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 ……終わった。


 ぼやけ、歪みきった視界。多彩な色が溶け合い、混じり合い、無秩序な色の塊となってしまったよう。

 けれど、じっと目を開き続けていれば、雑多な物品達は徐々に徐々に、自身の輪郭を取り戻していく。


 大学に行く時に背負う黒いリュック。土曜日にしか使わない上品な茶色のバッグ。床に脱ぎ捨てた地味なグレーのTシャツとジーパンとブリーフ。枕元に畳んでおいた、ユニセックスな白いパーカーと水色のパンツ。コンセントに挿しっぱなしのスマホとシェーバー。

 代わり映えしない、いつもの狭いアパートの一室だ。


 手元に目を落とす。汗にまみれ、ぬめりと輝く時計は、0時1分を指し示していた。

 1分。時間にしてみればほんのそれだけ。

 その1分がとてつもなく長い。全身を殴られ、押し潰され、焼かれ、溶かされ、割られるようなこの激痛。数えたくもないほど経験してきたが、未だに慣れることはない。


 けれど……


 自分の口から吐き出され続ける荒い息が、昨日よりも高い音になっているのを確認する。

 分かりきってはいることだが、触れて確かめてみる。


 ヒゲの剃り跡すら残っていない、つるりとした顎。

 普段使用している茶碗を逆さにしたようなサイズと形状の胸の膨らみ。

 男性の象徴が消え去った股間。


 ヒナタだ。今の自分は、優飛ゆうとが知ってるヒナタだ。今日も、会える。

 全身から滴り落ちた汗でぐっしょり濡れた布団の上で、土曜日だけに出せる声で。安堵の溜息を吐いた。

 



 ヒナタは男だ。

 身体的に、というだけでなく、本人の性自認も幼少期から現在に至るまで男である。

 だが、他の男とは少し違う部分があった。


 毎週土曜日の0時から23時59分まで、身体が女性に変わってしまうのだ。

 それも一瞬で変わるわけではない。およそ1分間かけて、想像を絶するほどの痛みを伴う。


 中学一年生の春に突然この現象に見舞われて以来、ヒナタは悩み続けてきた。

 何事もなく寝ていた最中に突如、これまでの人生で経験したことのない苦しみに叩き起こされた。それがようやく去ったかと思えば、多感な時期に自らのアイデンティティが崩壊しかねない出来事が起こっていた。

 病院に行っても原因も治療法も不明で、どうにもできなかった。


 精神的に不安定になり、落ち込んだかと思えば家族に当たり散らし、かと思えば突然何時間も眠ってしまったりを繰り返した。

 土曜日はもちろんのこと、他の曜日も外出することを怖がり、家に引きこもり続けた時期もあった。


 それでも、家族や主治医は大いに戸惑い、時にヒナタとぶつかりつつも見捨てずに支え続けた。

 秘密を共有する人々に大切に接してもらい、ヒナタ自身も、納得はできないながらも少しずつ自分の体を受け入れ、家の外にも出るようになっていった。

 学校の友人達や教師達には事実を伝えてはいなかったが、彼らもヒナタを焦らせず、ゆっくり見守ってくれた。


 高校生になる頃には、土曜日も一人で外出するようになっていた。

 流石にスカートを履く気にはなれなかったが、ユニセックスなデザインの服を身につけ、普通の女性として物怖じせず街中を歩いた。




 それでもやはり。

 恋愛は諦めていた。


 こんな男なのか女なのか分からない自分を好きになってくれる人などいない。

 自分と一生一緒に生きてくれる人など、いるはずがない。


 大学生になり、家族に心配されながらも一人暮らしを選んだのは、家族の重荷である自分を辞めたかったのと、一人になるためだった。

 生涯の伴侶など見つからないのだから、今のうちから自分のことは全て自分で行えるようにしておかなければならないと思った。

 実際、これまでのところは上手くやってこれた。家事も学業もバイトも特に問題なくこなせている。

 人間関係も必要最小限にしてきた。誰かを大切に思うことも、誰かに大切に思われることもないように。


 それが。




「優飛……」

 ぽつり、その名が漏れていた。

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