友人A子の恋愛遍歴(仮)
枕木きのこ
第1話
「昨日初めて入れたの。すごいね。びっくりするぐらい、入れた瞬間からぶわーっと濡れてるのがわかってさあ。思ってたより硬く感じた。でも聞いて想像してたほど痛くはなかったよ」
言下に思わず噴き出した僕のコーラを、彼女は特に感慨も、考えもなさそうに、通学カバンから取り出したキティちゃんの柄のハンドタオルでごしごしと拭いた。テーブルはそれできれいになったけれど、周囲の視線まではぬぐい切れなかったようで、くすくすと隣の女子大生然とした二人組が笑っているのがわかった。
A子は満足げに、薄く汚れた面を内側にしてハンドタオルをたたみ直すと、それをしまいつつ、余ったほうの手でフライドポテトを口に運ぶ。油がグロスの役割を担って、わずかにてかてかした彼女の唇は、まるで卑猥と取れる言葉を発したとは思えないほど小さく、少女のようだった。
「コンタクトの話ね」
気恥ずかしさを半分、確認と、言い訳のためにあえて言う。普段は丸っこい眼鏡をしているのに今朝からそれがないのだから、当然それ以外の可能性なんてない。ましてやA子に彼氏はいないし、現状、できる予定もなく、貞操観念もそれほどゆるゆるはしていない——はず。
女子大生たちはもはや僕たちの会話に興味をなくしているようで、タピオカがどうとか、漫画の新刊がどうとかと話していた。「かわいいカップルね」などとそれこそ漫画染みたことを言われることもなく。僕だけが慌てていただけだった。空しい。
「もうね、この一体感がたまらない。どうしてわたし、今まで眼鏡派だったんだろう。不思議。本当にね、言葉通り、視界が開けたみたい」
「そりゃよかったね」
一方相変わらずの眼鏡派の僕は、会話の焦点を合わせるようにして眼鏡を押し上げる。まっすぐに見るA子は、薄く茶色がかったボブカットをさらさらと揺らして、今度はハンバーガーを食べようとしている。
「それで、今度はコンタクトって話?」
そりゃ、今この瞬間までの会話もコンタクトの話に違いはなかったわけだから、ここでもう一度、隣のお姉さまたちの視線がちらと向くのがわかる。どうも頭がおかしそうなのは女の子のほうだけじゃなかったみたい、と二人が目を合わせているのが視界の端に写る。
おかしいのはこいつだけおかしいのはこいつだけ——心の中では、届くはずもなかろうに念仏のように唱えている。
「そう。恋しちった」
軽口をたたくと、そのまま大きく開いてハンバーガーをガブリ。打って変わって育ちのよさそうな咀嚼をしながら、A子は瞬間、僕の目をじっと見つめた。
僕はなんだか気まずくなって視線を逸らす。
A子とは中学生のころから一緒だ。幼馴染、と言うには出会いは幼くなかったが、腐れ縁と言うにはまだ新鮮な関係。
ただし、数奇な出会いであることは間違いないだろう。
それまでも、A子のことを認識していなかったわけではなかったが、同じクラスに一度もならなかった僕たちが、ようやくきっちりかっちりと関係を持ったのは、中学の卒業式の後だった。
近場の高校に進学する者、都内の学校へ通うため上京する者。もう二度と会わないかもしれない予感のせいで、帰るに帰れなくなっていた式後、最後だからと無遠慮に机の上にどっかと座っていた僕の学ランの裾を、廊下から手を伸ばしたA子が引っ張った。
ひゅーひゅー、と口に出して言われると、自分でもそんな気持ちになってくるから不思議だ。無難と言うか、ありきたりに体育館裏についてきてと言われた僕は、クラスの好機の目にさらされながらA子に付いて行った。
式の後とは言え通常通り行われいているバレー部やバスケ部の鳴らす小気味いいバウンド音を聞きながら、A子は少しの距離を取って僕のほうを見ていた。
「……好き」
ようやく彼女がそう言ったのは、体育館のほうから何かを知らせるブザーの音がしてからだった。恥ずかしそうにもじもじと両手をこすりながら、視線を合わせることもできないでいるA子のことを、僕はここで初めてちゃんと認識するに至る。
案外、かわいいかもしれない。
こうして、僕たちは他人と付き合うんだろうなあ。
などと、これから高校生——少し大人になることを踏まえて、そんなことを意識した。
「第二ボタン、ください」
それから、本当にこういう慣習はあったんだ——と妙に心がざわついた。第二ボタンをもらうのは心臓に近いからだったっけ、などと昔何かで見たうんちくがぐるぐると頭の中を駆け巡っていく。
学ランでよかったかも。
その堅苦しさについぞ三年間馴染めなかったため、高校はブレザーのところを選んでいたから、「第二ボタンをください」と言われるのは一生でこのタイミングを逃すともうない。ということはおおよその人間ができない経験を、僕はしたと言ってもいい。
「いいよ」
ぐりぐりと弄ってボタンをはずすと、二歩で距離を詰めて彼女の手に握らせる。A子は嬉しそうにそれを抱え込んで、ここまでの緊張を身体から追い出すためか深いため息を吐いた。
そのしぐさがいかにも女の子然としていて——、ああ、かわいいんだなこの子、と感じた。
——感じたのもつかの間、
「それじゃ。ありがとう」
とA子が去ろうとするので、すでに通り過ぎた彼女の後姿に、
「え、ちょ、待っ」
声を掛けると、彼女はひどく怯えるように身を縮こまらせた。
「な、なんでしょう……」
「え? えーっと」いざ自分で言うとなるとこんな恥ずかしいこともあるまい。「第二ボタンをもらっていくってことは、好きって——あれ?」
よくある少女漫画ならここでぎゅっと僕たちは抱き合って、あっという間のファーストキスを済ませてしまうはずなのだ。それで、左下に「次回作にご期待ください」と書かれて、何年か経って高校編が始まる——。ところが全くそんな展開になる気配はないし、それどころかなぜか怯えられているのだから、クエスチョンマークが所狭しと頭の中を支配したとておかしなことはない。
「うん。だから、好きって。第二ボタン」
「は? ……はあ」
文脈に間違いはないし、彼女を責めることもできまい。うそは言っていないのだから。
うん、それじゃ。と言って別れたのち、僕たちは早々に高校で顔を合わせるわけである。その時彼女に聞いたところが、要するに、彼女は「対物性愛」という恋愛価値観の持ち主だ、という話だった。
人を愛するがごとく、ものを愛する人々の価値観。
「世の中にはエッフェル塔と結婚したり、ベルリンの壁の崩壊を心から悲しんだ人がいるらしいよ」
——まあ、わたしのはもっとドライと言うか、インスタントなんだけど。
全くこともなげに彼女が言ったのが、今から半年ほど前。
それから、どうも僕だけが彼女のその価値観を把握し、彼女からしてみれば理解もしていると認識されていて、こうして遠慮することなく自分の「恋バナ」を披露できると、重宝されている。
第二ボタンに恋していた彼女に恋してしまった僕としては、全く困るところはない——とは言わないが、悪い立ち位置でもないから、甘んじているわけである。
それで、ルービックキューブやらワイヤレスマイクやらUSBケーブルやらに続いて、今はコンタクトレンズに恋をしている——と言うのが現状である。
「え。でもコンタクトってどうなの?」
「何が?」
僕の問いに、問いで返される。確かに、問いとしてはいささか言葉が足りない。
「総体としてのコンタクトが好きなのか、個体としてのコンタクトが好きなのかで、だいぶ問題が変わってくる気がする」
「そもそも問題ではないけど」
「いや、今つけてる初めての相手に恋してるとしたら、——それってワンデイでしょ? 今日の夜にははずして、明日にはカピカピになってるじゃん。それってコンタクト的に死なんじゃないの? でもこれが総体としてのコンタクトを指しているとしたら、明日も明後日も同じように恋が続くけど」
「うーん。お前の話はつまらん」
「ええー……」
「だって、男が好き! って言ったって、恋する相手は個体でしょ? 当たり前の話じゃない。だったら答え出てない?」
もっともらしくそう言われると、確かにそうである。
僕も女性が好きだが、結局A子に恋をしているわけで。
「じゃあワンデイラブなんだ」
「うん。ワンナイトラブ」
「夜は越さないけどね」
「うるさい」
机下で脛を蹴られる。いってー、と屈んでさすっていると、頭上で笑い声が鳴っている。
少し汚れたローファー。白い靴下。綿棒みたいに細い脚から、ひざを隠す紺色のスカート。
そうして大事な部分を隠すように、僕はA子への恋心を隠し続けるのか、と思うと、少し、いや、だいぶ。悲しい気持ちになる。彼女がものを好きでいる限り、隣には居れても恋人にはなれない。甘んじたのは自分とは言え、なかなか苦行である。
幸いと言えば、恋敵はものを言わない——というかものそのもので、顔もなければ意志も言葉も持たないということだ。少なからず表面上は。
僕はA子と言葉を交わせるし、笑顔を見せあえる。まあまあ、優位だと言ってもいい。負けてはいるけれど。
よし——気合いを入れて身体を起こそうとしたら、思いのほか机が深く、ごんっ、といい音が鳴った。
「痛そう」
目の前に星——の表現が正しく思える、ちらちらとした視界の中で、頭をさすりながら彼女のほうを見た。
「痛いっす」
「たんこぶできた?」
油を気遣って親指と人差し指を除いた残りの三本で、A子は僕の頭に触れた。
これはこれでくらくらしそうな瞬間。
「——あ」
それから少し身を乗り出した彼女の胸元が、僕の眼前で揺れる。
「——え」
鼓動が高鳴って、急速に頭に血が上っていくのがわかる。今しがたぶつけたところがじんじんと唸っている。
「やばい」
「たんこぶできてる?」
「——たんこぶに恋しそう」
——どうも僕の恋路は、邪魔ばかりだ。
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