第8話 罪悪感
コンビニの前の喫煙所。
時計の針は8時50分を指していた。
太陽は今日も燦燦と照り付け、雲は暑さに嫌気が差したのか、数えるほどしか空にはいなかった。
出勤の時間帯はもう終盤に差し掛かっていたので、通りの人はまばらになっていた。
僕は唾を飲み込む。
飴玉みたいに塊となった唾が、僕の口内を伝い、喉にその感触を伝え、ゴクリという音が僕の耳にも届く。
僕は覚悟を決め、一歩目を踏み出す。
月面着陸した宇宙飛行士のような、重たくそして決意的な一歩。
会社に着くと、僕が想像していたような事は何一つなく、それは昨日のまま冷凍保存されていたかのように、変わらない姿を見せていた。
ひと安心してデスクに向かうと、東条さんからラインが来ていることに気付く。
『昨日はありがとね。会社まで手繋いで歩くのはやっぱりハードル高いよね。徐々に慣らしていこう。じゃあお互い仕事がんばろうー。』
僕はどのように返そうかと考えている間に、始業時間を告げる鐘が鳴ってしまった。
慌てて僕は、スタンプだけを押してスマホをポケットにしまい込む。
相田と以前に女受けするスタンプを集めようと話したときに購入した、可愛らしいキャラクターが感謝を述べている。
使う機会なんてないと思って購入して、長い年月が経っていたが、埃かぶったスタンプは確かに東条さんとのラインの中に存在していた。
僕は昨日の激動の一日を終え、世界が変わったかのように感じていたが、世界は何も変わってはいなかった。
職場の空気、時計の針、目の前の仕事……
なにひとつ。
午前中の仕事が終わると、僕は海東と昼飯を済ませる。
結局、海東には東条さんの事を打ち明けることができず、悶々としたまま午後の仕事へと戻る。
誰かに東条さんの件を相談したい。
そんな衝動が強く、僕の頭の中を走り回る。
こう言う時に頼れるのは相田しかいないと思い、連絡を取るも、今日はスマホゲームのイベントがあるとの事で断られてしまった。
モヤモヤした気持ちのまま、終業時間が来て、僕は職場を後にしようとする。
「(はぁ……今日は帰って、酒でも飲んでゆっくり考えよう。)」
そんな事を考えながら、PCの電源を落として、席を立つ。
すると、後ろから何者かに膝カックンをされる。
僕は情けないほどによろけてしまう。
僕はその相手を見ると、僕よりもだいぶ小柄で、悪戯好きの子供のような表情で八重歯をちらつかせる女性がひとり。
そう、犯人は八嶋さんだった。
「そんなによろけないでよ。こっちが困っちゃうじゃない。」
八嶋さんは、いたずらがバレた子供のようなバツの悪そうな表情を見せる。
「あ、すいません。なんかボーッとしてて。」
「大丈夫?今朝からなんか元気ないって言うか、いつもと違う感じだったけど。なんかあったの?」
「え……いや、なんもないっすよ。」
「あー!それはなんかあったときの顔だな。よし、お姉さんが話を聞いてやろう。」
僕は迷った。
八嶋さんにすべてを打ち明けてしまいたかった。
しかし、ここで八嶋さんに東条さんの話をするのはリスクがあった。
昨日の発言のこともあるし、なんというかこれ以上問題を複雑化すると厄介なことになると、直感的に察知していた。
そしてなにより、僕の情けない話を女性にするのはなんというか、恥ずかしかった。
「あ、いや、ほんとになにもないんですよ。ほんと大丈夫です。」
「そんな否定しないでよ。寂しいじゃんか。」
「あ、ごめんなさい。」
「いいよ。まあなんもないならよかった。じゃあそんな何もない木田くん!私の悩みを聞いてよ。」
「え、今ですか?」
「こんなとこで話せる話じゃないから。」
八嶋さんは登場した時の無邪気な子供の顔よりも少し大人びた思春期の学生が恥じらってるような、でも微かに冗談めいた表情を見せる。
「え、じゃあどちらで?」
「飲みに行こうぜ!」
「いや、今日はちょっと……」
「えー。なんでだよー。」
「いや、なんというか予定がありまして。」
「そっか。残念。木田くんにしか話せない悩みがあったんだけどなー。仕方ないね。あー、この悩みを抱えたままじゃ、あたし病んじゃうなー。多分今夜リストカットしちゃいそうだなあ。」
八嶋さんは駄々をこねる子供のような、そして弟をからかう姉のようなそんな複雑な表情を見せる。
八嶋さんは元々良くも悪くも単純な人だと思っていたが、ここ数日、複雑な表情をよく見せるようになっていた。
そして僕はこのやり取りに多少の面倒くささを感じていた。
八嶋さんは一度こうと決めたら、どんな手を使っても実行しないと気が済まない性格なのを僕は知っている。
「はいはい。わかりましたよ。ただ、あまり遅くまではダメですよ。」
「え?いいの?ほんとに?」
「八嶋さんがしつこいからですよ。」
「しつこいってなんだよ!」
「いや、しつこいでしょ。まあとりあえず今日は早く帰りたいので、遅くまではダメですよ。」
「もち。じゃあ今から行こう!すぐ行こう。」
「あ……いや……ちょっとだけ仕事してから行くので後で合流します。」
「まだ仕事あったんだ。じゃあ適当に買い物でもして時間潰してるから、あとで連絡してねー。」
「ありがとうございます。あっ!そういえば、僕、八嶋さんの連絡先知らないですよ。」
「え、嘘。そうだっけ?じゃあスマホ出して。」
彼女はそういうと、自分のスマートフォンを出し、何度か画面をタップしたのち、僕の方に画面を向ける。
「これを読み取れば良いんでしたっけ?」
僕は分かっているのにわざと確認をする。
八嶋さんは黙って頷く。
僕のスマホには、どこかのフェスに行った時のものであろう彼女のアイコンが表示される。
「あたしのラインはプレミアだよ。やったね、木田くん!じゃあまたあとでね。」
八嶋さんはあとで合流することを約束し、オフィスから姿を消す。
残った僕は、少し時間を潰してから、ラインを開く。
東条さんから15分ほど前に来ていたラインに返信をする。
『お疲れ様。今日一緒に帰らない?駅からでもいいから。』
『わかった。じゃあ駅着いたら連絡する。』
八嶋さんを先に行かせたのは、このラインが目に入っていたからだった。
なんとなくだが、一応付き合っている女性がいるのに、他の女性と勝手に飲みに行ってしまうのはいけない気がした。
僕は、警戒しながらオフィスを後にする。
八嶋さんがまだいるかもしれないし、東条さんとここでばったり会ってしまったら、駅まで一緒に歩かなくてはならない。
そんなところを専務にでも、いや東条さんの知名度を考えればどんな社員にも見られてはいけなかった。
僕はひそひそと会社を出て、駅へと人目に着かない道を遠回りしながら駅まで向かう。
途中、うちの社員と思われる若い女性3人組が僕とすれ違った。
僕の鼓動は、少しだけ早くなる。
しかし、その女性たちは僕のことなど気にも止めず、芸能人の熱愛について議論を交わし続けていた。
駅に着くと喫煙所でタバコを一本吸ってから、東条さんにラインする。
彼女からもすこし間を開けて、ラインが来る。
『もう少しで着くからちょっとだけ待ってて。』
僕はもう一本タバコを吸い、駅近のコンビニでグレープ味のガムを購入してそれを噛む。
会う直前になって、タバコの匂いが気になって、付け焼刃でも対処しておきたかった。
なんとなく、東条さんと付き合っているのにタバコを吸っているのは不適切な気がした。
そうこうしている間に東条さんがやってくる。
昨日と同じ服装をした東条さん。
それでも彼女の服は、クリーニングしたばかりのようにシワひとつなく清潔感があった。
昨日のことなど何もなかったかのように。
でも、昨日あったことは全て事実なのだ。
それは僕の目の前に東条さんがいることがすべて証明している。
「遅くなってごめんね。営業部の丸山部長に捕まっちゃってさ。あの人さ話長いんだよね。」
「そうだったんだ。大変だったね。」
「うん。あの人話長いうえにちょいちょいセクハラ言ってくるからほんと嫌。」
「へー。それじゃあ帰ろっか。」
僕は先を急ぐ。この職場の最寄り駅で長話することも嫌だったし、八嶋さんを待たせていることも気にかかった。
「うん。帰ろう。あ、そうだ。これから予定ある?」
「え?」
唐突の質問に、僕は一瞬固まる。
別になんの意図もないんだろうが、僕には東条さんがこれから八嶋さんと会うことを知っていて糾弾しているように聞こえた。
取調室で警察官に問い詰められているかのような、圧迫感があり、僕は胃が迫り上がってくるような感覚になる。
「いや、なにもないけど。」
僕は咄嗟に嘘をつく。
というより、そうせざるを得なかった。
「よかった。そしたら気になっているカフェがあるから、そこ一緒に行かない?」
「うん。」
結局断ることが出来ず、僕はそのカフェへと行くことを決めてしまった。
カフェは池袋にあるらしいので、僕らは山手線に乗り、そのカフェへと向かう。
池袋駅に降り立つと、東条さんは僕の手を握りしめる。
今朝ほど、僕の感情が動くことはなかった。
それより、この姿を誰かに、特に八嶋さんに、見られていないかそれだけが気掛かりだった。
「また難しそうな顔をしているね。」
「そうかな。なにも考えていなかったけど。」
「ふーん。でもそんな顔も好き。」
彼女は邪気のない真っ直ぐな顔で、僕を見つめながら言う。
僕はそんな視線から目をそらしながら、とりあえず頷く。
なんと言ったらいいか、それは僕にはわからない。
たぶん僕の顔は林檎のように、真っ赤に染まっていたと思う。
カフェはビル群の一角にあり、カジュアルな見た目ながら、お洒落な印象を受けるお店だった。
店内には女子高生やOLがほとんどで、いくらかカップルがいたが、女性客が大半を占めていた。
「ここなんかツイッターで流行ってるから一度行ってみたかったんだよね。」
「そうなんだ。なんか女性が多いけど、僕入っていいのかな。」
「そんなこと気にしないでいいんだよ。将吾1人で入ってたら違和感あるけど、カップルで入るんだから誰も気にしないよ。」
カップルという言葉に、不思議な歪さを覚えるも、気にしないふりをして僕は頷く。
このカフェはタピオカが有名らしく、彼女はタピオカミルクティーを注文していたので、僕も同じものを注文する。
席につくと、彼女は今日会った仕事の話や専務と愚痴などを話し出す。
僕はそれを適当に相槌を打ちながら聞く。
彼女が途中お手洗いに立った瞬間に、僕は八嶋さんにラインをする。
時刻はもう19時半だった。
『すいません。少し仕事が長引いてしまって。もしあれだったら、また別日でも大丈夫ですよ。これ以上待たせるのも申し訳ないので。』
すぐに既読がつき、彼女からの返信が来る。
『木田君は優しいな。大丈夫。私はいくらでも待てるから。全然ゆっくりでいいよ。仕事ファイト。』
そして、キャッチーなおじさんが陽気に励ましているスタンプも追加で送られてくる。
八嶋さんからのラインを見ている途中で、東条さんが帰ってくる。
僕は八嶋さんの優しさと、僕のついた嘘への罪悪感でいたたまれなくなった。
東条さんは戻ってくると、静かにタピオカミルクティーを飲みこむ。
もう2/3くらいは飲み終わっていることを、確認する。
僕は急いで自分のミルクティーを一気に飲み干す。
「ねえ。将吾は今日はどんな一日だった?」
「あ、あのさ。ちょっとこのあと予定出来ちゃったからそろそろ帰らない?」
僕は彼女の質問を遮り、帰宅への一石を投じる。
「あ……そうなんだ。もうちょっとゆっくりお話ししたかったけど仕方ないね。ちなみに女の子じゃないよね?」
僕はどぎまぎしながらもそれが彼女に伝わらないよう、平静を装いながら、それを否定する。
「ふーん。それじゃあそろそろ出ようか。」
東条さんはもの悲しそうな顔をしていた。
彼女にはすべてわかっている。そのうえでなにも言わない。
そんなような気がしていた。
でも、僕には彼女になんで声を掛けていいのか、どう振る舞ったらいいのか、そんなことは全くわからなかった。
ただ、上司と飲みに行くだけ。
それだけなんだ。別になにも悪い事をしているわけではない。
僕は自分自身の為だけに、言い訳をして、自分の正当性を見つける。
そして僕らは池袋から新宿へと向かう。
彼女は新宿から小田急線に乗り換え、世田谷方面へと帰宅する。
小田急線の乗換口まで彼女を見送り、僕は八嶋さんのいる新宿東口を目指す。
ここ2日間で僕はどれだけ多くの嘘をついているのだろうか。
そして、どれだけ女性を悲しませているのだろうか。
僕はとてつもなく情けない気持ちになる。
イヤホンをカバンから取り出し、70年代のハードロックを流し、僕は水流の如く流れ込む思考の波に蓋をする。
ハイトーンボイスで歌うボーカルの、パワフルなドラムのエイトビート、歪んだギター。
僕の中にある雑念を全て消し去る。
駅構内の雑踏は、急に音を消し、ただただ、右は左へ歩いていく人形に姿を変える。
僕は人形たちの間をすり抜けて、東口の改札を出る。
往来する人形たちの中から、僕は馴染みの顔を見つける。
柱にもたれかかり、スマホを握りしめ、あたりを不安そうに見回す小柄な女性。
それは知らない土地に急に連れてこられた小動物のように見えた。
僕はしばらくその姿を眺める。
八嶋さんって会社では堂々として、姉貴肌だけど、町で見るとこうも可愛らしいんだな。
僕のクリアになった頭の中で、一つの純粋な気持ちが浮かび上がる。
僕の聞いているハードロックバンドのボーカルが突如シャウトをして、そしてキーボードがソロを奏で始める。
八嶋さんって結構可愛いな……
続く
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