第6話

 意識しているしていない、明言しているしていないを問わず、対人関係と言うのは「利害」を伴う。自分にとって「利益」がある、もしくは「利用価値」があるから好きになり近しくなろうとするし、自分にとって「気分を害する」、もしくは「阻害要因」となるから嫌いになり遠ざける。


 これに関しては良し悪しの観点の枠外にいることだ。誰もがそうであり、それを否定できる人間はいない。もちろん、意識や明言を問わないのだから、当たり前の話である。誰もが同一に無意識に行っているのだ。議論のやり玉にあげるどころか、そもそも認知すらできない。


 そういう利害が存在するということはギリギリ理解できても、それを全く度外視した対人関係を構築することはできない。それは人間が「社会」の中で生きている以上仕方ない。


 で、あるからして、


「神田さんとお近づきになりたいんだよね」


 という倉持からの申し出を、僕は否定することができないのだ。冗談で「お前、そのために僕と親しくなったのか?」ということさえない。仕方ない。少なからず「利」に属していたことに安堵すべき事案である。


「お近づきになりたいと思うなら話しかければいいんじゃない」

「つめた。友達甲斐ないなお前」

「っていうか僕よりお近いんじゃないの」

「そんなことないよ」

「学級委員で同じじゃん」

「そうじゃないんだよなあ」


 いわく、彼の言う「お近づき」というのは、例えば急に握手をされたり、意味ありげに視線を交わしたり、特に用もなさそうなのに呼び出しを食らうことらしい。

 これらはすべて好意的観点から見た僕と神田さんの関係である。


 実際のところ握手の力は強いし、視線は睨んでいると言っていい目つきだし、呼び出しを食らって話題に上るのはA子のことばかりで、僕自身に対する興味関心はあまりないのである。

 一応、勝手にながらライバル認定をされているものの、僕とA子の関係は至極残念ながらそう言った類のものではないし、ましてや神田さんは今のところそんなことをおくびにも出していないので、表面化はしない。

 なるほど、だとすれば確かに僕と神田さんにそういう色恋のうわさがあってもおかしくはないのかもしれない——いや、色恋のうわさはないのだけれど。


「まさかまさか、優佳のことを好きとは思ってないけれど」と、ここにもメンタリズムがいたのか、倉持は心中を見透かしたようにぼそりとつぶやいて、「でもなんか悔しいよね。友達やめそう」


「全く因果関係がわからないけれど」

「恋は理屈じゃないからな」


 恋敵の——それも一方的な恋敵の一々に対して嫉妬し、友人関係を破綻させていたら、僕の人生はもう壊れている。一生眼鏡族のままだし、名前を平仮名で書けないし、おしるこを嗜むことも、ルービックキューブに四苦八苦することもできなくなる。いや、今後それらがなくても生きてはいけるけれど、どんな人生だ。

 

 確かに、恋は理屈じゃない。第二ボタンを好きだと言った彼女のことを好きになってしまうなんて、僕のほうがよっぽど変態気質かもしれない。でもそのあと高校で再会したら、それはもしかして運命なのかもしれないなんて考えても、仕方あるまい。ましてや姉二人のせいで頭は少女漫画脳である。女装のせいで思考も女性的な部分があるのかもしれなくもない。これこそ因果関係はないけれど。変態気質の恋愛体質だとしたら、字面的には相当やばいやつだから、いったん目をつむっておこう。


 しかしそれよりも、

「それは本当に恋なわけ?」


「えー? 改めて聞く?」

「お近づきになりたい、なんてやんわりした言い方じゃよくわからないし」

「少なからず教室じゃなくてわざわざここで話してるのが多少説得力あるんじゃない?」

「と言っても、昼飯を買いにコンビニまで行く道すがらだからなあ」

「まあ、確かに」


 倉持いわく。

 学級委員の仕事でお互い部活を休んで教室で二人きりで作業をしていた時だ。なんてことはない。修学旅行のしおり作成である。すっかり原稿を作り終え、職員室で人数分コピーしてきたそれを、それぞれまとめて冊子にしているときだった。

 倉持が用紙をまとめ、神田さんがそれをホチキス留めしていく流れ作業。

 普段ならフリーキックの練習を終えてボールを集め始めているころ。夕日が窓から降ってきて、彼女のことを照らしている。

 思わずぼんやりと彼女の顔を見ていると、長い髪を避けるように首をかしいでいた彼女の視線が、自分の眼にまっすぐにぶつかる。

「ん?」

 と、甘い声音で聞かれたとき、倉持は「——あ」と思ったらしい。


「あれ、でも彼女いなかったっけ」

「何言ってんのよ、俺そんなに浮気者じゃないよ。ひと月前に別れたよ」

「なんで? 順調じゃなかった?」

「なんかその日が二か月記念日だったんだって。それを忘れてたからって。なんだ二か月記念日って」

せわしないね」

「ひと月ごとに記念日があったら逆に別れるに決まってんだろ。目標が近すぎるんだよ。男なら一試合一試合を大事に——じゃなくてどんとおっきくインターハイだろ」

「ちょっとそれはよくわかんないけど」


「ともかく。そんなわけで今は神田さん狙いなわけっす」


「わけっす——って言われてもねえ。別に神田さんと仲がいいわけじゃないよ。むしろ悪いのかもしれない」

「悪かったらわざわざ呼ばんだろ」

「そのあたり複雑なんだよ」

「うわー、その言い方うぜー」


 どこにいても「うざい男」である。


「まあ、僕にできることであればしてもいいけれど。そんなに多くはないよ」

「期待してないから大丈夫だって」

「ひでー」


 そういえばA子と神田さんの関係はどうなのだろう——と思って、帰りの道すがら、A子に神田さんのことを聞いてみた。

「別に」

 

 ルービックキューブの一件はともかく、仮面の時には多少なりとも助け船を出されていたように見えたが、特段、神田さんとの関係に変化はないらしかった。

「話しかけても来ないし、話しかけもしないよ」


 現状のA子は、少し手持無沙汰な感じがした。

 思えば大体の場合何かに恋をしていたA子が、こうして「恋休み」をしているのは珍しいことだった。何かを愛していないと自分を保てない人が世の中にはいるけれど、そういう思考は彼女の中にはないらしかった。ということは、仮に何かの偶然があって僕が恋人になったとしても、それは「つなぎ」ではないということだ。よし。


「実際どうなの? ああいうタイプの人」

「ああいうタイプって何?」

「うーん。お嬢様? 女王様? どっちでもないか……。神田さんって、神田さんなりに謎だよね」

「意味不明」

「言ってて自分でもよくわからないわ」

「支離滅裂」

「四字熟語で縛るのやめてもらっていいですか」


 倉持との会話で無理が生じているわけではないが、A子との会話は比べるとだいぶ気楽だった。お互いに対する認知度が高いからかもしれないが、その言い方はなんだか傲慢な気がした。言うほど、A子のことを知っているわけではないし、A子もそんなに僕のことは知らないと言っていい。

 ただ恋した第二ボタンを持っていた人と、帰り道が一緒なだけだ。たぶん。彼女的な認知は。


「A子ってどういう気持ちでものに恋してるの? ——あ、これは嫌味とかではなくて」

「どういうって……。別に普通だけど」


 少し困ったようにA子は言う。

「第二ボタンの時はどうだったの」


「うーん。舐めたいと思った。口の中で転がしたいって思った」


 心臓から太もも、ひいては下腹部のあたりがぞわぞわ、もぞもぞしたのは、決していやらしい気持ちからではない。断じてない。でも、A子はこういう、表現の卑猥さがある。口が小さいくせに、それを細かく動かしてこんなことを言うのだから、僕のほうがよっぽど困る。


「でもそれなら僕のじゃなくてもよかったんじゃない? しかも、僕の中でも第二ボタンである必要は?」


「武藤の第二ボタンは、ちょっと傷が入ってたでしょ」


 言われて思い出す。そういえばあの学ランを着たまま、木の上から降りられなくなった子猫を助けた——りはしなかったけれど、カッターを持った暴漢から女性を守った——りもしなかったけれど、草むらに入っていった野球ボールを探すときに枯れ枝に引っかかってすっころんでちょうどボタンのところに石がぶつかったことが——残念ながらあった。

 心臓を守ってくれた第二ボタンだった。


「校章ががっつり。あの傷がちょうど舌に引っかかりそうだなーって、それがきっかけかなあ」

「よく見てるね」

「世の中に恋はあふれてるからね」

「説得力すごいわ」

「でしょ」


 すっころんでよかった——とは思わないけれど、きっかけは思わぬところにあるものだ。


 なるほど倉持と神田さんの恋のきっかけも、全く二人を結ぶには無関係なところに生じるかもしれない。


 十月の修学旅行を目前に、僕たちは定期テストの時期に突入する。

 僕とA子と倉持と神田さんで勉強会! ——と言ったラブコメ展開にはならなかったが、神田さんは成績が良かったから、これはいい機会だった。

 僕なりにできる意識付けとしては、ライバルのところへ頭を下げて勉強を教えてもらいつつ、「ああ、倉持もそんなこと言ってた気がする」と大根役者を演じればいい。


「二人は勉強ができてうらやましいなあ」


 取り巻きにうっとうしがられるため、僕と神田さんは放課後に図書室で小さな勉強会を開いていた。A子は成績自体に興味がないからテストのためにわざわざ勉強はしない。「授業受けていればわかる。授業受けててわからないテストは意味がない」が、彼女の理屈だった。もっともだ。

 図書室にはほかにも数人がいたが、図書室とは静かに過ごすものである、と誰かが決めたルールをしっかりと守っていた。もうそれだけで優等生な気もするし、あるいはすでに日本人として、マイノリティ少数派を排斥した結果のようにも思える。


「倉持くんはサッカーもうまいしうらやましいよね」


 周囲に気遣って小さな声音で語る神田さんは、それでも嫌味っぽさをまるで感じさせない。同じ学年の、同じクラスに、男女それぞれこうした完璧人間を用意される立ち場にもなってもらいたい。しかもへんに二人とも関係があるし、一方でA子のようなちょっとヘンテコな子ともかかわりがあって、僕の存在の立ち位置が不思議がられてしまう。いや、構わないのだけど、悪目立ちはしたくない。僕はマジョリティ多数派でありたい。


「まあ、顔よし性格よし成績よし運動神経よしを、あこがれない男はいないよね」

「武藤くんもああなりたい?」

「あこがれるのとなりたいのはまた別だからなあ」

「難しいこと言うね」

「試験問題よりは簡単だよ」

「どうだか」


 こうして倉持の話をして、神田さんの脳内に倉持の分子を植え付けていく作業は、勉強と同時進行だと難しかった。当然、勉強のほうがおろそかになる。決して要領や容量の問題ではない。


「ねえ」


 斜陽差す図書室は、倉持の話を彷彿とさせる。


「何?」


 すっかり止まったペンの動きをごまかすように、回せもしないのにゆらゆらと弄ぶ。


「もし、A子のことはただのきっかけで、うそだった、って言ったら、どうする?」

「どういう意味?」


「私は君のことが好き」


「どういう意味?」


「ずるいね」

「だってそれもうそでしょ?」


「どうかな。でも——」


 さらさらとノートの端に、神田さんの文字が連なる。

 ——そのままのゆかちゃんがいいよ。


 いたずらっぽくほほ笑む彼女は、妖艶で、魔性だ。

 そして多分、あの頃A子が恋をした「ゆ」は、こんな感じだろうな——とぼんやりと思った。


「なーんて。そろそろ帰ろうか」

「そうしよう」


 図書室を抜け、下駄箱に向かうまでの間、僕たちの間に会話はなかった。神田さんは時折隣で背伸びをして、固まった身体をほぐしていた。そのたびにさらさらと揺れる彼女の黒髪が、触れてもいないのに鼻をかすめたような気になったのは、シャンプーの香りのせいだろう。

 

 ローファーに履き替えて視線を正門のほうへ向けると、

「A子だ」

 つまらなそうにスマフォをいじりながら、寄りかかっているA子の姿が見えた。


「全部うそだなあ」

「何が?」

「僕より先にA子を見つけてる」


 神田さんは何も言わずに、代わりに笑った。

「ライバルをライバル足らしめる要因は、相手が同じってだけでしょ?」


「神田さんのほうがずるい」


「危うく恋するところだった?」

「恋させるのが好きなんだね」

「私の愛は報われないからね。ならみんなにもそうであってもらいたいじゃん。——でも、今は割と楽しいよ」

「ならまあ、いっか」

「そういうこと」


 おーい、と声を掛けて、神田さんはA子に駆け寄った。

 ぎょっとした後、うしろに僕を見つけて、ほっとしたけど、それを隠そうとしているのが丸わかりの表情をして、A子は居心地悪そうにカバンを背負い直した。

「待ってたの?」

「待ってない」

「照れんなよ」

「照れてないし本当に待ってない」


「あ、おーい」


 それで振り返ると、A子に向けて手を振りながら倉持が走ってくるから、今度は僕がぎょっとした。


 ——まさかお前、僕を「利用」しようとしたあげく、「気分を害し」やがったな。


 ——と、思っていたけれど、四人での帰り道、倉持は「ごめんごめん」と囁いて、


「A子が暇そうだったからさ、さっきまでボール磨き手伝ってもらってたんだよ。まさかあんなに一生懸命磨いてくれるとは思わなかったけど」さては恋してたな?「それで、時間も時間だから、お前ら待つか——ってなって。ドンピシャになったのは驚いたけど」


 僕の穿ちすぎな思考展開を打ち消しつつ、一瞬本心から「友達やめよ」と思ったことも水に流して、今この瞬間だけは、「利害」の枠外で、僕たち四人は笑いあって帰路についた。

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