第3話

 自分の理想を語るうえで大事なのは、声量に他ならない。声が大きくなければ、遠くまでは伝播しないのだ。すなわち、大きな声を発することのできる立場の人間は、ほかの人よりも自分の理屈を波及しやすい。タレントや政治家の発言がしばしば取りざたされるのは、彼らが僕たちよりも一段か二段、上から声を落としているからよく聞こえるということである。


 往々にしてルールや普遍的思考展開は彼らがベースを敷く。

「普通」というものが「普通」な顔をして「普通」とされているのは、彼ら、大声の持ち主がそれを「普通」と公に認めているからなのだ。


 タレントの多くが、政治家の多くが、異性に恋をして異性と結婚して子どもを産んでいくから、それが当たり前のこととして認知されるのだ。そして大多数の人間は、それを自分も当たり前に感じるから、異性に恋をしていくわけだ。


「穿ちすぎ」


 A子は、最も言われたくない言葉を言って、僕のスマフォから視線を逸らした。

 この場合の「言われたくない」は、僕の中でというよりは、「彼女からは」という意味である。


「じゃあ見なければよかったじゃん」


 帰りの電車を待つホームで、僕たちは並んでベンチに座っていた。教室でも嫌でも顔を合わせるのに、行きも帰りも一緒なのだから、自然、出会いのころに比べれば口調も砕けるというものだ。


 今、僕はおとといに観た映画の感想を投稿サイトに掲載しようかと文面を作っているところだった。

 こんなことは恥ずかしくて言えないが、少しでも「対物性愛」を理解できるのではと、スマフォのAIに恋をする男性の話を描いた作品を観たのだ。正直それに対する理解を手助けすることはなかったが、きれいな映像と、俳優の演技にやられた——とそれっぽく言えもするが、単刀直入に、感動したのである。


 ただ、僕と言う人間は素直ではない。素直であればとっととA子に告白して、嫌そうな顔で振られていたことだろう。僕がA子に告白をしないのは振られるのが嫌なわけではなく、素直ではないだけなのだ。


 そういう元来の性癖もありつつ、単刀直入に「感動した」と言えなかったので、いろいろと考えを巡らせて入力しているうちに、A子の言うとおりひどく穿った感想になってしまった次第である。

「感動した」と言えていればそれは流行語にすらなったかもしれないのに。素直じゃないということはひどく損に感じる。


「隣で黙々と何か書いてたらさすがに気になるよ」

「そうかも」

「っていうか一緒に帰ってるんだから、それは家についてからやればよくない?」


 ——あるいはA子も素直じゃない。なんて、かわいげのある言い方では一切なかったけれど。


 大人しくスマフォをしまおうとすると、A子は急に僕の手を掴んでそれを阻んだ。

 鼓動がはねたのは、何事かと驚いたせいだと曲解しておく。


「あれ、改めて見ると……」


 彼女は掴んだ僕の手をじっと眺めているように見えた。


 姉が二人の三姉弟。名前のせいもあって小学校の低学年ごろまではよく女の子に間違えられたという自慢できそうでできなさそうな経緯を持つ僕は、よく他人に爪の形をほめられた。あまり骨ばっているわけでもなく、男らしく血管が浮いているでもない細い指の先に楕円を描く僕の爪は、顔と同じで卵のようにつるんとしていた。


 A子は今まで、確かに僕の指をあまりまじまじと見てこなかった。

 たまに女性は手の形や指の長さ、爪から恋することもあるとかないとか。


って、かわいくない?」


 ——と、期待するだけ馬鹿だった。


 まったくの余談であるが、僕はいまだに「ゆ」をきれいに書けない。きれいに書かれない「ゆ」は可哀想だなと思うこともある。

 前述のとおり、僕は小学生のころはよく女の子と間違えられた。その一因として、名前が「優佳ゆか」のせいもある。ということは僕は、自分の名前の漢字を覚えるまでは「むとうゆか」と常々テストなどで書いてきたわけだが、それがいまだに「ゆ」をきれいに書けないのだから、事の深刻さも伝わるだろう。

 伝わったところで——と言う話ではあるが。


 ともあれ「ゆ」がかわいいと言われると、馬鹿を見た気分になりつつも、それはそれで、それほど悪いものでもなかった。


「独特な、ほかにない形——」

「ああ、スイッチ入ってます?」

「——若干」


 恋多き乙女である。そのくせ僕を選ばないのは、僕に命があるからであろうか?


 その日からA子は「ゆ」に恋をした。

 休み時間になるとひたすらノートに「ゆ」を書き続けた。量産型彼氏である。これだけ書き換えが簡単な彼氏ならば世の女性たちもいちいち恋愛に一喜一憂しなくて済むというものである。「上書き保存」も甚だしい。


 彼女が僕の名前を知らないとは思っていなかったが、そのことに関する話題はなかった。例えば僕が「結城ゆうきくん」とか「湯浅ゆあさくん」だったら多少話の流れは変わったかもしれないが、仮に僕の持つ「優佳」の「ゆ」を好きになったとして、そしてその「ゆ」を目的として僕と結婚したところで、彼女がその「ゆ」と生涯を遂げられるわけではない。いや、ある意味遂げてはいるのだが、それは僕が死ぬまでであって、彼女の一部となるわけではない。なかなか難しい問題だ。たかが妄想でも、こんな攻め方さえ許されないなんて。


 ——ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ……


「よくゲシュタルト崩壊しないね」

 彼女のノートを覗き込んで言うと、A子は情事を覗かれたかのように慌てて彼氏を隠した。それから恥ずかしそうになってボブカットの先端に目を隠して、

「全部違うから」

 と言った。


 確かに仮に、目の前にA子と、A'エーダッシュ子と、Amエーマイナー子がいたとして、それらはすごく近似値の姿をしているが、どことなく何かが違うような感じ——がすると仮定すると、ゲシュタルト崩壊は起きないのかもしれない。同じ「ゆ」でも人が書いているわけだから同じものは二つない。——何かこの世の真理を解かれた気分になったが、全くそんなことはなかった。


「どれが好きなわけ」


 呆れた感じを隠すことなく問うと、


「ダメなの」


 珍しくしおらしい声音でA子は言う。

 いわく、どうも彼女が恋をしたのは僕のスマフォの中に見た「ゆ」であって、それ以外ではなかった、ということだった。同じ「ゆ」を何とか作り出そうとしてみたけれど、今のところ叶っていない。と、そんなところらしかった。


「え。スマフォ見ればよくない?」


「そういうことじゃないじゃん!」


 言って、彼女が僕の太ももを強く叩いた。これに性的興奮を覚えるのは、決してMっ気があるからではない。陰部が近いからである。すなわちこの辺りは血管が集中していて、刺激に敏感なのである。


「じゃあ武藤はスマフォで見た画像の女優に恋をしたとして、それでいいわけ? 画面越しの恋愛でいいわけ?」


「よくないかも」


「そういうことじゃん!」


 全く、彼女の屁理屈はいつもそれらしく感じる。

 人に恋をするとしても、物体に恋をするとしても、触れられないのでは意味がないらしい。いわゆる二次元に恋をする場合もあるが、——彼女はそうではないということだ。ただ、スマフォ画面上の「ゆ」とノート上の「ゆ」の何が違うのかは正直よくわからない。


 ともかく彼女はすでに僕よりも一段か二段か上にいて——、下ろされた言葉を狂信的に飲み込んでしまったのである。

 

 ——恋とは往々にして、へりくだるものなのだ。


 しかし悔しい気持ちは拭えないので、次はリアルドールと恋をした男の映画を観よう。同じ段に上がるためには、もう少し彼女への理解が必要なのだ。

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