第9話 生ビールと小さな巨人
新宿駅東口。
駅構内の緑の蛍光色の時計が19時58分を示している。
駅構内を往来するサラリーマン。学生たち。そしてなにをやっているのか判別が付かない人々。
様々な名前も知らない群衆が僕とすれ違い、そして雑踏へと消えていく。
僕の物語に登場することはない多くの群衆の中に、僕の物語に登場する人物の姿を見つける。
柱に寄りかかり、スマホを握りしめ、辺りを見回す女性。
身長は150cmくらい。
20代後半にしては、幼すぎる顔だったが、そのパーツ1つ1つは整っていた。
彼女は薄い水色のブラウスにチェックパンツというOLとしては大分ラフな格好だった。
その見た目は可憐な美少女というよりも、元気な少年というほうが合っているといった感じだった。
彼女は紺色のパンプスが脱げてしまうくらい、おもいっきり背伸びをし、なにかを探している。
その表情には、迷子の子供のような不安感や真剣さがあった。
僕は、彼女が見える距離で足を止めて、その姿をぼんやりと眺める。
彼女は必死になって、その小さな体を右へ左へと動かしている。
そして不安そうな顔が一変し、曇天に光が差し込むように、彼女の表情は笑顔になり、白く尖った八重歯が顔を出す。
八嶋さんが、僕に近寄ってくる。
そのわずか5mか10mかの間に、迷子の少女の顔からしっかり者の上司へと表情を変える。
「お疲れ様。仕事は片付いたのかい?」
「はい。一応……すいません。遅くなって。」
「ほんとだよ。どんだけ待たせてんだよ。」
八嶋さんは口を尖らせて、わざとらしく不機嫌な表情を作る。
「すいません。なにか奢りますから許して下さい。」
「そんなん当たり前でしょ。ま、とりあえず遅くなった分、今日はあたしに付き合ってもらうからね。」
「はい……」
僕らは新宿駅東口から階段を上り、地上へと上がる。
夜だというのに、ひどく蒸し暑く、湿気が肌にまとわりつき、嫌な感触だった。
「どっか行きつけのお店はある?」
「いや、特には。」
「いい大人の男が行きつけの店もないとは寂しいねえ。」
「いつも安いチェーン店とかばかりなので。」
「こんな可憐な女性が一緒なのに、お洒落なバーのひとつも調べてないの?」
「可憐な女性が見当たらないのですが……」
「おい、なんか言ったか?」
「なんでもないです……」
八嶋さんは、小さな歩幅を一生懸命に広げて、僕より前を歩く。
僕はゆっくりとその足取りを追う。
「よし。ここにしよう。」
八嶋さんは立ち止まり、一つのお店を指差す。
そこはサラリーマンや大学生たちが肩を寄せながら、ビールや焼酎を安価で楽しむいわゆる大衆居酒屋だった。
「あれ。可憐な女性はお洒落なバーに行くんじゃなかったんですか?」
「たまには庶民の味も知っておかないとね。ほら行くよ。」
冗談を言い合いながら、僕らは店内に入る。
中東系の外国人女性店員さんが、出迎えてくれ、僕らを接客してくれる。
片言の日本語が妙に可愛らしかった。
ネームプレートには可愛らしい字で『ジャスミン』と書いてあった。
僕らはビールケースの椅子に、荒い木目のテーブルの席に案内される。
右隣にはもう出来上がった40代のサラリーマン3人、左隣には性の概念が緩んでいそうな男女の学生2人。(おそらく付き合っているわけではない)
学生時代から僕がお酒を飲む場所と言えば大衆居酒屋だった。
相田と僕の行きつけの『八べえ』という居酒屋も、形態こそ違えど同じような雰囲気だった。
僕らは生ビールを注文し、乾杯をする。
窮屈な店内に座り心地の悪い椅子、狭いテーブル。
でもどこか僕の心を落ち着けるものが、そこにはあった。
「おねえちゃん、注文いい?枝豆と冷奴と唐揚げ。木田君もそれでいい?」
八嶋さんは店員のジャスミンを呼び、注文をする。
「いいですけど、八嶋さんオヤジみたいですね。」
「なんだよ!こんなにか弱き女の子を捕まえてオヤジとか。これはもうあれだ。セクハラだよ。」
「なんでですか!」
「いやーもうこれは教育委員会に訴えないと気が済まない。」
「訴えるなら、教育委員会じゃなくて労働基準監督署とかですよ……」
「そうやって上げ足ばっか取りやがって。もう君には唐揚げあげないよ。」
「なんですかそれ。別にいいですよ。」
僕は会話の中ふと気付く。僕は笑っている。しかもそれに気付かないくらい自然に。
いつ以来だろう。こんなにも純粋に笑えたのは。
肩の力が少しずつ抜けていくのがわかる。
「ふぁっきからふぁにかんがえてふの?」
八嶋さんは、口いっぱいに唐揚げを含みながらなにかを喋っている。
「え?なんですか?」
「(ごくん)なに考えてんの?って。」
「いやー世の中にはいろんな女性がいるんだなあって考えてました。あと八嶋さん。口の中にモノ入れながら話さない方がいいですよ。仮にも女性なんですから。」
「仮にもってなんだよ!失礼な発言したから冷奴も没収。」
冷奴の小鉢をテーブルの中央から自分のテリトリーに引き寄せ、頬をふくらませる。
「八嶋さんってなんか小学生みたいですね。」
「は?ほんと木田君失礼だな。わたしは立派な大人だよ。お酒だって飲めるし。」
そう言うと彼女はビールを一気飲みし、新しいビールを2つ注文する。
「木田君。きみ遅くない?君のが小学生なんじゃないの?」
少し挑発した途端、煽り返してくるあたりやっぱり小学生みたいだった。
僕は柔らかな気持ちで、彼女との会話を楽しんでいた。
太陽が差し込む、日本家屋の縁側で日向ぼっこをしている時のような柔らかい心持ちだった。
そういえば僕、こんなに八嶋さんと上手に会話したことあったかな。
八嶋さんは気さくで話しやすい女性ではあったが、職場の上司でもあるし、そこそこ人気のある女性社員だったので、僕はあまり上手く話せた記憶がなかった。
でも今日は八嶋さんと上手に話せている。
おそらくは、昨日社内のアイドル東条さんとの情事があったことで、庶民派で気さくな八嶋さんと話すハードルが下がっていたのだろう。
でも僕は一つ大事なことを忘れていた。
八嶋さんは、酒癖があまりよろしくないのだ。
直接その姿を見たことはないが、上司の繁水さんからそんな話を聞いていた。
職場の飲み会などでもその片鱗を見せることもあった。
しかし気付いた時にはもう時すでに遅かった。
八嶋さんは、注文されて届いたビールを水でも飲むように急ピッチで飲み干し、また違うお酒を頼んでいた。
そして、僕にも同じ量飲むことを強要してくる。
これこそアルハラで訴えれば勝てそうだったが、僕自身嫌ではなかった。
女性と飲むことがこんなにも楽しい事だと言うことを、僕は生まれて初めて体感していた。
そして彼女は酔いが回れば回るほど、色気がどんどんと増していった気もする。
でも不思議と緊張したり、彼女を無駄に意識したりすることはなかった。
自然体で接することが出来る。
こんな風に女性と接することが出来たのは、おそらく初めてだろう。
あ……幼馴染の清水がいた。
だがまあそんなことは今の僕にはどうでも良かった。僕は八嶋さんともっと仲良くなりたい。
願わくば……
無論、東条さんとは一応付き合っているし、八嶋さんと付き合うことは出来ない。
けれども、彼女の気持ちを確かめるくらいはしておきたかった。
確かめてどうするのか。そんな事は全く考えていない。
それでも確かめておきたい。
昨日の朝の意味深の発言や付箋の意味。
それらの答えを知りたかった。
僕はその質問をするのにいくらか緊張した。
それでも僕は意を決して、八嶋さんの目をしっかりと見つめ、そしてひとつ息を吐き、口を開く。
しかしそのコンマ何秒か先。
八嶋さんの方が先に口を開いていた。
「木田君さー。なんか大変なことに巻き込まれてない?」
「え?」
予想外の質問に僕は固まる。
「あたしぜーんぶ知ってるんだ。そのうえで今日飲みに行こうって誘ったし。」
僕は返答に困る。
いままで酔っぱらっていたはずの八嶋さんが、今は凛とした表情で僕を真っ直ぐに見ている。
「別に詮索するつもりはないし、話したくなければいいんだけどさ。もし辛いなら話した方が楽になると思うよ。」
八嶋さんは僕の答えを聞かずに続ける。
「あたし、秘密とかは守るしさ。それに木田君はあたしにとって大事な後輩だしね。」
「え。えーと……」
僕はその質問を自分の頭の中に馴染ませる。そして、言うべきかどうか、それについて思考を巡らせる。
八嶋さんは自分の言うべきことはすべて言い尽したと言わんばかりに、ただ黙ってウーロンハイをちびちびと飲んでいる。
僕は彼女から視線を外し、自分の思考に戻る。
彼女に話すメリット、デメリット、抱えるべきリスク、今後想定される展開。
様々な事を頭の中で論理的に考える。
正確に言えば考えるフリをする。
なぜならば、もう答えは決まっているから。
僕は誰かにこの話を打ち明けたかったし、なにより、八嶋さんと秘密を共有することを僕は望んでいた。
自分自身に言い訳をするためだけに思考を巡らせるフリをし、そして仮初の結論を導き出す。
僕はひとつ息を吐き、彼女の目を見つめる。
「あの……誰にも言わないって約束してもらえますか?」
続く
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