芸術祭に向けて4



 娘の様子がおかしい。

 それはほんの数日前にふと気づいたことだった。


 きっかけは、いつものように家に帰って家族仲良く団欒しようかなんて考えつつ、娘に帰宅を知らせると、ベッドの上に寝転がったまま、ぼーっと紙切れを眺めているのだ。

 名刺程のサイズで、真っ黒に塗りつぶされた紙。それを、ぼーっと見ては、たまに恥ずかしそうに声を上げながら枕と顔を突っ込んだりしている。

 結の父親になって十七年たったが、初めて見る顔だった。

 私は娘が心配になってすぐに妻に相談した。すると、妻は嬉しそうに微笑んだ。


「それはあれよ。結にもやっと春が来たのよ」


「な……! 春ってそんな……」


 私は呆気にとられてしまい、その日はまともに食事を取ることができなかった。

 いつも通りの最高のご飯を妻は作ってくれたのに、まるで味がしなかったのだ。


 娘に好きな男ができた。

 今までそんな素振りを見せたことすらなかったのに、こんなにも突然……そんな時、ふと娘が見つめていた黒い紙を思い出す。


 ――おかしくないか?


 おそらく、妻が言うとおり結が恋をしているとしたら、あれは好きな男の私物なのだろう。

 でも、あんな真っ黒の得体の知れない紙なんて持っている男なんているのだろうか。


「あれ……? そういえば、あの紙って……」


 ふと、脳裏に数日前の記憶がよぎった。

 確か、ゴミ箱に似たような紙が捨ててあった気がしたのだ。

 私は導かれるようにゴミ箱へと歩いていき、勢いよく手を突っ込んで弄っていく。


「あった……」 


 そして、底の方で真っ黒な紙を見つけた。

 ただただ真っ黒な紙で、なんの装飾も施されていない。少し普通の画用紙よりも硬いだけの、ただの黒い紙だった。

 一見しても、百見してもただの真っ黒い紙。

 光に透かしてみても、ただの真っ黒い紙。本当に何も書かれていない無骨で、真っ黒なただの紙。

 だが不思議と、娘が持っているものと同一の紙だという確信があった。


「……」


 私はそれを見て一番に感じたのは恐怖だった。

 娘は、こんなただの紙切れを見ただけで悶えてしまうほどこれを持っている男に惚れたというのか。

 いや、そもそもこの黒い紙はなんだ? どうしてこんなものを娘が持っている?

 考えれば考えるだけ、私の中でその男の異常性が高まっていくばかりだった。


 それから深夜のリビングでしばらく頭を悩ませたあと、私は娘の妨害をすることを決意した。

 娘の交際関係において、親が口出しすべきではない……そんなことはわかっている。

 結の人生は結のものであって、私のものではない。

 結が好きな人と知り合って、好きに関係を深めていけばいいと思う――以前から私はこのスタンスを貫いてきたはずだし、結がいつか男を紹介してきたとしても、反対するつもりはなかった。


 だが、いざその場面になってしまうと親というものは恐ろしい。口出ししたくてたまらない。

 それも、こんな真っ黒な紙切れを結へとプレゼントする男。

 どう考えてもろくでもない男に違いない。

 私はその頃にはもう娘と顔も知らない謎の男との仲をいかに引き裂くかばかりを考えていた。


「……ふぅ」


 落ち着くために、もう一度黒い紙を見る。見る。見る。


 しかし、何度見てもその黒い紙からは恐怖しか感じられなかった。

 私はライターを持ってきて、庭に出る。なんというか、これをここに置いておくのは間違っている気がしたのだ。


 結には怒られるだろうか……いや、でも捨ててあったものだし気づかれないだろう。

 もしかして嫌われるなんてことも……いや、でも、それでも……。

 私の親指は振り下ろされて、ライターの先に火が灯る。

 そこから、ためらいながらもゆっくりと火を近づけていって――数字が浮かび上がった。



 なるほど。親バカというやつだ。

 長々と勝手に色々と考えてくれた委員長父に改めて視線を向ける。

 こうして見ると、確かに委員長父の視線は相棒にいつも向けられる警戒とかそういったものではなく、それを通り過ぎて目つきの鋭さが若干怒りを帯びている気がする。


 まあ、そうだろう。

 委員長父としては、”委員長が好きな相手”を見極めるために呼び出したわけで、そこに現れたのは趣味の悪いマスクをして、血まみれと思えるような衣装に身を包んだ相棒。心中お察しする。

 

 だが、状況自体はわかりやすい。完全にお互いがお互いの存在を勘違いしているというわけだ。

 だから、話が噛み合っていない。


「岩夏、あんたは見る目があるよ。俺に電話をかけてきたのはあんたが初めてだ」


「ほぅ……自分が異常だということに自覚はあるんだね?」


「まあな、俺は闇の住人だ。夜の間は俺は誰よりも闇でいられる……」


(か、格好いい……今の言葉覚えとこ)


 相棒は又しても意味のない言葉をそれっぽく言っているが、そのせいで委員長父は余計に混乱してしまっている。


「や、闇……? ま、待て……いや、待ってくれ。私が聞きたいのはそんなことではなくて……娘とはいつ出会ったんだ?」


「娘……? ああ、あんたじゃなくて俺はあんたの娘に紙を渡したのか」


「え、いや……当たり前、だろ?」


(なんだこいつ……ラリってるのか?)


 委員長父が思わずそんなことを思ってしまうが、委員長父の言葉を受けて何を思ったのか相棒は高らかに笑い始める。

 委員長父も相棒をそろそろ情緒不安定な狂人だと疑い始めたようだ。

 だが、そんな中相棒は大仰に腕を組んで、両膝の上に肘を置く。


(え、娘ってなに……? 誰? そんなの俺助けた相手の名前なんて知らねぇし……そもそもいつ助けたのかもわからないのに……え、いや。何、どうしよ)


 内心かなり焦っている相棒だが、それを悟らせないように大きく息を吐いた。


「あんたの娘と出会ったのは今日みたいな狂乱渦巻く夜のことだ」


「よ、夜? 塾で知りあったとかそういう――」


「塾? 生憎と俺は弟子は取らない主義だ」


「え? あ、ああ……」


 早速会話が崩壊している。

 委員長父の脳内には早速疑問符が浮かびまくっている。

 そりゃそうだ。委員長と夜で出会うといったら普通は夜間に委員長が通っている塾ぐらいしか繋がりはうまれないはずだからな。


「じゃ、じゃああんたは一体どこでうちの娘と……?」


 委員長父が恐る恐る尋ねると、相棒は不敵な笑みを浮かべた。


「人気のない夜の街だ」


「な……お前!」


 委員長父が思わず立ち上がる。

 父親としての不安感が一気に相棒の発言によって煽られたのだろう。今の相棒の余裕綽々な態度もあって、委員長父は急激に自分の思考を悪い方へと移し始めた。


(娘とか全然思い出せないし……とりあえず適当にぼかして話すか。困ったら俺の闇の力に呼び出された二人目の俺が何とかしてくれるだろ)


 しかし、そこで気づけないのが相棒。

 相変わらず人の気持ちが分からない男は、ただただ闇の力と言っていればなんでも通ると思っている。


「ああ、逃げ惑うあんたの娘はヒステリックに叫んでいてな……」


「は、いや……待て。おまえ……ちょっと何言ってる――」


「恐怖からか涙やら鼻水やらでベチャベチャに濡れる道路。だがそれをぴったりと追いかける影……」


「ちょ、ちょっと待ってくれ……え、いや、君は何を言って――」


「逃げても逃げても振り切ることができずに、だんだんと追っ手との距離が縮まっていく。その焦燥が余計に残った冷静さを潰していく……あー、まるで今目の前で起こっているかのように思い出せるぜ」


「や、やめてくれ!」


 委員長父が思わず頭を抱えてその先を聞きたくないと拒絶し始める。

 娘の彼氏を呼んだつもりが狂人が現れて、その狂人がまるで自分の娘を襲っているかのように話しだしたのだ。

 委員長父の動揺は必定とも言える。


「じっくりとじわじわと退路を断って追い詰められていくあんたの娘さんの恐怖に歪む顔は……なんというか、第三者として見ているこっちまでそそるものがあるほど見事なものだったよ」


「え――あ、あんたが追い詰めていたんじゃないのか?」


「ん? ああ、当然だろ?」


 委員長父が大きく息を吐いた。

 娘がとりあえず目の前の男に襲われたということはなくなって少し安堵の感情が浮かんだ。


「な、でも見てたって一体あんたはいつこの話に出てくるんだ?」


「まあ、焦るなって。俺は闇の住人だぜ? 人の闇が一番深くなったとき、それこそが俺の生まれる時だ」


「は……あんた何言って。というか娘はどうなったんだ!?」


「ああ、あんたの娘が黒い紙を持っていたんだろう? なら、助かってる。他ならぬ俺が間に合ったんだからな……」


 最後に付け加えるように小さく言って話を終える。

 どうやら、相棒は最後まで説明しないところが格好いいと錯覚しているようだ。

 しかし、委員長父からしてみればたまったものじゃない。

 全く聞いたこともない自分の娘が襲われたという事件に、目の前の狂人がその娘を助けたと言っているのだ。


 言いたいことがありすぎて、頭の中がごちゃごちゃになっていた。

 だが、さすがは県議会議員。いついかなる時も冷静であるよう訓練された委員長父は大きく深呼吸を一つすると、相棒をその双眸でしっかりと見据える。


「ふっ……悪くない顔だ」


 お前はいらんことを言うんじゃない。


「とりあえず、その娘と出会った日のことをもう少し細かく教えてほしい」


「ふむ……」


 相棒は一応思考する態勢を取る。

 とは言っても相棒は自分が助けたのが誰なのかすら分かっていないので、細かく教えろなんて言われたところでどうすることもできないのだが。


 こういう時に話せないことに対するもどかしさがグッと湧いてくる……ん?

 僕はふと、部屋の隅に置いてあるデスクに目を向ける。そこには大切そうに保管されているフォトフレームがあった。


「キュー」


 鳴いていいのかという疑問があったが、それよりも今この状況での委員長父の頭の中での混乱を考えると一刻も早く整理させるべきだと判断した。

 もう出会った時の委員長父の威厳のある感じは消え失せており、動揺しきっている。セットした髪も触りすぎて乱れていた。


「……ん? 何だ?」


 委員長父が僕の鳴き声に思わず反応するが、相棒がそれを手で制止する。

 おそらく、相棒は僕が何かを伝えたがっているというのを瞬時に悟ったのだろう。流石だ。伊達に長い付き合いをしていない。

 

 相棒の評価を心の中で改めつつ、仮面の目の部分をデスクの方へと向ける。

 すると、それに釣られるように相棒もそちらを向いた。


「ん? これは?」


 相棒の目にもフォトフレームが映ったのだろう。

 僕の意図を汲み取ってしっかりと反応してくれた。

 委員長父は突然立ち上がってフォトフレームへと向かっていく相棒を目で追いながら、思わず自分も立ち上がる。

 そこで座り続けていないあたり、僅かながらでも相棒に対する評価が変わったということだろうか。


「え? あ、ああ……それは家族の写真だ。娘が小学生の頃だから……もう五、六年前のものだが」


「ほう……」


 写真の中には旅行中なのか、海をバックにピースを浮かべる家族三人の姿があった。

 委員長は委員長父の腰を抱きしめながらのピースサイン。五、六年前ということもあって確かに委員長父も今よりも若く映っているし、委員長もまだ幼い。

 でも、今の委員長の面影はしっかりと残っているし、少し考えると気づけるレベルだった。


(ゼロはこれを俺に見せたかったのか……? 五、六年前に小学生というと、今は俺と同い年くらいになるのか……)


 そう! そうだぜ相棒!

 もうわかる! 高校生くらいの女子なんてあんまり助けてないだろ! 該当者なんてそんなにいないはずだぞ!


 相棒は仮面の下で思案顔を浮かべながら声を漏らす。


「あの、その写真が何か……?」


 うっせ! 今話しかけてくんなよ!

 もうすぐ相棒が思い出してくれるから! な! 相棒! 信じてるぞ!


「いや……どこかで……」


 そう! 今日も見てるぞ!

 明日も見る予定だぞ! 行ける、行けるぞ相棒! 思い出せ!


(誰だ……誰だ、誰だ――お前の名前は? 君の、名前は!?)


 いらんいらんいらん。脱線するな。

 流石にイラッときたのでかなりきつめにに腕を締め上げる。

 すると、相棒は腕を押さえてヘッドバンギングのように頭を降り始めた。相棒の頭の中は激痛に呻いているが、もう気にしない。


「――あ」


 一瞬、相棒の脳内がすっとクリアになる。

 痛みに喘いでいた脳内が思考を再開し、やがて何かを導き出した。


(そうか、この子は……ってことは俺が助けたのは……)


 お、おぉ! 相棒がやっと気づいた!

 僕は嬉しくなって頭の絞め上げを緩める。すると相棒は軽く咳払いしてから委員長父に向き合った。


「あ……ああ、そうだ。俺は確かにあんたの娘を助けたな」


「え? ――ああ、そうか! 続きを話す気になってくれたのか? なら教えてくれ!」


「ああ、その前に一度確認なんだが……あんたの娘の名前って――」


「名前? それは――」


 一瞬訝しげな表情を浮かべた委員長父だが、すぐに相棒の言わんとすることを理解して言葉を繋げる。

 岩夏という苗字に繋がる名前。

 親が県議会議員という特殊な職業。フォトフレームに写った写真。

 どれもがしっかりと相棒を導いていて、今答えがはじき出される。

 となると、相棒と委員長父との答えは一致することは自明であり、僕は安心して続きを聞いていられた。





「三葉」


「結だ」




 ……

 …………はい、アウトです。


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