一章 芸術祭と『協力者』

プロローグ1



「はぁ……はぁ……」


 激しく息切れを起こしながら、少女は走る。

 周囲の民家に灯る明かりなどもうほとんどない、満月の光が怪しく辺りを照らす深夜零時。


「なんで……あんなのが……っ!」


 少女は時折後ろを振り返りながら、しっかりと”それら”がついてきているのを確認し、声なき絶叫をあげる。

 真夜中とはいえ、今は八月だ。走り回れば汗もかく。

 顔中びっしり汗を貼りつけながら、少女はいつにもまして静かな住宅街を走り抜ける。


『グゥゥ……ワゥッ! バウッ!』


「っ! なんで、なんで……意味わかんない!」


 再び背後へと視線をやるも、相変わらずぴったりと少女の後ろには怪物が張り付いていた。


 二mほどの体躯の四足獣。

 筋肉質で、細身な体ボディと、そこから生えるゴツゴツとした長い脚。鋭く長い口元を突き出した、形容するなら狼を二倍にしたかのような屈強な怪物。

 だが、普通の狼とは比べ物にならないほどするどく尖った三十センチ以上ある剥き出しの犬歯が、狼の怪物の異形さをひしひしと訴えていた。


 少女はそれを見て、今度は周囲に助けを求めるべく大声を上げる。


「うわあああああああああああああああぁぁぁ! やだやだやだ! こないで、こないでってばあああああああああ!」


 曲がり角を曲がって、道端の自販機のゴミ箱をひっくり返す。

 しかし、長い脚をフルに活用した狼の化物は、それを飛び越えて、少女へと迫る。

 軽く一mは超えそうなほどの跳躍だった。


 目の前で生物的な差をまざまざと見せつけられた少女は、愕然とした表情を浮かべるも、一瞬で現状を思い出し、すぐに逃走を再開する。


「いや、いや!」


 しかし、恐怖のせいからか上手く力が入らずによろけてしまい、道の端の家へと倒れこむように転んでしまった。

 咄嗟に、少女は自分の足へと視線をやるが、もちろん外傷などあるはずがない。

 ただ、怪物が近くに迫ったという怯えから足がすくんでいるだけなのだ。


『グルルゥ……!』


 狼の怪物は待っていたと言わんばかりにさらにスピードを上げて、少女へと接近した。

 犬の親戚とでも形容できそうな狼の怪物が一匹しかいないはずなのに、少女は今、それこそとサメの大群と対峙しているかのようなプレッシャーを感じているのだろう。


「や、やめ……おねが……」


『フンス……グルルゥ……』


 少女が小さく助けを求めるが、それも狼の怪物の鼻息にかき消されてしまう。

 荒々しい鼻息は、完全に”獣”のそれであり、相手を威圧するべくして使われる野生のものだった。

 今まで野犬すら見たことのない少女は、その迫力と威圧感にやられて、蛇に睨まれた兎のように小さく縮こまって身を震わせる。


「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。許してください、私なんて食べても美味しくもなんともないんです見逃してくださいお願いしますお願いします……」


 獣に日本語が伝わるわけがないのだが、あまりに気が動転してしまった少女は、念仏を唱えるかのように必死に許しを請う。

 すると、それに応じるかのように狼の獣がゆっくりと少女から視線を切って、


『ウオオオオオオォォォォォン!』


 深く、それでいて周囲一帯を包み込むかのようにな大爆音の遠吠えをした。

 間近でそれを感じた少女は、あまりに強烈な音量のせいで、意識が飛ぶ錯覚すら覚える。


「――っっ!!」


 ギリギリのところでこらえた少女だったが、その代わりと言わんばかりの激痛が耳を襲う。

 少女はあまりの激痛に耳を抑えながら、地面にうずくまって頭を打ち付け始めた。

 意味のない行動だが、そうすることで痛みを分散させようと考えているのだろう。

 ――全く、意味のない行動だが。


『報告ご苦労』


 その時、ふと声が少女の頭上から降ってきた。

 ついで、うずくまる少女の視線の端に、今までにない黒のローファーが映る。


(助けが――?)


 少女は、必死に痛みに耐えながら、淡い期待に胸を膨らませる。

 確かに、今までの少女の絶叫や、狼の怪物の鳴き声を聞いたなら、普通は周囲の住人は飛び起きて様子を伺いに来るだろう。


 だが、そんなことは当然やつらが許しているわけがない。


 遮音結界を張っているから、少女の声は周りには絶対にもれないのだ。


『ご苦労。しっかりと任務を果たしてくれたな、感謝する。帰ったらご褒美をやろう』


『クゥーン』


 未だに感じる痛みと甲高い雑音に必死に抗いながら、少女はゆっくりと顔を上げる。


「!?!?!?」


 すると、そこで明らかに異常な光景を見てしまう。


 狼の怪物を、まるで長年連れ添ったペットかのように撫でる男たちがいたのだ。

 どこから現れたのか、男は三人いて、一人が怪物を愛撫しており、その数メートル後ろで二人がなにかを話し合っている。

 三人ともがマントを黒い羽織っており、装束も黒に統一されている。完全に闇に溶け込むための装備をしていた。


 明らかに不審者。少女は気が動転していたことも相まってか、殺人鬼やそれに属するものだと一瞬で確信した。


「きゃあああああァァァ!」


 少女は必死に助けを求めるべく、もたれかかっていた家のチャイムを鳴らしまくる。

 あまりの恐怖に、汗もすっかり引いてしまい、今では代わりに涙と鼻水がみっともなく溢れ出していた。


『黙れ! 静かにしろ!』


 怪物を撫でていた男が何かを叫ぶが、未だに耳が正常に機能していない少女には聞こえない。


 ――いや、そもそも聞こえていたとしても意味なんて理解できるはずないのだが。


 しかし、そんなことは全く関係ないとばかりに、少女は死に物狂いでチャイムを連打しまくる。

 今の姿を見ると、少女の方もかなり奇人にみえてしまうのだが、流石に命の危機を感じている人を見て笑う気にはならない。



「――ははっ」


 っておい笑うなよ。

 僕は隣の相棒を見て眉をひそめる。相変わらず不謹慎極まりないやつだ。


「おいゼロ。あの後ろにいる二人見てみろよ。出来もしねぇくせに今後の出世の話なんてしてやがるぜ?」


 そっちかい。

 相変わらずのシリアスブレイカーっぷりに思わず毒気が抜かれた僕は、相棒の肩の上で大きくため息を漏らす。

 が、そんなことを悠長にやっている暇もどうやらなくなってきたようで、少女を前にした男たちがいよいよ本題と言わんばかりに少女の腕を掴んで連れ去ろうとしていた。


「いや、いやっ! 離して!」


『うるせぇ! 喋んなっつってんだろ!』


『まあまあ、女の子には優しくって言ってたじゃん。それにその子魔力許容量が相当多いんだろ? 傷つけたら流石に怒られるぞ? ってかそうでなくとも傷つけんなって『協力者』から指令が来ていたはずだったし』


『っせぇなー。だりぃんだよ一々あいつの言うこと聞くの。注文コマけぇし――なぁおい!』


「ひっ! やめ、離して! 離してったら!」


 少女は必死に掴まれた腕を振りほどこうと男を蹴って暴れまわるが、運動部に所属しているわけでもない少女の蹴りでは、屈強な男たちを振り払うには威力不足だ。

 逆に、嗜虐心をそそられた男達に余計にひどい目に合わされる可能性の方が――


『お、おいおいなんだよ。急に反抗的になって……俺へのアピールか?』


『やめとけって。そいつみてぇなガキ、どーせ食ってもうまくねぇだろ?』


『いやいや、わかりにくいけど意外といいからだしてるぜ?』


『確かに、悪くない』


 三人いた男たちのふたりの視線が少女の顔から少し下へと下がる。

 舐め回すような視線は、なるほど確かに十七歳にしてはなかなかボリュームのある胸元へと向かっていた。

 すると、男たちの下卑た視線を感じとったのか、少女は真っ青な顔をして男達へとより一層の抵抗を始めた。


「やっ! やめて! 下ろして!」


『大丈夫、別に出荷する前に記憶消すんだし。誰にもバレやしねぇって……』


 そう言って、少女を掴んでいた男は右腕で少女の両手を頭の上に固定すると、左手で少女の胸元へと手を伸ばす。

 指先を芋虫のようにくねらせながら、男は鼻息荒く少女の体へと近づけていく。

 ゆっくりとまるでその時間すら楽しむかのように伸ばされた左手を見た少女は、恐怖からか一瞬目を閉じ、再びカッと見開いて、勢いよくその腕に噛み付いた。


『っづぁ! いっでぇ! いっづぁあ! イタタタ! ぐっ、やめ! 離せっ!』


「ぃやあっ! ――っつぅ……」


 男は左腕に噛み付かれたまま、少女の頭部へと頭突きをかます。

 肩口に揃えられた少女の髪が一瞬乱れて、男の顔へと掛かる。それを苛立たしげに払いながら、男は鬼の形相で少女を見下ろした。


『こんのガキッ――調子に乗りやがって!』

 

 言いながら、自由になった左腕で、少女の頬に拳骨を叩き込んだ。

 ゴンッという鈍い音が響いて、数秒遅れて少女の口元から血が流れ落ちる。

 どうやら口内から出血してしまったらしい。

 痛みに再び涙がこぼれそうになる少女だったが、すぐに再び迫ってきた男の左拳を見て、思わず目をつぶる。


『てめ、調子乗りやがって! ふざけんなよ!』


『おいだから傷つけんなって!』


『うるせぇ! こんなの魔法でどうとでもなるだろ! 今はそんなことよりこいつを――』


 言いながら、完全に目の色が変わった男は少女へと拳を振り下ろす。

 何発も、何発も。



「キュー」

 

 僕が相棒に瞳と鳴き声でそろそろ止めろと訴えると、相棒はこちらを見てから軽く頷く。


「まあ、流石に止めたほうがいい頃だな」


 そう言って、肩に乗る僕をトントンと二度叩くようにして撫でた。


 これは、変形の合図だ。僕は何度もやったせいでいつの間にか覚えてしまった形、大きさの漆黒の仮面へと自分の形状を変化させる。

 すると、それを受け取った相棒は、慣れた手つきで僕を顔に装着して


「……うむ」

 

 と意味ありげにつぶやく。もちろんこれに意味はない。


(今日もいい感じに格好いいなこれ……あーいやでも折角だしたまにはちょっとくらい正体バラす方向でやったほうが格好いいかも知れない。それの方がなんか格好いい気がする。そういうことにしとこう)


 はぁ……全く注文の多い相棒は。

 僕は読心した通りに若干割れ目を作って、左目のあたりだけ露出するようにいつもの仮面から少しだけ欠けた形状へと変化しなおす。


「さすがゼロ。伊達に長いこと相棒やってない……俺のことよくわかってる」


 そう言って少し緩んだ口元をしっかりと結び直した相棒は僕をしっかりと装着し、マンションの屋上から漆黒へとその身を踊らせた。


 相棒の黒い髪が白髪へと染まっていく――悪が浄化される合図だった。

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