間違いなく君だったよ
PURIN
1
「お隣、いいですか?」
学生街に佇むバー。安価に楽しめる多種のカクテルが人気の店。
土曜の夜にカウンターで一人で飲んでいたら、そう声をかけられた。
「はい、どうぞ」
気軽に答え、自身のグラスを傾ける。南国の海の色のような瑠璃色の液体が体内に注がれていく。
美味と酔いに満足しつつグラスを置いたところで、また隣から声がした。
「お姉さん、一人?」
「はい」
再び気軽に答え、声の主を見やって…… そこでやっと「ヤバい」と感じた。
同年代くらいの男が、グラス片手に自分を見つめて微笑んでいる。
どうしよう。これは、きっとアレだ。そもそも、隣に座ってこようとした時点で気付くべきだった。
これはきっと、俗に言うナンパというやつだ。
人生初めての経験に、心拍数が一気に跳ね上がる。背が嫌な汗をかき始める。
どうしよう。困る。本当に困る。その想いには絶対に応えられない。どうやって逃げればいいんだろう。なんて言えば……
合わせてしまった目を男から逸らすのも忘れ、硬直したままぐるぐると必死で頭を回転させる。けれどダメだ。間に合わない。男の口が開きかけている。何か言うつもりだ。口説き文句なんか言われてもどうにもできない……
震え出しそうにさえなった。
だが、男は歯の浮くような台詞も下卑た話題も、答えに困るような質問を振ってくることもなかった。
世間話や男の趣味の話が中心で、それも非常に話し方が上手く、気が付いたら心の底から大笑いしている自分がいた。
他愛のない内容ばかりだったが、楽しかった。来週の土曜も同じ時間にまた会おうと約束してしまった程度には。
……いや、訂正しよう。答えに困る質問もされた。
別れ際、あの男は酒で上気した顔で尋ねてきた。
「そういえば名前聞いてなかったね。僕は優しく飛ぶって書いて
少し迷ってから、本名を教えることにした。
「……ヒナタ」
「いい名前だね! どんな字書くの?」
再び少し迷い。
「……カタカナ」
今度は嘘を吐いた。
「そうなんだー! じゃあヒナタさん、また来週!」
男、いや、優飛は一切の疑念も抱くことなく笑顔で去っていった。
以来およそ3ヶ月。ヒナタは毎週土曜日に優飛と会うようになった。
バーだけでなく、他の飲食店で食事をしたり、映画を観に行ったり。
夜だけでなく、昼に待ち合わせて食事や買い物を楽しんだり。水族館に行ったこともあった。
初めのうちは思い至らなかったが、やがて分かり始めた。
これは恐らく、デートなのだ。世間のカップルがよくやる、あのデート。
こんなこと、するべきではない。社会通念に反している。大体、自分は「そういう人」じゃない。確かに「特殊な体質」ではあるが……
幾度となく焦った。約束をすっぽかそうと何度も企んだ。
それでも、ヒナタは結局毎回優飛に会いに行ってしまった。
笑わせてくれて、ヒナタの知らないことをたくさん教えてくれて。
けれど決して傲慢にはならず、ヒナタと対等に接してくれて。
ヒナタが最も危惧している、性的な行為を持ちかけてくることも全くなくて。
そんな優飛と過ごすのが、単純に楽しくて、どうしてもやめられなかった。
金曜の夜。時刻は23時59分。一人暮らしのアパートの室内。万年床に横になったヒナタは、目覚まし時計を見つめながら翌日を心待ちにしていた。
明日は優飛と会える。カラオケに行くんだ。待ちきれない。一刻も早く明日になってほしい。
もう何年も憂鬱で仕方のなかったこの曜日のこの時間帯も、今では優飛と会うための重要な通過点のようなものになっていた。
出会いたての頃、優飛と交わした会話を思い出す。
二人とも同じ大学の二年生だと判明した時のことだ。
「えーそうなんだ! すごい偶然!」
やたらはしゃいだ様子で優飛は、「でも全然会わないよね」と続けた。
「ね。優飛って何学部? 私文学部なんだけど」
「あー、それか! 僕こう見えてもスポーツ学部なんだよ。そりゃ会えないよなー」
文学部のキャンパスとスポーツ学部のキャンパスは、電車で一駅分の距離がある。
そっかそっかと一人で納得して頷く優飛に、ヒナタは胸の中のモヤモヤを見透かされまいと必死で笑顔を保ち続けた。
ごめん、優飛。
会うたびに、喜びの裏でそう感じる。
一体いつまで、この嘘を隠し通せるだろう。もしもバレてしまったら、君はどんな反応をするだろう。
不安で、恐ろしい。
大学で会えないのは、キャンパスが違うからだけじゃない。もっと根本的で、重大な理由がある。
土曜日にしか会えないのも同じ。決して知られたくない理由……
がしっ
目覚まし時計の長針が12を指したのと、全く同時だった。
頭を怪力で掴まれるような、割れそうなほどの痛み。同時に軋み出す全身の骨。沸騰、という言葉を連想してしまうほどに急上昇する全身の体温。
来た。
歯を食いしばり、ヒナタは苦痛に備えた。
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