔法少女開発計画-
黒のソックスを履いてから紺のリボンタイを首に巻く。最初から結んであるリボンを襟元に合わせるだけなので(背広のネクタイと比べると)楽である。位置を整え、胸元のリボンタイをきっちり身に付けた自分の姿を鏡で確認したブラウスとプリーツスカート姿の修羅は、満足げに小さく頷いた。
着替えが済んだのでそのまま居間に向かう。廊下を歩く際、改めて自身の身体のバランスが変わっている事に注意する。それに、心持ち明悟の姿の時より背筋を張るようにする。……乳房の重みで猫背気味になっている事を以前秘書に注意された。
居間のちゃぶ台に朝食が一膳用意されていた。明悟と千恵子が移り住む以前からこの屋敷の管理させていた村尾夫妻に現在も屋敷の管理・家事全般を委託している。老人一人にはこの屋敷は手に余る。この朝食も村尾夫人に用意させているものだ。広い居間のちゃぶ台にぽつんと一汁一菜の簡素な朝食が用意されている光景は寒々しいものを感じさせられなくもないが、もう今は慣れた。
ちゃぶ台の端に置いたリモコンを、両腕を広げた程度のサイズのテレビ画面に向け(鏡の様な黒いディスプレイに自分と全く同じ動作をする制服姿の少女が映っていて一瞬ぎょっとしたが、自分の姿に驚いてどうする)、電源を入れる。プリーツスカートに皺を作らないように注意しながら正座し、小さな声でいただきますと呟き合掌。テレビ画面に目を遣りながら味噌汁を啜り小鉢の煮物に箸を伸ばしたが、暫くしない内にその手と箸が宙で止まった。
明悟は、テレビ画面に釘付けになっていた。テレビに映っていたのはニュース番組で、いつものタイムスケジュールなら全国のニュースを放送しているはずの時間帯だが、現在放送されているのはどうやら愛知の多那橋市についてのニュースらしい。それは、明悟が今から登校する高校がある町である。
ニュースのテロップにはこうある、多那橋にドッペルゲンガー出現か!? 二十代女性意識不明の重体、と。
ニュース曰く、昨日の未明、多那橋の中心地から外れた住宅地で意識を失って倒れている女性が発見された。病院に搬送され調べたところ、ドッペルゲンガー被害者特有の著しい脳機能の低下が確認され、女性は未だに意識を回復していないとの事。
……姿をコピーしたドッペルゲンガーと相対して一命を取り留めた例は非常に稀だが存在する。ドッペルゲンガーによって死に至るプロセスには、姿をコピーしたドッペルゲンガーの顔を視て『自分と同じ顔をしている』と認識するタスクが必要になる。つまり、自分の顔を完全にコピーされたとしても、その顔を自分の顔だと認識しなければ死なない可能性があるのだ。例えば、コピーされた直後やコピーが完成する前にドッペルゲンガーの姿を視界から外すというようなケースなら有り得るのだが、それでも全くの無事という訳にはいかず、何らかの脳障害・記憶障害が残る場合がある。逆説的に、何の外傷や病状も無く脳の機能不全・機能低下が確認されれば、それはドッペルゲンガーの被害なのではないかという仮説が立てられるのだ。
明悟は茶碗と箸をちゃぶ台に置き、すくと立ち上がった。そして足早に居間を出て、自身の書斎に向かった。この古民家においては異質な洋風設えの書斎に鎮座するデスクの上に置かれたスマートファンを手に取る。……瞬発的に携帯電話を手にしてみたものの、先程のドッペルゲンガー被害のニュースは直接明悟に関係あるトピックスという訳では無い。IKセキュリティの主な業務は、未だ魔素体が闊歩する危険区域での魔素体の分布調査やモニタリングポストの設置、自衛隊の作戦行動のバックアップ等だ。銃後の市街地の安全確保は業務範囲外なのだ。間接的には関係してくるであろう事柄ではあるが、火急に何か対策をせねばならないという訳では無い。ドッペルゲンガーというキーワードに過剰反応してスマートフォンを確認してしまった感は否めないが、そのスマートフォンに目を遣ると、メールを一件受信していた。差出人は自身の秘書である。
メールの内容は案の定多那橋の事件についてだ。被害女性の症状を詳しく調べると共に、女性が倒れていた現場や各地のモニタリングポストの稼働状況等を自衛隊に問い合わせて情報収集する旨をIKセキュリティから確認する予定である、という事が綴られている。具体的な事は
ぐうの音も出ない内容だった。おまけに最後には『仕事はこちらで片付けておくから会長は黙って学校に行って下さい』と釘を刺されているようにさえ思えた。40歳ほども年下であるはずの秘書に、ドッペルゲンガー出現のニュースに対する動揺を見透かされたようで、頼もしくはあったが内心気恥ずかしくもあった。
メールの返事を考えながら居間に戻る。まぁ、手短に、朝の挨拶と、よろしく頼むとでも。
「あ、明悟さん」
居間に入ると村尾夫人がお茶の湯飲みをちゃぶ台に置いていたところだった。
「まだ、朝食食べますのか?」
殆ど手が付けられていない朝食を疑問に思っていたらしい村尾夫人を前に「あ、いや、まだ食べるよ」と若干申し訳ない気持ちになりながら座る。……食事中にスマホを弄って祖母に咎められる孫、みたいなシチュエーションだな、と心の中で苦笑いし、スマートフォンをちゃぶ台の端に置いた。
朝食後、明悟は屋敷の最奥の洋室、『薙乃』の部屋に入った。勉強机や本棚、小物や箪笥にクローゼットなど、高校生『鶴城薙乃』が持ち得るであろう所持品や調度品が並ぶ部屋で、基本的に明悟が薙乃に変身した時しか利用しない部屋なので整理整頓が整っているというより生活感が無い。
明悟はクローゼットから紺のブレザーを取り出し、羽織り、生真面目にボタンを留める。側面に仮面がぶら下がったスクールバッグを肩に掛け、部屋からの出がけにドアの脇に備え付けてある姿見を覗き込み、身だしなみをチェックする。
屋敷の中には全身を映すサイズの姿見や鏡が意図して多く配置されている。年頃の少女らしく身だしなみをチェックする癖を身に付けさせるためでもあるが、同時に、明悟に自身の姿を意識させる必要があるからだ。少女性の追求の一環である。
……少女性の追求と変身能力の性能向上の間に相関関係が見出されたのは、明悟の変身能力の研究が始まってすぐの事だ。
当時、とにかく取っ掛かりが無かった。まず成人男性が十歳ほどの少女の体格に変身してまた元の老人の姿に戻る事が出来るという現象が研究者達を大きく混乱させた。シフト・ファイターは身体の表面に魔素を纏って変身するものだと考えられていたのだが、明悟の場合、栄美の姿に変身する際背丈が大幅に削れている。余った身長・体重はいったい何処に消えているんだろうかと言いたくなるが、どうも魔犬の
とにかく、データを集めるしかなかった。まず、変身する前と後の身体データを徹底的に収集された。質量すら変化する変身の後で検体(明悟)の身体にダメージなり後遺症なりは残らないと確認出来てはいた、取り敢えずのスタートはそこからだった。
無論、栄美の姿に変身した際のデータも集められたが、研究初期には明悟は1日1回の変身でたったの5分しか変身を維持できなかった。それを終えるとまた丸一日時間を置かねば変身できない。当時広く知られていた範囲での他のシフト・ファイター(魔素体大禍以前、最中に活動していた者達)の活動時間を鑑みても、5分というのは異常に短い。何故五分しか変身できないのか、そして変身時間は延長できないのか、それを調べる事も重要な目標だった。
決定的な契機になったのは7回目の実験の時、変身後の身体能力を検査する2度目のテストでの事。
なにぶん制限時間が短い。だが変身後の体格の違いから、元の姿の時に着ていた検査着(病院で入院患者が着ている様な服)のサイズが合わずぶかぶかになる。なので、当時利用されていた簡易プレハブ倉庫の実験施設内(当時はまだ屋敷裏の巨大地下ドームは完成していなかった)に更衣室を設け変身後にその中で女性研究者と秘書の手により素早く子供用の検査着に着替えさせるという措置が取られた。――この年になって女性に着替えを手伝われるという状況に明悟は多少抵抗を覚えたが、男共が少女を着替えさせる図というのもそれはそれで拙そうなので、了承する事にした。
時間との勝負の着替え。その際に秘書は栄美に変身した明悟の長い黒髪をゴムバンドで素早く纏めた。前回の運動能力検査の時、明悟が長髪を邪魔そうにしていたのが気になっていたらしく、秘書の提案で着替えの時に髪を結う事になった。
その提案自体は別に問題無い。ただそれなら後頭部辺りで一本に纏めてしまうだけで事足りるはずなのに、秘書は明悟の黒髪を二束に均等に分け、全く迷い無い手つきでそれぞれをアップにして頭の上部の両サイドに纏めた。所謂ツインテールである。ほんの一瞬の内に手際良く明悟の髪型をツインテールにしてしまった。そして秘書はすかさず明悟の正面に移動し、自身の『仕事』の出来を再確認した。非常に満足気で、尚且つまるで我が子を慈しむような優しい表情をしていたので明悟の方が気圧されてしまった。
検査着とツインテールの幼い姿で更衣室から出る。途端、プレハブの実験室内に微かなどよめきと溜め息が響き、明悟はまたもたじろいだ。青年・中年・壮年の研究者連中が自分の姿に過剰反応している。中身がただの老人だという事をわかっているんだろうな? 明悟は内心呆れた。
その後ツインテールを揺らしながら測定を行う事になったのだが、異常事態が発生した。5分経っても明悟の変身は解けず、10分23秒栄美の姿を保ち続けたのだ。
……変身終了後、実験室内が驚きと興奮で騒然としている中、今回の実験内容が再検証され、これまでの実験との差異が議論された。しかし程無くして変身した明悟の髪型をツインテールに変えた際に何事かが作用したのだろうという可能性が注目された。これまで変身後の明悟の黒髪を結ったり纏めたりした事は無く、検査内容も前回の身体能力テストの延長線の様なものでそれ程特殊な要素が追加された訳でも無かった
秘書が明悟の髪型をツインテールに纏めた。このトピックスを起点にその後様々な試みが成された。その内、ある一つの仮説が形造られ始めた。変身後の姿と明悟のパーソナリティーの齟齬だ。鶴城栄美がシフト・ファイターに変身するために使っていたコンパクトを明悟が無理矢理使っていると仮定した場合、本来の使用者の人間性とギャップが有り過ぎて機能を十全に発揮し切れていないという可能性だ。
「……それならば、私が自分の事を栄美だと思い込めば、最も効率良く機能を引き出せるという事なのか?」
ある日の会議で、この仮説を研究チームから訊かされた時、明悟は咄嗟にそう質問した。
「いえ……、必ずしもそうとは限りません」
研究チームのリーダーの男、曳山 満(京都の大学で生物物理学を研究していた准教授)は若干焦りを帯びた口調でそう返した。質問した明悟の口調に微かな戸惑いが含まれていた事に明悟は自分で少し驚いた。
「会長が正当なユーザーである事は恐らく間違いありません。サンプルケースが少ないので断定は難しいですが会長以外の人間がコンパクトを持っても何も起こらなかった事からもその可能性は高いですし、何より、より栄美さんに近い性質の人間の方がコンパクトを扱えると言うのなら同性である会長の奥様が変身できなかったのは辻褄が合わない」
「ふむ……」
「ただ、正当な使用権があるのと実際に道具をうまく扱えるかどうかは恐らく別問題なのでしょう。栄美さんが思い描いた正義のヒロインに変身するための道具ならば、栄美さんが理想とするヒロイン像に近付くか、或いはその世界観に共感できるようになる必要があるという事ではないかと仮定できます」
「気持ちを入れて変身しろという事なんだろうねぇ」
同席していた駒木が曳山の補足をする。
「何やら精神論みたいだけど魔素自体がそういう人間の思考を反映する性質があるから、まぁ精神論というのも違うのかもしれないけれど」
「魔素が人間の思惟を読み取る理屈を解明し、その機微を再現性のあるデータにする事が出来れば精神論では無くなりますがね」
「魔法を科学に落とし込む訳だね」
「技術的には途方も無く先の事でしょうけどね。思惟を数値化する方法なんて見当もつかない」
「ふぅむ。……魔犬やドッペルゲンガーを造った人達……が、居たらだけれど、それはどちら側からのアプローチ何だろうね? 感覚的でアナログなモノか科学的な体系を見つけ出しているのか?」
「まぁ、現状では何とも。ただ、確認されている範囲での魔犬やドッペルゲンガーに個体差が殆ど見られない点に関しては前々から気になっていまして……」
……畑違いの学者二人の議論をしばらく黙って訊いていたが、お互いの知識のギャップを埋めるためだけとしか思えないような内容に舵を取り始めたので、「話を戻させてもらうが」と明悟は早々に遮った。
「変身時間を長くするには変身後の姿に対する内面的な理解が必要だというのは理解った。となれば、具体的にはどうするべきなんだ?」
「より理解を深めてもらう必要があるのですが」
曳山はそこで一瞬だけ明悟から視線を逸らし、沈黙の中で慎重に言葉を選ぶ。
「これまでの実験によってかなりの長時間変身を維持できるようになりました。しかしここから先はより高い段階、妙な言い方ですが、より『実践的な』形で栄美さんが思い描いたシフト・ファイターのヒロイン性を、そしてその根幹にある世界観を理解していただく必要があります」
そう説明した曳山の眼差しには、何故だかよくわからないが、死地に踏み出した覚悟のような熱が込められている。違和感を覚え明悟はちらりと駒木の方に視線を向ける。駒木の方もじっと明悟の方に視線を向けており、目を合わせた瞬間バツの悪そうな表情を作る。そして明悟は気付く。曳山や駒木だけでなく、同席していた他の研究者数人が皆固唾を飲んで明悟の反応を見守っているのだ。……その研究者達の只事ではない様子に気付き明悟は思い出す、これまでの実験の内容を。変身中、秘書と女性研究者にワンピースだのドレスだの着物だのサリーだの女の子が着る様な服を着せられ、時には村尾夫人の協力の元家事の手伝いをし、女の子らしい仕草や立ち振る舞いを教え込まれた諸々を。
「……ちょっと待ってくれ。君らは、私に何をさせようと言うのだ?」
補足をすると、明悟が栄美のパーソナリティを完全に摸倣すればシフト・ファイターとしての能力を完全に引き出せるとする明悟の発言に対する反論はもうひとつ発見された。シフト・ファイターの身体が成長しているのだ。成長速度は標準的な十歳女児の範囲内。奇妙なのは、どうも変身していない間、明悟の姿の時もシフト・ファイターの身体は成長しているらしいという事だ。明悟が変身していない間も何処ぞかに記録されているシフト・ファイターの架空の身体はその時間経過と明悟の栄養摂取に併せて成長しているものと考えられる(そして、変身した後は明悟の母体が同様の状態になっているのではないかと仮定される)。……成長する事、それはつまり時間が経てば経つほどオリジナルの栄美とは違う存在に変わっていくという事だ。肉体の成長と心の在り様は不可分なもの、明悟の精神性や日常を介して影響を受けて成長した姿は栄美本来の姿では無く、全く別の少女の在り様なのだ。
何より、明悟には栄美の真似事をするなどという事は耐えられなかった。
少女の姿をしたシフト・ファイターの実験・運用は次の段階に進んだ。それは一個人としてのパーソナリティを明悟の内面、そして社会的な立場を偽造する作業だった。要するに存在しない筈の人間を造り出したのだ。
『薙乃』という名前は愛知県内の魔素体浸透域にあった関係者全員が未だに行方不明の孤児院の少女から拝借したもの。無人になった浸透域で生き長らえ、当時浸透域内の自衛隊への物資輸送を始めていたIKセキュリティのスタッフに保護された少女を明悟が養女にした、という筋書き。断片的な真実から『薙乃』の人物的な背景が組み上げられ、それを元に明悟は『鶴城薙乃』の人物像を造り出し、演じる。
栄美が生きていれば中学三年生になっていた筈の春(今からほぼ一年前)、明悟は薙乃として新哉市の中学校に入学した。厳密には復学という形で、当時は魔素体大禍での負傷や心的外傷により長期間休学している子供が少なからずおり、鶴城薙乃もその一人として数えられた。その頃には、10歳の栄美の面影を微かに残す程度で、早熟な美少女と呼んで差支え無い容姿に成長していた。
女子中学生を演じる学校生活を何とかこなせる様になった頃には、一回の変身をほぼ24時間維持できるようになった。半日だけの変身ならば12時間時間を置けばまた一日分の変身時間を確保できる。しかし現状そこで頭打ちなのだ。昨日魔犬を一瞬で撃破してみせた煌びやかなドレス姿――第二段階に変身すると数秒だけでも大量の変身時間を消費してしまう。第一段階の姿でもその身体能力は常人を上回るが、魔犬や有角魔犬に対抗するには力不足の感が否めない。
明悟(と研究チーム)はじわじわと閉塞感に追い込まれていた。嘘に嘘を重ねた上で次の段階へは今一歩届かない。後戻り出来ない場所まで突き進んできたのにそれが全て無駄事だったかもしれないという恐怖感に苛まれつつあった。
昨日の魔犬捕獲もそういった閉塞感を打破すべく行われた作戦と言える。
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