8  -喪ったもの-




 魔素体大禍の最中、変身コンパクトを手に入れた日の夜、明悟は妻の千恵子と共に現在明悟が住んでいる屋敷でテレビのニュースを視ていた。


 ハッキリ言って当時は、何がどうなっているのかさっぱりわからない状態だった。ニュースはいずれの局も断片的で延々と同じ情報を繰り返すだけで、どうも名古屋一円が魔犬や白い未知の怪物の大量出現で避難区域に指定されたと云う事は報道で何度も繰り返されていた。避難区域に指定されたのは他に東京・大阪・札幌・福岡の四都市。避難区域はそれぞれの市を中心に各都道府県の半分にも及ぶ面積が指定されている。メチャクチャである、こんな数の難民を許容できるキャパシティが何処にあるというのだ? 避難の指示は行われるがその後の生活の保障や中長期の展望については一切触れられない。テレビキャスターの疲弊した所作が、テレビの向こう側の混沌を何よりも雄弁に物語っていた。


 明悟の住む屋敷は名古屋から遠く東に離れた新哉市にあった。愛知県東部の山間部の山間いにある町で、現状避難する予定は無かった。息子夫婦とその長男が避難区域から南東の多那橋に避難しているという連絡を受けていたが、もう一つ、絶望的な報告を受けていた。娘の栄美が行方不明になった、と。


 焦燥感は凄まじいものだった。喰い入るようにテレビを見ていたのも、変化の無い放送の中から孫娘の生存を知らせる放送を視る事が出来るのではないかという淡い期待からだ。


 事態の推移をテレビで見守るだけだった老夫婦の屋敷の中に不意にインターホンの呼び鈴の音が鳴り響いた。

 明悟は縁側から庭に出て、門の引き戸を開いた。


 センサーで点灯する照明に照らされて立っていたのは、孫娘の鶴城栄美だった。


 息子夫婦から前以て訊いていた通りの紺のワンピース姿で、艶やかな黒髪と、切れ長の理知的な眼差しの少女、間違い用も無く、自身の孫娘だった。表情は、何か恐怖を押し殺したように強張っていた。


 明悟は一瞬、余りの事に絶句した。だが明悟は直ぐに、少女を抱き寄せながら歓喜の声を上げた。おおお、無事だったのか! よくここまで来られたなぁ!


 抱きしめられた栄美の身体は酷く震えていた。ここまで相当怖い思いをしてきたのだろうと感じたが、しかし栄美は明悟を抱きしめ返そうとしない。寧ろ、弱々しい力で明悟の抱擁を引き剥がそうとしているようだった。


 明悟は、居間の千恵子を、暫く振りに出した大声で呼んだ。庭に出てきた千恵子は、悲痛さすら感じさせる感嘆を籠めて栄美の名を呼び、駆け出してきた。


 千恵子にきつく抱擁される栄美は、罰を受けているような表情で眼を伏せている。やはり、ただ立ち尽くすだけで抱擁を返そうとはしなかった。


「大丈夫だ。誠一……、お父さんとお母さん、弟も無事だぞ。多那橋の方に避難して

いる。よく頑張ったな!」


 そう言いながら栄美の頭を撫でる明悟の胸中には言い知れぬ違和感が広がっていた。栄美が行方不明になった半田崎からこの新哉までは車でも一時間以上掛かる。栄美が行方不明になってから三日経つ。そんな距離を一人でここまで歩いてきたのだろうか? そもそもこの三日間、栄美は何をしていたのだろうか?


「大丈夫じゃない……」


 栄美は声を震わせながら千恵子の身体を押し返し、引き剥がした。


「大丈夫じゃない……。全然大丈夫じゃないの……!」


 それから栄美はいつの間にか手に持っていた蒼いデザインが施されたコンパクトを明悟に差し出した。おじいちゃん、これ……。


 明悟は差し出されたそれを反射的に手にした。その刹那、明悟の脳裏に不意のひらめきの様なスパークが走った。暗く広い地平、水面に立つ蒼い人影、何だこのイメージは?


 渡されたコンパクトの正体とその意図を問い返す様に栄美を見つめ返すと、栄美は独りで立ち尽くし、泣き崩れていた。


「ごめんなさい……。ニセモノでごめんなさい……。ごめんなさい……」


 声を震わせながら涙を流す栄美の身体から黒い煙が沸き立った。それはやがて全身から立ち上り、やがて栄美の身体自体が玄関の照明の向こうに広がる夜の闇の中に溶けるように消え去っていった。


 ……確かにこの直後は明悟も千恵子もパニックに陥った。ただ、今でも明悟は疑問に思うのだ。あんなショッキングな出来事を目の当たりにしたのだ、狂気の縁から転げ落ち、現実から目を背け心を閉ざすという選択肢を何故選ばなかったのだろうか? 明悟も千恵子もそうはならなかった。深く話し合った訳では無かったがお互いに胸の内で確信してしまったのだ、あれは、栄美の最後の別れだったのではないか、と。二人は当時まだドッペルゲンガーの存在は知らなかったが、世界がひっくり返るような異常現象の数々のせいで、妙に筋の通ったある種の不条理に耐性が出来てしまっていた。明悟にコンパクトを託した栄美の形をした何かが現れて消えた数日後から、千恵子は新哉市の小・中学校や役所に避難してきた人々の為に炊き出しや物資調達の手伝いをするボランティアを始めた。明悟は、黒い粒子となって消え去った栄美の姿をした何者かに託されたコンパクトの正体を探るべく各方面、しかし口の堅い相手を注意深く選んで働き掛け始めた。このコンパクトがただの化粧道具でない事は明白だった。手にしていると、頭の中のどこか未使用の部分が微かに刺激されているような感覚を覚えた。そしてその微かな刺激の中から浮かび上がる様にそのフレーズが現れた。人に抱えきれぬ力を押し付けるその一言、シェイプ・シフト。




 『魔素体大禍』と呼ばれる一連の事件(或いは現象か災害か人災か)は先進国では凡そ二週間に渡り続いた、というのが一般的な認識だ。その終結は完全解決を意味するものでは無く、群れを作り組織的かつ執拗に人間社会を破壊しようとする有角魔犬を一通り退治出来たという事を指す。有角魔犬の明確な害意が魔素体大禍終盤には非常に大きな脅威として認識される様になり、軍隊と連携したシフト・ファイターが殆ど刺し違えるような形で退治したケースや、空爆で都市ごと纏めて吹き飛ばしたケースなど、手段を選ばずあらゆる手が尽くされた。そもそも有角魔犬を放っておくと、通常の魔犬をどんどん集めて避難地域で『狩り』を行おうとするので、一匹でも有角魔犬が生き残っていれば地域の住民の安全が確保されないのだ。


 有角魔犬は退治された。しかし通常の魔犬の脅威は今なお世界の各主要都市に残存し続けている。未だに魔犬が出現する理由は不明のままで、発生が収まった訳でもない。魔素体大禍で激戦区となった場所には魔犬が徘徊し続けている。軍隊は魔犬が発生する地域を囲むように防衛線を張り、魔犬の拡散を防いでいる。社会・経済が立て直しが効かないのではないかと思える程に深いダメージを受けた。各国の地方都市には難民が溢れ、生活の再建の見通しなど全く立たない状態が今なお続いている。


 ……栄美の死が確認されたのは魔素体大禍終結から約一か月後の事だ。亡骸が見つかった訳では無い。大禍の最中、自衛隊と魔犬の交戦地域の市街地で回収された場違いな少女の鞄と紺の衣服の切れ端が、失踪時の栄美の物と一致したのだ。……栄美を喰らった魔犬が自衛隊との戦闘で撃退されたのだろう。魔犬の体内で消化されなかった衣服と鞄が、魔犬の魔素体が収束を失い消失した事で、戦闘地域に残されたと推測される。その知らせを、電話において努めて淡々とした口調の息子から訊かされた時、明悟は密かにほっとしたのだ。コンパクトの話は息子には知らせていない。自分の父親が娘の姿に変身できるなどという異常極まりない上にどうしようもない事実を息子に伝える気にはならなかった。しかし、栄美の死が明確になった事で、安否不明の栄美の影を甲斐無く追い続ける事は無くなったのだ。生きている可能性が微かにでもあったなら明悟も息子と共にその可能性を信じていただろう。しかし、暗い夜の闇に消えていった栄美の姿が、逃れようも無い確実な事実として栄美の死を明悟に突き付けていた。


 対外的には、孫娘の死は鶴城明悟に民間軍事会社を設立させるこれ以上ない切っ掛けとして捉えられただろう。大規模な規制緩和により、許認可を受けた民間企業が銃火器等で武装し軍事的サービスを請け負う事が許される法律が魔素体大禍以後急速に整備されていった。法律の早期の施工に際して既存の警備会社や大手軍需企業(藍慧重工を含む)からの働き掛けがあったのは事実だが、国内の安全が大きく損なわれ、更に国の財政に大きなダメージを受けた状態では、自衛隊のキャパシティでは残存する魔素体には最早対応不可能で、国防を民間へのアウトソーシングに頼らざるを得なくなっていたのだ。


 規制緩和に先立ち明悟は、現役時代に明悟の腹心だった藍慧重工幹部の一人に指示を出し、民間軍事会社設立の準備をさせた。そして設立と共に自身は会長に就任。腹心だった人物に代表職を任せ会社の運営をさせてゆく傍ら、明悟は秘密裏に私財まで投じ魔素体の研究施設の準備を始めた。被験体は明悟自身、栄美の姿をしたシフト・ファイターだ。栄美の姿をした何者かから託されたコンパクトによる変身は何故か明悟にしか行えなかった(とりあえず明悟が変身できる事を知っている関係者十数人にコンパクトを持たせて変身時のキーワードを口にさせたが、変身出来た者はいなかった)。各方面で魔素体の研究を行っていた科学者をスカウトし、明悟を被験体とした魔素体及びシフト・ファイターの研究をさせた(そして、何故か民俗学という畑違いと思える立場で魔素体を研究していた、明悟の高校時代からの友人である駒木景科もチームに参加させた)。


 ……そんな折だ、千恵子が倒れたのは。




 そもそも明悟の引退後に新哉市の旧家(明悟の母方の実家)に隠居したのは、もともと身体が弱かった千恵子を労わる為でもあった。しかし魔素体大禍終結以後も千恵子は、難民が集まる新哉市の市役所や学校などに出向き、しばしばボランティア活動を行っていた。明悟も妻の体調を気にしていなかった訳では無いのだが止められなかった。玄関の門に目を遣ると嫌でも、悲痛な嗚咽と共に消え去って行った栄美の姿が蘇るのだ。気晴らしをして、気丈な振りをする口実が欲しかったのだ、明悟だけでなく、千恵子も。ただ、世界の異常な歪みと孫娘の死は精神面だけでは無く肉体面にも強い負担を与えていた。心より先に肉体に限界が来てしまったのだ。


 病床の千恵子に対しても明悟は、自身が今行っている事、新会社の立ち上げ、魔素体の研究、そして自分が栄美の姿に変身できるようになってしまった事等を報告した。千恵子が、明悟がしている事を訊きたがっていたという事もある。しかしそれ以上に、明悟の方が胸の内にそれらを秘密として抱えていられなかったという部分が大きい。そして多分、明悟は自分の醜悪な罪を妻に糾弾してもらいたかったのかもしれない。


「……若い人達に任せる気は無いんですね」

 しかしそれらを訊いても千恵子は、少し呆れたように笑うだけだった。


「わかりました、天国の栄美ちゃんはわたしが見ておきますから明悟さんは若い人達を助けてあげてください」


 その時自分はなんと思ったのだろう? 明悟は後になって何度も自問した。確か「弱気な事を言うんじゃないよ」とかそういう言葉で叱咤した記憶はある。しかし頭では別の事を考えていた。自分の行いが肯定されホッとしたのか、手酷く非難されず落胆したのか? ただ、「天国の栄美はわたしが見ておく」という言葉が福音のように明悟の心に刻み付けられた。ああ、栄美の事は千恵子に任せればいいのか、と。そして、その言葉に安堵してしまった自分の弱さが酷く下劣で、忌々しい物に思えたのだ。


 千恵子にせがまれ、千恵子の目の前で栄美の姿に変身してみせた事もあった。

「はあああああ、本当に明悟さんが栄美ちゃんになってしまったわぁ」

 言葉は驚いているようだったが、口調はなんだか、ちょっと複雑な電化製品を孫が使いこなしている姿に大袈裟に驚いてみせている様な、和やかで妙に冷静な驚き方だった。確かに、事前に説明した上での変身だったが、やはり、お互いに異常過ぎる世界の現状に慣れてしまっていたのだと思う。


「……現状ではこの姿は5分しか維持できない」

 明悟はある種の照れ隠しで、真面目腐った表情で説明する。布団から身を起こした千恵子の前で正座すると、いつもより千恵子の目線が上の方に有ったので明悟は少し驚いた。


「この変身維持時間をもっと伸ばす事が出来ないか調べるのが当面の目標だ。このままでは実用性などあったものでは無い」


「……明悟さん」

 明悟の説明をちゃんと訊いていたかどうか判断しかねる様な慈しみの籠った表情で、千恵子が言う。


「……なんだ?」


「ちょっと、変なお願いかも知れないのですけど」


「どうかしたのか?」


「その姿の明悟さんを、ちょっと、抱き締めさせてもらえません?」




 千恵子が倒れてから半年間は幾度か入退院を繰り返したが、たまに調子が良くなる日があったものの、じわじわと衰弱していったのが明悟にも見て取れた。生命力・免疫力の著しい低下。魔素体大禍の次の年の夏の初めに、心不全で千恵子は他界した。


 明悟は魔素体の研究に埋没していった。埋没と言っても明悟は研究チームの言われるがままに被験体になるだけだったが、研究内容への理解を深めるために、四六時中研究資料に目を通していた。


 ある時期、自衛隊経由で手に入れた、マスコミがヘリコプターからドッペルゲンガーの大群を撮影した映像を何度も視聴していた事がある。それは東京上空から撮影されたもの。撮影されたドッペルゲンガーの大群の一体がカメラマンの姿に変身する。その映像の端に、映っているのだ、カメラマンとは別のドッペルゲンガーがその白い体躯を変質させ、服を着た成人男性の姿に変わっていく様が。明悟はそのシーンを巻き戻し、何度も何度も繰り返し視聴した。その人物はカメラマンと共にヘリコプターに乗っていた、ドッペルゲンガーにコピーされて死んだスタッフの一人。そのスタッフの姿を模したドッペルゲンガーは、コピーが完了した直後、心底仰天した表情で弾かれたように辺りを見渡し、自分の周りに白い人影が大量に立ち並んでいる状況に絶句していた。そう、先程までヘリコプターの上から眺めていた白い人影の集団の中にいつの間にか自分が立っている事に驚いているのだ。


 これも今となっては広く知られている事だが、人間の姿をコピーしたドッペルゲンガーは、その姿だけでなく人格もコピーする。人間をコピーしたドッペルゲンガーは凡そ数十分から数時間で魔素が拡散して消失すると言われているが、それまでの間はまるでコピーした相手本人であるかのように振る舞うという。


 明悟は、ヘリコプターから見下ろす、仰天し辺りを見渡す男性スタッフの姿を何度も何度も見返した。そこに、渦中の中にいた栄美の最期の姿を見出そうとするかのように。


 何度も想像した。数十体もの魔犬やドッペルゲンガーに群がられてシフト・ファイターの仮面を剥ぎ取られる間際の栄美の姿、心境を。魔素体大禍の最中に命を落としたシフト・ファイター達がそういう死に方をした事が確認されている。有角魔犬はどうも、ドッペルゲンガーと人間の死の因果関係を早い段階で気付いていたらしく、ドッペルゲンガーの大群を誘導して人間を襲わせる様な事をしていたらしい。今の明悟になら解る、栄美の根本にあった物は他愛のないアニメのヒロインやアイドルに対する些細な憧れと正義感。子供ゆえの考えの無い行動ではあっただろう、しかしその罰が怪物達によってたかって弄られた末に殺されるなどとは、余りにも無慈悲で、悪趣味ではないのか?


 そして明悟は何度も想像した。仮面を剥ぎ取られたシフト・ファイターをコピーし、目の前の自分と同じ姿をした亡骸を目にする偽物の栄美の心境を。人間の姿をコピーしたドッペルゲンガーが消失するまでの時間にバラつきがある理由は例によって不明だが、栄美はその残された時間で明悟の住む新哉市の屋敷にやって来た。自分自身が偽物だとわかっていて、もうすぐ自分自身も消滅してしまう事もわかっていたはずだろう。本物の自分の身体が魔犬の餌食になった様を目にしていたかもしれない。その絶望感、少女の心を踏み躙り押し潰し引き裂かんばかりの絶望感を想像するたび、明悟は頭がおかしくなりそうなほどの怒りに襲われた。屋敷に現れたのは確かに偽物だが、彼女には栄美と同じ心があった。明悟達の目の前で身を震わせて泣きじゃくっていたのは栄美の心だった。


 資料映像の中に映ったテレビ局のスタッフの姿を何度も凝視した。哀れっぽく周囲を見渡し、驚きに絶句する姿。そこには何の希望も映っていない。ただ、一人の男が死んだ事を無慈悲に告知するだけなのだ。


 一体これは何なんだ?


 こんな理不尽を、不条理を無慈悲を突き付けられて一体どうしろと言うのだ?


 修羅になるしかないではないか。


 妻の死を孫娘の死をありとあらゆる者達の死を見せつけられて、のうのうと隠居生活を続けていろというのか? 出来るはずが無いだろうそんなもの。そんなもの、耐えられるはずが無い。

 こんな事態を生み出した元凶を白日の下に晒し然るべき罰を与える。それが自分に与えられた最後の役割だ。自分にそれが成せずとも、次に続く者の礎にはなる事が出来るはずだ……。


 暗い憎悪を独り滾らせている中でしかし、明悟はひとつ疑問に思う。


 栄美は、何故自分にコンパクトを託したのだろうか、と。 



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