第2話

 どうも調べるところ、幼いころに人を嫌いになるようなトラウマ経験を持っていたり、共感覚によりものと人間を同一視してしまうために「対物性愛」という価値観が生まれるらしいが——結局のところ詳しい理由はわからない、というのがもっぱら、これに限らず大体のことを指す世間の文章である。


 思えば幽霊もよくわからないし、魂もよくわからない。

 わからない人には同性愛もわからないし、それどころか恋愛もわからないわけで、こんなことをいちいち考えるほうが時間の無駄なのである。

 ダイバーシティといった言葉を重要視する向きが電車のごとく世間では横行しているけれど、そもそも論を言ってしまえばだれもが違うわけだから、改めて声高に叫ぶ必要もない当然の話なのだ。


 まして僕の場合、自分の持たない価値観を持つ人間がこうして「いる」わけだから、その理由やルーツについて知っていようが知らなかろうがどうでもいい話なのである。「いる」から「ある」し、「ある」なら「受容する」のが川と同じ流れの法則だ。

 とはいえ。電車の中で同席しているだれも彼もの価値観を理解し許容するのが正解じゃない。美しいかもしれないけれど、それは理想論が過ぎるという話で、つまるところ「友人」は受け入れ、「他者」は無関心で良い。


 ——というのが僕の持論であったが、どうもそれはたった四十人ぽっちしかいない教室の中でも、共通認識としては取られなかった。


「なんでA子っていつもルービックキューブを撫でてるの?」


 クラスのいわゆるカースト上位に位置する神田さんは、休み時間の最中、特に回すでもなく眺めるわけでもなく、ルービックキューブを「撫でている」A子に対して、ひどく純粋に疑問を投げかけた。そりゃ、元来ルービックキューブはおもちゃなわけで、ぐるぐると、せめて一面をそろえるために時間を使ってもらうのが正しい在り方なのだろうけど、このころのA子はおもちゃとしてではなく、恋人然としてあの立方体を持ち歩いて愛でていたから、目立っても仕方ない。


 神田さんの取り巻きたちはそんなことはどうでもよさそうで、また、クラス全体もどうでもよさそうだったから、やんややんやとそれを茶化す人間もいなかった。いなかったけれど、僕だけがこの後の展開を様々想像しては不安になり、緊張していた。


「別によくない?」


 するとA子も殊更こともなげに、純粋にそう言った。

 A子はカーストで言うと中程度に位置している。神田さんと積極的に絡むことはなかったけれど、会話をしないわけでもない。というか、彼女の場合、カーストの何位である——と言ったものは大したステータスではなくて、彼女のアイデンティティはほかにあるわけで、本人もそれほどそれ自体を気にしているそぶりはなかった。

 だからこうして自分より上位に対してもある意味分け隔てなく同等な言葉を使うわけだけれど、——教室の中はその点については「無関心」でもいられないようで、取り巻きたちがようやくワッと突っかかっていく。


「何その言い方」

「え、きも」


 事ここに至っても、A子と神田さんの二人は、お互いそれほど大事にするつもりもなく、また、したくもなさそうだった。神田さんはカースト上位とはいっても成績がいいとか、顔がいいとかといっただけで、圧倒的支配欲があって男どもを尻に敷いて気に食わないやつはいじめます——みたいな、いかにも漫画的嫌味な少女ではなかった。言ってしまえば却って面倒ごとは避けたいタイプに見える。

 でも、神田さんは特に取り巻きたちを止めることもしなかった。まあ考えてみれば当たり前に、自分とは関係ないところで発したいざこざに、わざわざ「どうどう」と抑えに入る意味もない。すっと半歩身を引くのさえ見えた気がする。


「きもいって何が?」


 至極もっともにA子が言い返す。

 確かに、今回の「きもい」はほとんど反射的に聞こえた。


「きもいはきもいってことだよ」


 取り巻きも馬鹿ではないから、わざわざ声を上げたりはしなかった。同じトーンですっと言うのが、逆に冷酷にも見えはしたが、——この辺はどうもどっちもどっちに感じられもする。


「そっか。まあ、別にいいよ」


「あっそ」

「もういいよ、行こ行こ」


「そうね。行こっか。——ごめんね、A子」


「別に」


 神田さんはそうして最終的に自分の網ですべてを掬って見せたが、それすらどうでもよさそうにA子は返す。


 中学の卒業式後のあのキラキラしたA子は、しばらく鳴りを潜めていた。

 それも仕方ない。

 ルービックキューブに恋する前のA子は、おしるこの空き缶とひどい別れ方をしていたのだ。


 同じ中学に通っていたということは、当然家が近いということで、僕たちは高校で再会してからしばしば帰りを共にしていた。

 中学と高校で大きく違うことは、貴重品を身に着けられることだった。財布、スマフォ、鍵等々。家が遠い生徒もいるから、こうしたものが認められるようになる。となるとほとんど必然的に、帰り道で買い食いが発生するわけである。


 五月になったというのに、忘れ去られたように冬のラインナップのままの自販機。忘れ去られているのだから補充もされておらず、ほとんどが売り切れになっていた中で、「あったか~い」おしるこがそこにはいた。


「やばっ!」


 もともと甘いものが好きだと言う彼女は、冬になると毎年狂ったように缶のおしるこを飲んでいたそうだが、この時に出会ったおしるこは、特別だ。

 だってもう人々は寒さからではなく花粉でくしゃみをする季節。花は咲き、人々が新生活を迎えてようやく落ち着きを見せ始める、そんな季節なのだ。


 その、取り残されたおしるこを見た瞬間、彼女は迷わず小銭を投入していた。


「逆に喉乾きそう」

「本当につまらん男だなあ」


 それこそすでに空いた穴にぶすぶすと錆びた金属を突っ込まれているようなダメージを受けつつ、彼女がおしるこを掬い上げて早々に飲み始めるのを見ていた。

 くっと傾きを抑えて、改めて自販機と向かい合った彼女は、


「運命だこれは」


 と目線をそのままに言葉を漏らした。

 どうも、最後の一本だったようで、「売り切れ」の文字が光っていた。


 ——それからA子はその運命のおしるこ缶としばらくを共にしていた。

 登下校も、昼休みのご飯も、僕とA子とおしるこはセットだった。


 それが先日。

 いつものように二人とひと缶で帰っている途中、

「あ」

 と言って彼女が躓いた。

 運悪くその時のA子は「おしるこ缶との新しい手のつなぎ方」をいろいろと試していた時で、——ふっとおしるこが手から離れていってしまった。

 

 彼らは円柱である。側面は若気の至り然り、止まることを知らずころころと世間に転がっていく。

 そして、帰り時の往来の激しい道路に飛び出して、——次の瞬間にはぺちゃんこだった。


 つまりA子は、元カレとは死別したわけだ。


 そこからのA子は荒んでいた。出会うはずのない春のおしるこ缶との死別は、なかなか堪えるものがあったらしい。それで、半ばやけくそに、自分に言い聞かせて無理やり好きになったのが——ルービックキューブなのである。

 

「もうおしるこのことはいいの?」


 と、自分でも頭がおかしくなったのではないかと思われるセリフを発すると、彼女は、

「こいつは転がらないから」

 虚空を眺める視線でそう言っていた。


 だから、ルービックキューブとの恋愛はそれほど順調ではなかった。

 回してもそろわないし、頭は固いし。A子の思考で理解するにはルービックキューブは難解すぎた。せめて撫でているしかないわけだけど、それも否定されれば、そりゃ、機嫌も悪くなる。


 ——まあ、A子のことは好きだけれど、彼女は彼女で、僕は僕である。

 彼女の対人関係にまで口を出すつもりはないし、それを正そうとするのはエゴに違いなく、そもそも正しいとはなんぞやという哲学的展開を迎えそうなので、僕は彼女とルービックキューブのことは忘れて、トイレに向かった。


 折悪く、神田さんたちと出くわす。女子が揃っていくところと言えばトイレしかない。


「武藤くん」


 やり過ごそうとしていたのに、同じクラスと言うのは不便なもので、毎日聞いているから名前も憶えられてしまう。


「なに?」


 神田さんは取り巻き二人を先に教室に返すと、華奢な手で僕を手招きして踊り場に誘った。まさか本当に踊るわけではなかったが、彼女はふいに僕の手を握って、なにかを確かめるようにぶんぶんと上下に振った。


「さっき、見てたでしょ」


 メンタリズムのテクニックを見せつけられているかのように、僕は上下に振られる手に意識がいってしまって、まともに何かを考えることができなかった。


「見てたというか見えてた」

「武藤くん、A子のほかに友達いないもんね」

「それは誤解」

「A子は友達じゃなくて恋人?」

「それは語弊」


 言うと、彼女は笑って手を離した。


「でも私、負けないからね」


 ——たいていの人間は、多くのことを隠して生きるものである。まるでそんなそぶりはなかったじゃないか、ということをこともなげにやってのけてしまう。犯罪者に対する「そんなことをするようには……」という認識が、実のところそこらじゅうを我が物顔で占領しているのだ。

 あれほどの大事を成し遂げてしまう——というと語弊があるが、やってしまうような理解しがたい人間は、存外すぐ隣にいるわけで、それができてしまう人間が隣にいるのであれば、女性に恋する自分を平気で隠すことくらい、わけないのかもしれない。

 もちろん僕も女性に恋する自分を平気で隠していたつもりだったが、彼女はルービックキューブよりも難解な頭を持っているのか、僕の理解しがたい理解を簡単にやってしまう。


「困ったな」


 率直な感想を漏らすと、それを体現するように、神田さんから離されて所在がなくなった右手にじんわりと汗を掻いていた。


「引かないの?」

「理由がない」

「すごいね」

「すごくはない」

「確かに」


 神田さんの笑顔は、魅力的だった。たとえ成績がそんなに良くなくても、顔がそんなに良くなくても、あるいは性格が悪くても、彼女の周りには人が集まるだろうなと思える笑みだった。

 

「引いてたらどうしたの」

「引かれたら押せって言われて育ってきた」

「屋上じゃなくてよかったよ」

「物理的にじゃないよ」

「自発的に飛び降りたくなっちゃったかも」

「やってみる?」

「ご遠慮」


 予鈴が鳴る。僕たちは同じ教室に戻るわけだから、一緒に戻ればよかったけれど、神田さんがそれを嫌がった。いわく、ライバルとは肩を並べない——らしい。男らしい、とは言わないが、勇ましい言い草だ。


 ちんたらと教室に戻ると、A子は得意げな表情で机の上に、六面をそろえたルービックキューブを飾っていた。


 ちょっと悔しかったのだろう。


 ——かわいいやつめ。

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