第10話 沈黙のその先に
にぎわいを見せる店内。
会社の愚痴や妻の不満を言うサラリーマン。同じサークル内の性の乱れについて議論を重ねる男女の学生。
日本で生きていくために必死でつたない日本語で、酔っぱらい客をいなす店員のジャスミン。
店内に流れるネットからブレイクした若者に人気の歌手の曲が
誰もその音楽を聞こうとはしないし、それがなくたって誰もそれに気付かない。
でもそれはなにかのしるしのように、休むことなくそこに流れている。
店内と厨房の熱気で表面が曇った厨房の時計が21時45分を指していた。
僕が意を決し、放った言葉は彼女をすり抜けて、店内の雑踏へと消えていく。
しばし沈黙がある。
八嶋さんは、僕の顔を見つめたまま、沈黙を守る。
これから僕の相談を受ける段階に入るという象徴のような、そんな沈黙だった。
どのくらいの沈黙があったか、わからない。
5秒だったのか、10分だったか。
でも僕にはもう言うべきことはなかった。ただ八嶋さんが口を開くのを待つしかなかった。
そして沈黙は破られる。
「んー。秘密は守るよ。けどね、それが深ければ深いほど、相談相手のことを信頼できないといけないとおもうの。言ってる意味わかる?」
先程までの酔いが回り、軽口を叩く八嶋さんはもうそこにはいなかった。
「つまりね。その木田くんの悩みを活かすも殺すもわたし次第なわけ。その相談事を明日会社中にバラす可能性だってあると思うんだ。それらを踏まえてわたしに相談していいか、もう一回考えてみて。」
僕は困惑してしまう。
これは八嶋さんが悩みを打ち明けて欲しくないということなのか。それとも僕のことを思って、ちゃんと考えたうえで打ち明けるべきと諭しているのか。
しかしどれほど考えても、なにが正解なのかは分からなかった。
次第に僕は考えることが面倒になってくる。
そもそも何故リスクを冒して八嶋さんに打ち明けようとしていたのか、それ自体も分からなくなった
「八嶋さん、すいません。やっぱさっきのは聞かなかったことにしてください。」
別にわざわざ八嶋さんに言うこともない。
相田でも同期の海東でも、その辺りの友達に話した方が自分としても話しやすい。
東条さんと付き合ったことで、少し調子に乗っていたのかもしれない。
僕は自省と諦めが織り混ざった感情の中、チラリと八嶋さんの表情を伺う。
八嶋さんは僕の発言を受けて、予想に反した回答が来て驚いたという表情をしていた。
「え……そういう意味で言ったわけじゃないんだけど。なんでわかんないかなあ……」
「あっ。えっーと。つまりどういう意味なんですか?」
「はぁ……わたしに話すのは良いけど、色んな人に気安く話さない方がいいよってこと。」
「いや、でもやっぱりこの話をすれば、八嶋さんに迷惑がかかりますし。」
「もう……なんで分からないのかな。大切な人が悩んでるなら、少しでも手助けしてあげたいってのは普通じゃない。だから迷惑でもなんでもないの。」
「……大切な人?」
八嶋さんは赤くなった顔を隠すように下を向く。
僕はこのまま確信に迫りたかった。
八嶋さんが僕についてどう思ってるのか、それを知りたかった。
「八嶋さん、僕の事どう思ってます?」
気付かないうちに、僕は言葉を発していた。
その言葉は自分でも驚くほど滑らかに、用意された台本を読むように、言葉が出てきて、言った後に恥ずかしくなる。
「うーん。まあその質問に答えるのは、悩みを聞いた後かな。」
「わかりました。じゃあ何があったのかお話します。」
気持の良い空間が一変、取調室のような重苦しい空間に変貌を遂げる。
体の表面は太陽に照らされた夏の車のバンパーのように熱く火照っていたが、内部は冷やされた鉄のように冷たく堅くなっていた。
ひとつ息を深く吐き出す。肺に溜まった重苦しい異物を吐き出すように大きく。
八嶋さんは何も言わず、僕を見つめ、思いついたように灰皿を僕の目の前に差し出してくる。
「ほら。吸いたいんでしょ?我慢しなくたっていいよ。」
「あ、ありがとうございます。良いんですか?」
「いいよ、別に。うちパ……お父さんも吸うし慣れてるから。」
「パ……なんですか?」
「なんでもないっ!」
「もしかして八嶋さんいい歳してパパとか呼んでるんですか?」
「うるっさいな!いいだろ別に。」
八嶋さんは腕を組みながら、ほっぺたを膨らませる。
僕の緊張は春の雪溶けのように、少しずつ解け、やがて笑顔がこぼれる。
八嶋さんもそれを見て、ピンク色の舌を少し出し、おどけながら笑う。
「笑った。さっきまで怖い顔してたから良かった。もう話せる?」
「はい。」
僕は昨日起こった東条さんとの情事を詳細に彼女に伝える。
僕が誰とも付き合ったことがなかったこと。
綺麗な東条さんを前にタジタジだったこと。
東条さんは専務と関係を持っていて、結婚を迫られていること。
そしてそれを僕に諦めさせてほしいと頼まれたこと。
中折れしたこと。
時間をかけ、丁寧に何もかもを洗いざらい話す。
話している最中、僕はとてつもなく恥ずかしく、惨めな気持ちだった。
八嶋さんの表情を確認することも出来ず、下を向きながら、タバコを吸いながら話を続けた。
話し終えると、恥ずかしさは消えて、胸のつっかえが取れて、とてもすっきりした気持ちになった。
サウナに入った後水風呂につかっているかのような、体から疲れやらなにやらすべてが抜けていく感覚にそれは近かった。
僕は顔を上げ、八嶋さんを見る。
八嶋さんは僕が知っている限り、初めてとも言えるくらい真剣な表情でまっすぐに僕の目を見つめていた。
僕らは数秒目を合わせる。
僕はなにか言うべきか迷った。
しかしその場の空気が、その場凌ぎの言葉は不要だと教えてくれる。
僕は沈黙を守りながら、別の事を考える。
ああ、八嶋さんの唇に唐揚げの油が少し着き、ひどく艶めかしかった。その唇にキスをしてみたい。
僕は悩みを聞いてもらっている最中なのに、そんな卑猥で下劣な思考を巡らせていた。
八嶋さんが僕の下世話な考えに気付くことはもちろんなく、真剣な表情で艶めかしい口を開く。
「大体の事はわかった。それで木田君は東条さんの事を好きなの?そこが肝心なとこだと思う。」
「うーん。そこが僕にもわからないんですよ。女性と付き合ったことないですし。」
「でもさ。人を好きになったことはあるでしょ?学生時代とか。」
「それはありますけど。なんていうかあの子可愛いなみたいなぐらいで話したりとかデートしたりとかそんなことしたことなくて。」
「じゃあ本当に心の底から人の事を好きになったことはないってことがか。」
「たぶん。」
「だとしたら付き合っちゃいけなかったよね。」
「はい。」
「まあ、気持ちは分からなくはないけどね。」
「チャンスだと思ってそれに飛びついたような感じでほとんど勢いだったんですよ。でも付き合ってみたら思ってるのとは違って。」
「なるほどね。でも木田君。人を好きになるって事は、容姿だけがすべてではないと思うんだよね。その人の性格とか人間性とか、もちろん嫌なところも含めてね、それすべてを愛することが出来るって思うのが人を好きになるってことだと思うの。」
「そうですよね。やっぱり僕は別れた方がいいんでしょうかね。」
「それは自分で決めることじゃない?まずは東条さんを知ることが一番大事なことだと思うけど。そのうえで好きなのかそうじゃないのか考える。それが普通だと思う。」
「うーん。まあそうですよね。でもこの気持のまま東条さんと会うことが正しい事なのかどうか……」
「ぜーんぶ話せばいんじゃん?今日私に話したこと、自分で思っていることすべて。」
「いやそれが出来たら苦労しないんですよ。東条さんの前だと緊張しちゃって上手く話せなくて。」
「へー。あたしには緊張しないけど、東条さんには緊張するんだ。」
八嶋さんの目が鋭くなる。僕は八嶋さんの優しさに甘え、かなり素に近い状態でなにも考えず話をしてしまっていた。
完全に地雷を踏んでしまった。
「い……いや、そういう意味ではなくて。八嶋さんは安心感があるというか……」
「ふーん。まあどうでもいいけど。」
彼女は視線を外し、どこを見ることもなく遠くを見つめる。
そして訪れる沈黙。
恐ろしく暗く深い沈黙。
僕と八嶋さんの間に急に出来た溝。
その溝は簡単に飛び越えられそうにも見えるが、見た目以上の深さを肌で感じ取れる。
僕は何度かそれを飛び越えようと、足を動かすが、やはり溝の直前で足がすくむ。
何を言っても、その溝を飛び越えられる気配を感じない。
無論、八嶋さんがその溝を飛び越えることはない。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
恐ろしいまでの沈黙は、周囲にもまた影響を及ぼす。
さっきまで賑わっていた店内が、次第に静まり返っていく。
あるいは僕の思い過ごしなのかもしれないが。
僕の皮膚からは、嫌な汗が吹き出してくる。
息が苦しかった。
うまく呼吸が出来ず、肺に酸素が運ばれていかなかった。
もう一か八かの勝負に出るしかなかった。
多分この沈黙の溝に攻略法はない。
あるかもしれないが、今の僕には思い付けない。
それならば、力尽くでこじ開けるしか方法はなかった。
僕は目の前の氷だけになったハイボールのグラスを持ち上げ、氷と氷が溶け出した微量のウイスキーを口に入れる。
大袈裟にグラスをテーブルに置く。
ドンと言う大きな音が響く。
その音は、これから自らがこの沈黙を打ち破る宣言のような、そんな象徴のような音だった。
「あの……八嶋さん。」
沈黙。
「すいません……さっきは言い方を間違えました。僕は……あの……」
深い沈黙。
「あの……つまり、僕は……。」
「八嶋さんの事が好きなんです。緊張しないで、楽しく過ごせる八嶋さんの事が好きなんです。」
八嶋さんは顔を上げる。
驚いているのは間違いなかった。
彼女は目を丸くし、動きが止まっている。
冷凍保存された魚の様に、瞬きさえしない。
そして彼女はいまだ沈黙を守り続けている。
「八嶋さん。好きです。付き合ってください。」
沈黙。
しかしそれは先程の沈黙とは種類が違う。
重く深い沈黙ではあるが、終わりがくる事が分かっている。
そして、終わりを告げるのは僕ではなく八嶋さんの役目なのだ。
太陽が沈んだら、月が昇るのと同じことだ。
そして朝になれば太陽はまた再び昇らなくてはいけない。
それが役割というものなのだ。
僕はただただ太陽が昇るのを待ち続ける。
およそ2分ほどの沈黙を経て、それは破られる。
「あのさ……木田くん。気持ちは嬉しいよ。でもね。君の気持ちには答えられない。残念だけど。」
予想外の言葉に僕は言葉を失う。
正直僕には自信があった。
八嶋さんもきっと同じ気持ちなのだろうと。
そんな根拠のない吹けば飛ぶような自信は、いとも簡単に崩れ去ってしまう。
僕は表情というものを失い、ただただ俯くことしかできなかった。
「まあ。そう落ち込まないで。とりあえずそろそろここ出よ?視線が痛い。」
僕は気付かなかったが、店内のほとんどの人が僕らに注目していた。
急遽始まったトレンディドラマの様な展開に、非日常性を見出して、みな食い入る様に聞いていた。
ジャスミンでさえ、日本語が分かってるのか分からないが、不安そうな顔でこちらの様子を伺っていた。
でもよく考えればそれもそうだ。
大衆居酒屋でいきなり告白する奴なんて、それは格好の飲みの肴になるだろう。
僕は急に恥ずかしくなり、顔を赤リンゴのよつに真っ赤にした。
僕らは会計をし、店を後にする。
外に出ると晩夏の熱は少し冷め、幾分肌寒かった。
吹き付ける風が燃え上がった僕の熱を冷ますかのように、僕の肌に打ち付ける。
「さて、どうする?ホテルでも行く?」
「は?え……」
「冗談。東条さんじゃないんだから。私はそんな簡単にはホテルに行ったりはしない。」
彼女の言葉は鋭く冷たかった。
「じゃあ帰りますか。」
「そうだね。明日も仕事だしね。」
僕らは尻切れトンボのように、中途半端な形で飲み会を終える。
そして新宿駅に迎い、群衆の中に姿を溶け込ませる。
改札の前で八嶋さんは僕に呟く。
「わたしは、別に木田君の事が嫌いな訳ではないの。というよりむしろ好きなのね。だけど順番は間違っちゃだめ。そのことをよく考えてね。」
彼女はそれだけ言うと、京王線の改札へと姿を消す。
僕は八嶋さんが居なくなった後もその場に立ち尽くしていた。
どうすれば良かったのだろうか。接しやすかった八嶋さんと急にどう接すればいいか分からなくなっていた。
僕はしばらく経ったのちに、踵を返し家へ帰るため、大江戸線の乗り場へと歩き始める。
続く
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