芸術祭に向けて5
夜になると、見慣れた家の近所の風景ですら不気味に感じる。
誰もいないはずなのに、ふとした時に視線を感じたり、通り過ぎていく風が何かの呻き声に聞こえたりと、一度猜疑心を持ってしまえば、そこからは芋づる式に何もかもが怖く感じるのだ。
ただでさえ、最近二度に渡って夜に襲撃を受けている私。
今でもそこの路地から大きな鬼なんかが出てきもおかしくないと感じている。
UMAや宇宙人などは存在しないと疑ってこなかった私。それでも、ここまで連続して怪異とでも表すべき化物に遭遇したらいよいよその存在も認めざるを得ない。
今や、世界はそういった化物が蔓延る場所に変わってしまっているのかもしれないのだ。そう考えると、すっと目尻から雫がこぼれ落ちる。
泣き虫は卒業したはずだった。
それでも、一筋流れた涙は、今の私をそのまま形にしたようなもので、何かひどく情けない気持ちになった。
ふと、夜の闇に踊る白髪の男を思い出す。
揺れる心が少しだけ平静さを取り戻すのを感じた。
「どうしてかな……」
そう呟くと同時に、ザッと私の背面で砂を蹴って立ち止まる音がした。
『jignaoinfeiajfoia』
嫌な予感がした。
背後からした声はまるで生気を感じさせないほど平坦な話し方をしていて、不気味。
振り返ることはすなわち死を意味するということを瞬時に理解する。
きっと、私の後ろにいるのはまたしてもあいつらだ。
この一週間で三回も私を襲撃してきた怪異の親玉たち。
だが、三度目ということもあってか不思議と冷静さを保っていられた。
心のどこかでまたあの人が助けに来てくれる――そんな淡い期待をしていたのだ。
「あなたたちの目的は、何……?」
私の中に振り向けるほどの勇気は残っていない。
後ろを振り向くことなく、前方に向かって声を飛ばした。
『ghjaiojion!』
すると、またしても理解できない言語で怒鳴られる。
どこの言葉だろう――そもそもこの地球の言葉なのだろうか。わからない。
大声を出して、助けを呼ぼうか――いや、こいつらが現れるときに声を出しても無駄だった。
きっと、今回も無駄なのだろう。
だが、次の瞬間私の背後に居る男が、私の右手を掴んだ。
「きゃっ!」
すぐに後ろを向かされて強引にぐいぐいと引っ張られる。男の後ろ姿は思っていたよりもかなり大きく、百九十センチは軽くありそうだ。
整えられた銀髪とスーツ。
きっと、前から見るとアクション俳優のような顔をしているに違いない。
私はぐいぐいと引っ張られながら、あることをずっと思っていた。
全く理解できない言葉を話す彼ら。怪異の親玉たちは、こうして後ろ姿だけを見てみると、外国人にしか見えない。
日本で生活していく上で、人目を引くことはあるが、それでも後ろ姿だけを見ると絶対に異形の存在ということはわからないのだ。
――そしてそれは、きっと彼も同じ。
私を助けてくれた仮面の男。
少年のようにも見えるその若々しい背中と、夜に映える白髪。漆黒の衣装と黒い刀。
あの怪異を相手にしても全く臆することなく、そして舞を踊るかのようにあっけなく片付けてしまった強さ――どう考えても普通の人間ではない。
もしかすると、仮面の男もこいつらの仲間なのかもしれない。どちらも地球の人間でないということは明らかなのだから。
――いや、違うか。
仮面の男は日本語を話していたし、そしてなにより私を助けてくれたのだ。
「信じてる……」
震える声でそうつぶやいた。
銀髪の男は一瞬真意を図るかのように眉をひそめたが、特に気にすることもなく私の腕を引く。しばらくすると、人目のつかない公園へと連れて行かれた。
昼間ですら閑散としたここの公園は小学生の時に不審者が出たなんて騒いでいたこともあったっけ。
まさかこいつらじゃないだろうな……。
路脇に止められた黒い車。ナンバープレートは何か靄がかかっていて見えない。
私はこれから誘拐されるのか。
恐怖を必死に隠して、なるべく冷静さを保とうとする。
頭の中でゆっくりと一つ一つ適当なことを考えて誤魔化そうとするが、ふとした時にぬっと絶望が顔を出す。
怖い。怖い。怖い。
『ngioaniongboan。jiogbaiohifhainvoinaiohbhaoijiohrfjaop』
銀髪の男が扉を開いて、私を後部座席へと放り込む。乱雑で、私を気遣う素振りは一切見せない。
『noigfaoijioe』
男が何かを呟いて、私の首筋にそっと触れた。
「え……、なに、これ――」
すると、急激に気分が悪くなって、倒れこむように後部座席へと寝転がってしまう。
ボワボワと視界がぶれて、車酔いにもにた気持ちの悪さが襲ってきた。
そして次の瞬間、私は急激な眠気と気だるさに襲われて意識を手放してしまった。
夜の街を黒い車が走っていく。
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