第7話
人は隠れることを好む。社会から、多数派から、悪目立ちしないように個性を消す。没個性社会へと時代の向きが変わったのは、SNSの流行やそれに伴う軽率な言動が横行し始めたからである。
個性は排斥される。少数派は叩かれる。年末の大掃除がごとく、はたかれて吹き飛ばされる。
しかし社会で、多数派として生きることを、大多数の人間が許容しないと、結果各々の人生が成立しないのだ。
だからその鬱屈とした欲求を発散する場所を求めるがごとく「個性派万歳! 個性派万歳!」ともろ手を挙げるのである。その様はある意味、地獄絵図と言える。蜘蛛の糸を掴めるのは、結局一人きりなのだ。
そうして忍者よろしく、誰もが身を隠そうと必死になる。
それは教室内においては顕著である。
「いい加減決まらないと、みんな帰れないぞー」
担任の間延びした声が教室内で跳ね返り続ける。誰もそれを受取ろうとしない。
——なんてことはない。
学年四クラスを、三か月ごとに巡る「飼育係」。中庭で育てているウサギやニワトリに毎朝餌をやって、放課後に小屋の掃除をする。毎週金曜日には、その週の分の飼育記録を担任に提出する。その順番が巡ってきただけの話である。
二回分やり過ごしてきたわけだし、十月には回ってくることは事前に知っていたはずなのに、誰もが初めて聞いた、と言うような顔をして、我関せずを決め込んでいる。もちろん僕も例外じゃない。放課後はA子とのんびり帰って、家で萌奈美のお遊びに付き合ってやらなければならない。共働きの両親が遅くなる日は、姉のためのご飯も準備しなきゃならない。僕は僕なりに忙しいのだ。
しかし、視線の向きはよくわかる。
「帰宅部でしょ?」
という、無言の圧である。サイレントマジョリティだ。
わかる。よくわかる。僕もサッカーやバスケをやっていたら同じように思うし、同じような目つきで僕を見る。
普段は僕のことなんて気にしないくせに。
「武藤やるかー?」
「あ、うす」
と、いくら内々で考えていたところで、担任に指名されてはぐうの音も出ない。立候補制とは何だったのだろう。すべては圧が悪い。多数派が悪い!
「あ。じゃあわたしもやります」
するとすっと、A子が手を上げた。
「A子ぉ」
半ば泣きそうになりながら彼女のほうを見ると、彼女は至極不快そうに顔面の左側だけをくっと吊り上げた。
「よーし、じゃあ二人で決定ってことで」
お愛想の拍手の中、ちっと舌打ちが聞こえたほうを向くと、神田さんはぐっと鼻筋にしわを寄せて僕を見ていた。それを見ていた倉持が前の席から振り返って僕の頬をぶった。散々である。
放課後になって、中庭の飼育小屋に向かう。ホームルームが終わるなり、神田さんから回されてきた小さなお手紙に「死ね」と辛らつに書いてあったのだから、そろそろ僕は蛇口全開で泣いてもいいかもしれない。
全くそんな裏事情を知らないA子は、ウサギを追いかけまわしながら、
「おらおらー、飯が食いてえかー」
と童話の鬼のようにけらけらと笑った。
「動物は大切になさい」
そういえば、対物性愛の価値観を持つ人は、人間だけでなく、動物にも恋をしないらしい。よく、犬を愛している人、なんてのが話題に上ったりするが、これらともまた別の価値観だと言う。
正直そこまで話が細分化していくと、よくわからないし、どうでもよくなる。音楽や小説のジャンル分けと一緒だ。もはやその価値観の名称はなんでもいい。前に言った通り、「いる」から「ある」の理屈だ。
ひとしきり追いかけまわして遊ぶと、A子は大人しく餌やりを始めた。ニンジンをポリポリとかじるウサギの姿は、キャベツをつついて食べるニワトリの姿は、——まあ、初日であればかわいく見える。
A子はフライドポテトやハンバーガーを、口が小さいくせに一気に食べようとする癖がある。自分の口の大きさがわかっていないというよりは、単に欲張りなのだ。この辺、恋愛体質であることにも通ずるかもしれない。——あれは、何回見てもかわいい。
そうやって、結局飼育係に任命されても一緒に帰っているわけだが、
「どうして立候補したわけ?」
大して楽しそうにしているでもなく、ともすれば動物愛護団体に訴えられそうな危うい扱いをするときもあるものだから、純粋に疑問に思って尋ねる。
「うーん。まあ、早く帰りたかったし。武藤ならまだましっていうだけ。どうせ帰宅部のわたしか武藤のどっちかはああやって指名されるだろうなと思ってたし」
「合理的と言うか、そこまで考えてたなら先に立候補してもよかったのに」
「そしたら武藤も立候補した?」
言われて、僕はなんだか照れくさくなって返事をしなかった。
それを否定と捉えたのか、A子は不機嫌そうに僕の脇腹を小突いた。結構痛かった。
「バツとして飼育記録はすべて武藤が書くこと。以上」
「そんな」
「足りないって?」
「いえ」
「わたしは別に名前貸すだけの架空業者でもよかったけど」
「滅相もございません」
「使い方あってる? それ」
もともとそのつもりでもいたので、金曜日になると僕はA子を待たせてせかせかと記録をつけた。記録と言ってもそこまで詳細なものを求められているわけではなく、体調はどうだとか、食欲はどうだとか、運動量に差はあるかとか、ぱっと見の印象を〇×で付けて、あとは純粋に担当した感想みたいなものを二~三行書くだけだった。
担任に提出するために職員室へ向かうと、運悪くちょうど出てしまっているらしく、僕は空いていたデスクに座ることを許可され、ぼんやりと帰りを待った。
教師は普段教壇に立って僕たちに学問を説く。わがクラスの担任のように生徒との距離感が近くフレンドリーな人もいるが、そうでない人もいる。いろいろな人が、僕たちの教室と同じように、狭い空間に机を並べて文字を書いている。——なんだか不思議な気分になった。
学校が社会の縮図だ、と言うのは、冗談でもうそでもなく、本当のことなのだろうな、と思う。教師同士の中でもいじめはあるし、好き嫌いはあるし、色恋もあるだろう。課題もあって、担当もある。大人になる準備をしているのだとしたら、僕は今どの段階にいて、果たして大人になった時、この職員室で言うと、どの席に座ることになるのだろう。
詮無い思考を続けていると、
「おお、待たせた?」
ようやく担任が帰ってきた。何をしていたかはわからないけれど、なにかをしていたのはわかるくらいには、疲れて、辟易とした表情だった。
「生徒にそんな顔見せないでよ」
「仕方ないだろー」と言ってから、隣の数学教師を気にして小声になって、「大人もいろいろあるってこった。お前らと同じ」
ちょっと汗臭い。でも、一生懸命生きてるってことなんだろう。
「はい。持ってきましたよ。飼育記録」
「ほいほい」
言って、ぺらぺらとページを繰って、ふーん、だったり、なるほどねえ、などとつぶやいて、ポン、と右下に確認印を押すと、記録表を返してくる。
「上出来。お前に任せてよかったわ」
「思ってもないくせに」
「反抗的だなあ」
「反抗はしないよ」
「上出来上出来」
「じゃあ、帰ります。さようなら」
「はい。気を付けて」
職員室を後にし、教室に戻ると、そこには誰もいなかった。みんな部活に出払っているから当たり前なのだが、A子は待っているはずだったので、少しがっかりした気分で自分の机に戻ろうとしたとき、
「何してんの?」
こんもりと膨れ上がったカーテンの裾から、A子の綿棒みたいに細い脚が覗いていた。
「秘密」
「秘密も何も……」
「女子には秘密が多いんだよ」
彼女の声音は、少し機嫌がよさそうに聞こえた。
僕は手近な椅子を引いて座って、しばらくカーテンに隠れたA子のことを眺めていた。
ベランダへの扉用のカーテンで、ちょうど長さはスカートの裾と同じくらいだった。だから、要するに、生足だけがそこから生えていた。
A子はそこまでスカートを短くしていない。よく、冬場にカーディガンでスカートが丸っと隠れるような女の子がいるけれど、そんなことをしなくてもA子の脚は長く見えたし、実際長かった。だから、カーテンから生えているその二本の脚も、いつもと同じように細長いA子の脚に違いないのだけれど、前述したような冬のミニスカートと同じで、領域は同じなのに、隠している物質が異なるだけで、普段とは違う顔をしているみたいに思えて、少し、ぞわっとした。
改めて僕は、男性として、真っ当に彼女のことを好きなのだ。と思った。
それは穂乃花が僕を「おじさん」にするのと同じ意味で。
性的な含みを持った「好き」なのだ。
コンタクトもルービックキューブもおしるこの空き缶も「ゆ」も何もかも、物体は精子を持たないし、妊娠もしない。——もちろん、A子がそれを求めているわけではないことは知っているけれど、僕はこの時、命に触れている週間でもあったせいか、——あ、近づきたい。と、思ったのだ。
椅子から立ち上がって、そっとカーテンを開くと、A子は目を閉じて大きく鼻で呼吸をしていた。
近づいてきた僕の気配を察して、
「ちょっとかび臭いの」
と笑った。
「入ってもいい?」
「許可」
「ありがと」
ただ、男女がカーテンの後ろに並んで立っているだけなのに、なにかすごく妖艶で、いけないことをしている気分になった。
あるいは、布団の中で胎児のように丸くなっているような、安心感があった。
彼女の体温がわずかに感じられる距離感。
「確かに、かび臭いかも」
「ちょっと武藤のにおいがする」
「どんな?」
「汗」
「急いで来たからね」
「そっか」
「うん」
お互いの胸に耳を当てて鼓動を聴く——なんてことをしなくても、僕たちはお互いに生きているのがよく理解できていた。それは彼の言うように「上出来」かもしれない。
このまま世の中から隠れて、A子の愛するものたちに囲まれて暮らしていくのも悪くない——というか、いい。
なんて考えているから、倉持から「童貞がにじんでる」と言われるのだ。
僕たちの恋愛は、一過性だ。
永遠なんてない。
まさしく倉持が彼女と別れてひと月で神田さんを狙い始めるように。
A子が次々と、息を吸うがごとくものに恋するように。
それでも、この一瞬が永遠であればいいのにと感じる。
「なーにしてんのお前ら」
担任の声で我に返る。
「えーっと、忍者ごっこです」
「そりゃ結構だけど、用が済んだら早く帰れよ」
「仮面に忍者ごっこに、大変な生徒でごめんっす」
A子はするりとカーテンから抜け出ると、向こうで軽く頭を下げたのがわかった。
それは僕と彼女を隔てる、まさしく布一枚分の拒絶のように思えた。見えるのに、届くのに、触れられはしない。もしかして僕の今いる位置は、ここなのか?
「大変じゃないけど、へんだな」
と言ってからからと笑うと、再度帰宅を促して、担任は去っていった。
僕もカーテンから抜け出て、そそくさとカバンを取ると、
「帰るか」
とA子に言った。
彼女もカバンをひっかけて、
「帰るか」
と言った。
ひどく恥ずかしい場面を見られてしまって、——穴があったら入りたい。
人間は常に、隠れ場所を探しているのである。
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