3
この3ヶ月、毎日そんな焦燥の気持ちに駆られ続けてはいる。
それなら会わなければいいだけの話。なのに。
今日も自分は、優飛に会いに行ってしまう。それを、自明の理のように理解していた。
夜闇が満ちる部屋の中、布団から這い出す。充電しっぱなしだったスマホを手に取り、メッセージアプリを立ち上げる。吸い寄せられるように最上にある優飛とのトークルームを開く。
「忙しくて土曜日しか会う時間が取れない」と言ったら決して他の曜日に会おうと誘ってくることはなく、「相手が親しい人であっても電話は苦手」と伝えたら決して電話はしてこず、「でもメッセージはいつでも送ってきていいよ」という言葉に従って土曜日以外の曜日にも送ってきてくれたメッセージを読み返していく。
ヒナタから送ったメッセージに対して少し返信が遅いこともあるが、それでもいつも必ず返してくれる言葉の数々。たとえスタンプ一つであっても、見ているだけで胸に何かがぎゅうううっと詰まるような心地になって……
「……何やってんだ、俺……」
首を横に振り、スマホを床に放った。カッ、と硬度のある音が響いた。
やめなければならない。
月曜日、大学の中庭。ベンチに座ってまたそんなことを考えながらも、土曜日にカラオケで撮った優飛の写真を眺めている自分に気付き、ヒナタは腹の底から苛立ちを覚えた。
いい加減にしろと、もう呆れるほど自分自身に言い聞かせているというのに。優飛を傷付けたくないならば、縁を切るべきなのに。
優飛の知るヒナタと、優飛の知らないヒナタは、性別だけでなく顔も骨格もまるで違う。およそ166cmの身長とショートカットの黒髪以外は何の面影も残らない。
高校生の頃、土曜日に外出した際に街中で学校の友人達と鉢合わせたことは何度もあった。けれど、その少女がヒナタであることに気付いた者は一人もいなかった。すれ違っても、目が合っても、ぶつかっても、カフェで隣の席に座っても。
初めて性別が変わってしまったあの夜も、家族ですら自分がヒナタだとすぐには信じてくれなかった。自分はヒナタだと、あれほど必死に訴えたのに不審な目で見られた経験は、激痛と自身の身体の変化と並んであの夜の恐怖の記憶として脳裏に焼き付き、きっと生涯離れることはない。
それほどに「別人」なのだ。それほどにヒナタは、優飛を騙しているのだ。
それより何より、そもそも自分は、ヒナタは男だ。だから、ダメなのだ。男なのだから、男に対してこのような感情を抱いては……
……「このような感情」って何だ?
「おー、おはよう!」
頭上から降ってきた声に、はっとスマホから顔を上げた。同じ講義を受けている学生だ、先日講義内のグループ発表で同じ班になった。
「あ、ああ、おはよう……」
「ねえ、この前話した飲み会来れそう?」
「それ、土曜日、だったよな……?」
「うん」
「あー、ごめん。予定入っちゃって…… ごめん」
「そっかー。じゃあまた今度にでも」
「ごめん。本当ごめん」
「なんでそんな申し訳無さそうなの!? 大丈夫だよ! じゃあまたー」
相手の学生は嫌味のない笑顔で去っていった。
とりあえず回避できたことに、ヒナタは心の底から胸を撫で下ろした。
ヒナタは気付かなかった。
少し離れたところから、野暮用でこちらのキャンパスを訪れていたある人物が、ベンチに腰掛ける自身を凝視していたことに。
学生と交わす会話に耳をそばだてていたことに。
ベンチから腰を上げた際にズボンのポケットから学生証が落ちたことに。
ヒナタが歩き去った後、その人物が学生証を拾い上げ、表記された氏名をまじまじと見つめていたことに。
(あれ?)
学生と別れ、図書館にやって来たヒナタ。入り口のゲートに学生証を通そうとして、そこでやっと気が付いた。ポケットの中が空っぽだ。
(落とした?)
慌てて館外に飛び出す。自分が辿ってきた道を見下ろしながら戻ってみるが、見当たらない。
(ヤバ、どこ行った?)
先程通った
「さっき落としてたよ」
毎週土曜日にしか聞けないはずの声とともに、探し物が目の前に差し出された。
弾かれたように顔を上げた先には、毎週土曜日にしか会えないはずの笑顔があった。
「優飛!」
嬉しくて、考えるより先にその名を呼んだ。呼んで、しまった。
瞬間、他でもない自身の喉から発された声の低さに、肌が泡立った。喉仏が下りると同時、背筋をさーっと冷たいものが駆け抜けた。
忘れていた。今の自分は男だ。優飛の見知らぬ、男だ。
なのに、優飛の名前を呼んでしまった。
家の台所にある、自炊の際に使う包丁を思い出した。よく切れる、あの包丁。あれで今すぐ、この忌々しい喉を切り裂きたい。そうして、そのまま死んでしまいたい。強くそう願った。
「漢字ではこう書くんだね。やっぱりいい名前だ」
そんなヒナタの内心を知ってか知らずか、変わらず穏やかな表情で薄いプラスチックのカードの「氏名」の部分を指し示す優飛。「
知られた。もう駄目だ。
死にたい。死のう。今すぐに死のう。
すぐ近くに道路がある。飛び出せば誰かが轢き殺してくれるかもしれない。よし、早速……
「行かないで」
本気で死にに行こうと背を向けかけたのに、その呼び止めは鎖で雁字搦めにされるよりも効果的だった。
「ごめんね。びっくりしちゃったよね。こっちのキャンパス来れたからもしかしたらとは思ってたけど、会えて嬉しかったんだ。ごめん」
崩れることのない、柔和な笑みでそう言う。土曜日と同じ物腰で。
見た目が違う。声が違う。何よりも、性別が違う。
憎たらしい声で、俯き加減に、それでも問いかけずにはいられなかった。
「……どうして、分かった」
「分かるよ。ベンチに座ってるの見た瞬間分かったよ。間違いなく君だったよ」
かさり、と足音が近づいた。
「初めて会った日、覚えてる? 何故かは分からないけど、君のこと見た瞬間『いいな』って思ったんだ。なんか、全然上手く言えないんだけど、一目惚れとはまた違って…… あ、いや! 君はすっごくかわいいよ! でもね、あの時は君の容姿もそうなんだけど、それ以上に『君』に惹かれたんだ。だからあの時、声をかけた」
さらにもう一歩、近づく足音。
「だから間違えないよ。ヒナタを見逃しなんてしない」
「……来るな、わた……」
いつも優飛の前でそうしているように「私」と言おうとして、やめた。
「……俺は、見ての通り男だ。これが本当の雛太だ。分かっただろ、君は騙されてたんだよ」
「……」
しばし、沈黙。
優飛は、もう会ってくれない。デートしてくれていたのは、俺を女の子だと思っていたからだ。男同士だったと知ってしまったからには、もう以前のような関係性でいることはできない。罵倒されるかもしれない。殴られるかもしれない。殺されるかもしれない。
ああ、でもそれなら殺してくれた方がいい。やっと見つけた一縷の希望を失ってしまったんだ。もう生きていたくなんてない。優飛になら殺されても構わない……
……「一縷の希望」って何だ? どうして俺は、ここまで優飛を……
「んー、あのね」
少し迷ったような言い方が、沈黙を破った。
「一緒にすることじゃないんだけどさ…… これ見て?」
言われるがまま、差し出された優飛の右掌に視線を向けた。
震えていた。
小刻みに、というレベルではなく、ぱっと見ただけで分かるほどに。がくがく、がくがく、と音が聞こえてきそうなほどに。
「緊張してもあんまり態度には出ないねって言われるんだけどね。手は震えるんだ、昔から。
今緊張してるんだよ。こんなに。どうしてかって? いきなり君に会えちゃったからだよ。嬉しくて嬉しくて、だけどだからこそいい人でいなきゃって。そうしないと嫌われちゃうって思ったら、震えが止まらなくなった。
……いつもそうなんだよ。君と会う時は。カッコつけたかったから抑えようとしたり、極力手以外のところに注意を向けてもらうようにしてたけど」
……隠していたのか? ここまでの震えを? 全く気が付かなかった。さっきも、学生証にばかり気を取られていて……
「初めての日だってそうだったよ。『いいな』と思ったまではいいけど、ナンパなんてしたことないからすんなり話しかけられたわけじゃなかったんだよ。
君から離れた席に座って、緊張を紛らわせようとカクテル頼んで、『これ飲み終わったら話しかけよう』って思いながら飲んで。けどそれでも勇気が出なくて、もう二杯頼んで同じことして。そうやって散々ためらってから、やっと君に声をかけた」
……全くそんな風には見えなかった。遊びなれているのかと思ったのに、一途に大事にしてくれたから、だから余計に俺は君を……
「だからね、ヒナタ」
いつの間にか、優飛の顔がすぐ目の前にあった。
「僕も君を騙してたんだよ」
「! そんなのっ、騙してるうちに入らねーよ! そんなことぐらいで嫌いになるわけねーだろ!」
「僕はずっとコンプレックスだったんだよ。でも君は気にしないでいてくれるの?
……じゃあ、同じだよ。僕だって、『そんなことぐらい』で、君を嫌いになんてならない」
「……自分が何言ってるのか、分かってるのか」
「分かってるよ。だって」
自分が息を呑む音が、妙に大きく聞こえた。
「僕は君の性別を好きになったんじゃない。
『君』を好きになったんだ」
……何て言った? こいつ今、何て言った?
きっと聞き間違いだ。俺を好きになってくれる人なんてどこにもいない。
「何度も言わせるな。俺は男なんだ。無理だろ?」
「無理じゃない」
ゆっくりと横に振られる首。
「ヒナタはヒナタだから」
違う。違うよ。君には普通に生きてほしいんだ。俺みたいになっちゃいけない。
「初めて会った日に女だったから! だからあの女を好きになっただけなんだよ! 最初から俺が男だったら、俺に声なんてかけなかっただろ!」
目を覚まして、君は俺のことなんか好きじゃないはずだ。俺のことなんか。
「かけてたよ」
「え」
「声かけてた。あの日の君が男性だったとしても、一目で『いいな』と思って、散々ためらって、カクテル三杯ちびちび飲んで。
それでも結局、必ず声をかけてた。そう断言できる」
心の中で騒々しかった何かが、ふっと静まった。
「……そうだね。証拠は何もない。だからここでいくら言っても信じられないよね。
でも、無理かもしれないけど、信じてほしい。
理由も言えないけど、僕はただ、『ヒナタ』が好きなんだ」
ああ、でも、と続ける優飛。
「君は、嫌? 嫌だったんだとしたら、今まで本当にごめん。不快だったんだとしたら、もう二度と会わないよ…… ごめん」
今度は優飛が、背を向けかけた。
ヒナタは、今度は見逃さなかった。
優飛の寂しそうな笑顔も、震え続ける両手も。
だから。
ヒナタは優飛の正面に回り込み、その両手を強く掴んだ。
びくり、と跳ねて、また震える両手のひらを、自身の両手のひらで精一杯包み込んだ。驚いた表情の優飛から目を逸らすことなく、今度はヒナタが言った。
「行かないで」
世間の常識や周囲の目を、ずっと恐れていた。自分は異常な存在ではないとアピールし続けなければならないと考えていた。そうしすぎて、自身の本心を見失いかけていた。
それでも、本当は分かっていた。
優飛を失うくらいならば死にたいと思った理由も、優飛に好きだと言われて喜びを感じた理由も、優飛に去ってほしくない理由も。
本当はとっくに、全て知っていた。
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