第7話 土曜午前の悪夢とか、午後の緊張とか

 夢を見た。ただひたすら、春子に頭を殴られ続ける夢。逃げればいいのに、やめろと叫べばいいのに、私の足は動かない。


「あんたのせいで、あんたが――」


 現実の私は、怒鳴る春子なんぞに対して恐怖を抱き、足がすくんでしまうような気の弱い人間ではないので、これは夢だと確信する。


 悪夢を見ているとき、大体私は夢の中で死ぬ。夢の中で死んだとき、現実では覚醒するのだ。そして今回もご多分に漏れず、私は夢の中で死を迎えた。脳挫傷か、急性硬膜外血腫といったところだろうか。現実では――



 目を覚ましても、脈を打つような痛みは続いた。たまに起きる、寝起きの頭痛。慣れたものではあるが、辛いものは辛い。疲れているからだろうか。確かに、昨日は色々有りすぎた。それとも、寝た場所が悪い? ……昨日は春子にベッドを貸し、自分は絨毯の上に寝っ転がった。もちろん、春子は遠慮したけれど、今日一日だけは、彼女を客扱いしたかった。夕食を作らせた件に関しては、ノーコメントで。


 いつもだったら、こういう日は大人しく家で寝ている。しかし、今日は春子の実家にお邪魔しなければいけない。


「ねえ、ミウ。大丈夫なの」


 春子が声をかけてくる。


 彼女は、人をよく見ている。中一のとき、私の体調が悪いのを見破ったのもそう、中二の文化祭で、私に似合う色をピタリと見つけてきたのも。だから、私がここで強がろうが、隠そうが、無意味なのである。


「大丈夫だけど……一緒に出掛けるの、午後にしてくれる?」

「分かったけど、ベッド行きなよ」


 そう言って、春子はベッドから降りる。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いでくれた。薬を嚥下すると同時に、頭に重い痛みが走る。


 春子は――春子は、決して優しい子ではないと思う。だけど、弱い者、弱っている者に対しては、過剰な程の優しさを発揮することがある。しかし、私みたいな可愛げのない人間は、時としてそういう優しさを払い除けてしまうことがある。


「もし、私が……」

「ミウが、何?」

「やっぱり、なんでもない」


 もし私が、もう少しだけ可愛げのある、人の優しさを素直に受け取れる人間だったら、高校生になってからも彼女の隣に居られただろうか。ふと、そう思ったのだ。


「とにかく、お休み」


 春子が掛け布団を半ば無理やり私に被せる。目を閉じれば、瞼の裏でカラフルな光が湧いては消える。


 カラフル、といえば、中学生の頃の想い出は、さまざまな色に満ちていた気がする。春子のワガママにムカついたこと。たわいもない会話が楽しかったこと。春子の友人から敵意を向けられそうになり、慌てて回避したときの緊張。それに対して、高校生時代の想い出は、モノトーン。楽しくなかったのは確実だけど、物凄く悲しいこともなかった。少なくとも、あまり印象には残っていない。


「ハルはさ。中学と高校、どっちがマシだった」

「寝てなって」

「いいから」

「久しぶりにハルに会ったからって、想い出に浸らないでよ。……まあ、中学の方が楽しかったけど」


 そう、と呟いた。訊いておいてなんだが、なんの感想も抱かなかった。強いて言えば、語尾を「楽しかった」にして答えてくれたことは、嬉しかった。――私が「どっちがマシだったか」と訊いたのは、「どっちも楽しくない」と答えられてしまうことに対する予防線だったから。



 二、三時間ほど横になっていただろうか、目を覚ますと、頭痛はすっかり治まっていた。ベッドから抜け出す。春子は? 辺りを見回した。


 洗面所からドライヤーの音が聞こえてきて、ああ、シャワーに入っていたんだ、と気づく。すっかり私の部屋で寛いでやんの。そう思うと、なんだか笑えてくる。


「ミウ、もう大丈夫なの」

「お陰さまで」


 顔を洗った。そして私は乱れた髪をブラシで整え、いつものようにメイクを始める。


「なんか……ミウがメイクをするのを見てると、不思議な感じ」

「変?」

「いや別に。ってか、社会人としてのジョーシキ」


 学生時代は、可愛くて発言力のある、「カースト上位女子」の特権だったメイクは、大人になれば「常識」「日常の面倒事」に成り下がる。――あの頃、春子と一緒に居た私にとっては面白いことでも、今の私にとってはつまらない、もしくは面倒なことになってしまったものは、他にもいっぱいあるはずだった。大人になるとは、そういうことだと二十五の自分は感じている。


「じゃあ、行こう。――ハルのご実家へ」


 いつも以上にきちんと感のある、メイクとファッション。武装完了した私は、春子に声をかける。


「……ママが、遺書に気づいていないといいけど」


 春子が小さく呟いた。

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