第5話

 自分のことを語るとき、人は過剰になる。本当は四時間寝たところを「昨日は二時間しか寝てない」とうそぶくし、本当は暗いところがあるのに「世の中のためにいい!」と号泣する始末になる。

 人はそうして仮面を被って生活をする。基本は平常心を。突かれると、それに応じた感情様々な仮面を付け替え付け替え、その仮面の示すままに語調を変容させるのだ。「喜」「怒」「哀」「楽」ほかにもあるけれど、仮面はそうしたピンポイントなものが多いから、ほとんど必然的に、自分を語るときは過剰になるという理屈。


 ただ、これは一般的に、別に悪事ではない。誰もがそうである。こればかりは「普通」で「普遍的」な事柄と言えよう。薄皮一枚だろうと、常に人々は何かを演じているのだ。それが今のこの社会を生きるということに直結する。


 僕だって「当たり前の顔をした仮面」を装着している。両親の前では「よき息子」を、萌奈美の前では「よき」を、A子の前では「よき理解者」を、結局のところ演じているのだ。そうして本心を隠す。過剰にならないようにならないように、「自分」を隠し続ける。


「——で。さすがにそのまま登校するのはどうかと思う」


 電車の中で散々な痛い視線を受け続けて、ようやく僕は口にした。言葉にしてA子に伝えた。

 しかしA子はその顔をこちらに向けるだけで、感情は読めず、返答もなかった。


 彼女は今、真っ白な卵のような肌をして、ぐっと口角を吊り上げ、薄くスライスされた玉ねぎのような目をした仮面の奥から、薄く茶色がかった視線をこちらに向けている。


「いや、何も言わなくていいけれど。いいけれど、それはなんかちょっと違うんじゃない? 仮面に恋をしたとしたら、それは顔を合わせられてないじゃん。コンタクトの時とは違う話だと思うけど。あれは言ったらただのレンズであって、今回の仮面は顔をかたどっている以上向かい合っているのが通常の恋愛的視点だと思うんだけど。顔を合わせられないから重ねちゃった、っていうのもわからなくないけれど、それってなんか猟奇的じゃない? ちょっとどうかと思うんだけど——」


「長いしつまらん」


 ぴしゃりと言い切ると、A子はすたすたと先に進んでいった。仮面はそのまま。僕は半ば諦めの境地に達して彼女を追いかけた。

 隣に並んで歩いていると、嫌でもA子に向けられた視線を感じる。これはA子に限った話ではないだろうが、仮面をした女子高生が歩いていたら普通、見る。A子が対物性愛だからとか、ちょっとへんな子だからどうとかではなく、普通、見る。彼女を知らない人だって気になって視線を向けてしまう。

 隣にいると当然それが僕にも向く。


「結局脱がないわけですか」

「これは恋じゃない」

 

 朝の低い声音でそれだけ言う。

 A子はどうやら少し怒っているように感じた。怒るくらいならそんなものはずせばいいのに。相変わらず彼女のことはよくわからなかった。

 よくわからない人のことを好いている、というのも、思えば不思議なことである。しかし往々にして恋とは一発のパンチで決まる。ちょっとした笑顔とか、しぐさとか、声とか、言葉だけで、気づいたらコロンとリング上に転がって相手のことを見上げてしまっているのだ。


 結局そのまま学校に到着する。教室はもともとざわざわとしていたけれど、A子の出現でさらにざわついた。


「何それ、やば!」


 野球部のくりくり坊主が指さしてA子を笑うと、それにつられて何人かが何かを言って彼女を笑った。

 女子たちもくすくすと控えめに笑っているのがわかる。


 ——居心地が悪いな。


 思ったけれど、僕に何かを変える力はなく、しかしせめてもの抵抗レベルで、笑わないでいた。事実、面白くもなかったし。「うるせえ! 笑うな!」と彼女を守れるくらいの甲斐性があったら、僕は別の意味ですでにA子の隣に並んでいたような気もする。

 まあ、そんなものは所詮空想で理想だ。

 ある程度の「いじり」が終わったころ合いで、僕はようやく自分の席に移動した。A子は自分のことなのに我関せずの雰囲気で学生カバンを置くと、トイレに立った。


「前から疑問だったけど優佳ってなんであれと一緒にいるわけ」


 ——以前言った通り、僕の友達はA子だけではない。

 前の席の倉持が背もたれに肘をついて、挨拶より先にそう聞いてきた。


「好きだからなあ」——と言えるわけもなく、

「まあ、中学から一緒だからね」

 とだけ返す。


「同類だと思われてんの?」全く悪気もなさそうに、事実ないのだろうけど、倉持はそう言う。「優佳も実はあっち系なの?」

「あっち系ってなんだよ。あっち行けよ」

「つまんな」


 相変わらずどこにいても「つまらない」と言われてしまう。


「まあ、身の振り方と言うか、付き合う友達は考えたほうがいいんじゃん?」

「お前のこと?」

「お前ー。友達やめるぞ?」

「冗談です」

「冗談じゃねーや」


 倉持は神田さんと同じ部類の人間である。

 いわゆるカースト上位。ただ、これもまた、恨めないことに性格がいい。いいから困る。いっそくそみたいな人間であれば「やっぱりカースト上位なんて」とか言えたかもしれない。言いたいわけではないけれど。

 最初は五十音順で並んでいたため接点はなかったが、そこからの席替えで前後の列になってから、僕と彼は親しくなった。というより、彼はだれとでも親しい。前後になっただけで話しかける人間はそんなに多くない。しかも、新学期を迎えて一発目の席順でもないのだから、すでにある程度の人間関係は構築されているわけで、わざわざ前後だからと話す必要はない。ないのに、彼は僕に話しかけてきた。「なんだかおもしろそうだった」らしい。結果「つまらん」と言ってくるが。


「仮面女子って、地下アイドルじゃないんだから」


 それこそつまらないことを言って、倉持は前を向いた。よっぽど正確な体内時計を持っているのか、間もなく予鈴が鳴る。ギリギリに戻ってきたA子は、相変わらず仮面をつけたままだった。


「あー、っと。それは?」


 と、担任が尋ねるのも無理はない。尋ねる、で済んでいるだけましだ。最近は教師も大変な世の中である。


「秘密です」

 むすっとしてA子が答える。

 くすくすとさざ波のように声が流れる。


「まあ、ダイバーシティってことで」と神田さんが小さく手を上げてほほ笑んだ。「ありなんじゃないですか?」


「そういう考え方を理解して使っているのはいいことだけど、さすがに拡大解釈だなあ」

 困ったような声音を出したものの、結局仮面を取るよう強制はしなかった。いくら今時とは言え、制服の着こなしが悪いからという理由でバイトを休むようなペナルティを受ける学校もあるし、髪を染めるのもピアスを空けるのも基本的にはNGだというのに、仮面を許すのは、この担任の緩さがうかがえる。

 あれやこれやと言って殴る蹴るが返ってくるのは、いやだものなあ。


 しかし驚いたことに、結局A子は仮面をつけたままその日の授業をすべて受けた。クラスメイト達も、二限目を終えるころには誰も気にしなくなっていた。まるでもともとそういう生徒がそこに座っていたかのように、もしくは最初から誰も座ってなんかいなかったかのように、仮面のことを言う者はいなくなった。

 A子の、僕以外の友人たちは、いつも通りだった。僕のように「何してんの」と問うことはなかったし、対物性愛についてはそもそも知らないから、そういう切り方もしなかった。A子はそういう子、とは、知っていたらしい。


 帰りの電車を降り、夕方の住宅街を縫うように歩いている。公園では近所の小学校の子どもたちがサッカーをして遊んでいる。近くのベンチでは母校の学ラン姿がゲームをして盛り上がっていた。

 僕はA子と特に話をするでもなく、そういういくつかの声と声の間で、なんとなく彼女の仮面から漏れる息遣いを意識していた。


 やがてかつて彼女の恋人が入っていた自販機を通り過ぎたあたりで、A子がおもむろに仮面をはずした。


 一日ぶりに見る彼女の顔は、いやになまめかしく——などと言ったこともなく、いつも通りだった。


「なに、苦しかったの?」

「いい。もう武藤だけだから」

「なんで怒ってんの」

「怒ってないし」

「いや怒ってんじゃん」

「うざ」

「えー」

「わかった気になってんのきもいしうざい」

「きもいとか簡単に言うなよ」傷つくわ。「うざいかもしれんけど」

「うざいのはいいのか」

「仕方ない」


 プッ、と噴き出して、一日ぶりに見る彼女の笑顔は、やっぱり、かわいかった。


「武藤はうざいからなあ」

「うるさ」

「うざいけどまあまあ面白いよ」

「あっそ」

 

 少し照れたのがバレないように顔をそむける。

 彼女もそうだったのか、頬をポリポリと掻いた。


 ——で、気づいた。


「怒ってるけど、怒ってないのは、生理か……」

「え、なに。きも」


「恋をしたのは、ニキビね……」


「え、なに。きも」


 自分でもそう思う。

 あるいは彼女に対して被っていると感じていた「よき理解者」の仮面が、徐々に皮膚と同化して、僕自身と化し始めているのかもしれない。


 それはうれしくもあり、同時に、やっぱり、ちょっと気持ち悪い。

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