ここで生きてる
すしみ
第1話
ガシャン。と、なにかが割れるような音がした。けれど、それは私がたったいま流しに置いた食器が割れる音なのかそれともまったく別のなにかが割れる音なのか、私にはわからなかった。そんなことを、もう何度も繰り返しているような気がした。
2LDKの自宅は散らかっていて、というよりは荒れていて、ゴミや洗濯物が散乱していた。私は台所から出て、床に置きっぱなしのよくわからないチラシやら脱ぎ散らかしたままの洋服たちの間をくぐり抜けるようにしてリビングへと向かった。それからテレビの前に座り、なけなしのお小遣いをはたいて買ったDVDをセットした。リモコンの再生ボタンを押すと、間もなくして私の神さまが現れた。私には、神さまが居る。神さまは私のことを全然知らない。それどころか私という人間が存在していることすら知らない。けど、私は神さまのことをたくさん知っている。たとえば神さまがどんな風に笑うか。どんな声で話すか。どんな女の子が好きかだって、知っている。
「ただいまぁ。て明日香、アンタまた見てんの? ほんとアンタ、この人好きよね。あー、えっと、名前なんだっけ?」
私が食い入るようにテレビに映る神さまを見ていたら、仕事から帰って来た母に声をかけられた。私は母の顔を見ないまま、小さな声で呟いた。
「……神さまだよ」
「え? なに?」
「なんでもない。宿題するから、部屋行くね」
母にそう告げてリモコンの停止ボタンを押し、私は自分の部屋の襖を開けてすばやく入った。電気を点けるとそこには一面、私の神さまのポスターが貼ってある。私の神さまは歌が上手くてダンスも上手い。最近では俳優として、テレビに出たりなんかもしている。神さまは向上心がとても強くてたとえアリーナクラスでライブをするほどの人気があっても、常に自分に満足せず、色んなことに挑戦し続けている。
いとこからお下がりでもらった音楽プレーヤーで神さまの曲を聴きながら宿題に取りかかる。苦手な数学だけれど神さまの曲で気分を上げてなんとか問題を解いていく。半分くらい終えたところで、スパンという音を立てて襖が開いた。
「え? うん、いま家着いた」
双子の姉の明日菜だった。明日菜とは高校に入学するまでは二人でひとつの部屋を使うという約束だが正直、かなり鬱陶しい。今も人が宿題をしているのに平気で音を立てて部屋に入って来るし、電話で話しながらなのも気に入らない。
「うん、うん。わかった。じゃあまた明日ね」
集中力を削られないように私は音楽プレーヤーの音量を上げた。残り二問。あとちょっとだ。そう思っていると急に両耳から音楽が聴こえなくなった。驚いてノートから顔を上げると、私が耳にしていたイヤフォンを持った明日菜がこちらを見ていた。
「なに?」
「さっきから呼んでるのに返事しないんだもん」
「はあ」
「あのさ、それ、終わったら見せてくんない?」
「なんで? やだよ。自分でやんなよ」
「いいじゃん。明日香、頭良いし。それに斉藤にも宿題見せるって約束しちゃったし。お願い」
明日菜は両手を合わせて私にそう頼んできた。斉藤とは、明日菜が親しくしている男子のことだった。明日菜は斉藤くんにいい格好がしたくて最初から私に頼むつもりで宿題を見せるとでも言ったのだろう。
「やだよ」
「そこをさぁ。なんとか。頼むよ明日香ぁ」
明日菜は抱き付いて頼んでくるが私は無視する。
「ねーなんで無視すんのさ」
「自分で勉強しないと、馬鹿になるよ」
そう言って私は再び宿題に取りかかろうとした。すると私の右耳の横をスマホが横切った。頭に来た明日菜が投げたのだろう。最近明日菜はなにか気に入らないことがあるとしょっちゅうスマホを投げるので、画面がバキバキに割れている。前に、深夜ラジオでスマホの画面がバキバキに割れている子はヤリマンが多い、というのをお笑い芸人が言っていたけれど、あながち間違いじゃないんじゃないかと思う。
「調子乗んなよ、ブス」
私と明日菜は二卵性の双子なので、顔立ちはそんなに似ていなくて、姉の明日菜の方が目鼻立ちがはっきりしているので男子にも女子にも人気だった。性格も全然似ていなくて、私は神経質で良く言えば真面目だけれど、明日菜のほうはおおざっぱだけれど明るい。そしてファッションや流行にも敏感で、後輩の女の子たちが明日菜の髪型や持ち物を真似しているという噂を聞いたことがある。
「あのさ、スマホ、あんまり壊すとまたお母さんに怒られるよ」
「はあ? 今、そんな話してないじゃん」
「じゃあどんな話をしたらいいわけ?」
「アンタがブスだって話」
双子と言うと、だいたいの人たちが仲良いんでしょ? って決めつけるみたいに言ってくるけどうちではそんなこと全然なかった。小学生までは一緒に遊んだり出かけることもあつたけど、中学入学を機に、それもなくなった。
「ブスでいいからさ、邪魔しないでくれる?」
「……うざいんだけどブス」
明日菜はたまに、私に構って欲しいんじゃないかと思うことがある。うちは両親が共働きでおまけに仲が悪いので、二人ともあんまり家に帰って来ない。私は自分の両親が仲が悪いことに早めに気付いて、自分の気持ちに折り合いをつけて神様という心の支えを見つけたからいいけれど、明日菜はまだ自分の両親のことを受け入れられてないように思える。両親に構ってもらえず、仕方なく私に構って欲しそうに見える。明日菜は確かに私よりも社交的で明るく男女共に人気があったけれど、精神的に幼い面があるのだ。
「……お風呂沸かしてあるから、入れば?」
明日菜の言葉にいちいちリアクションせずに私は言う。私がブスなのは知っているけれど、それは明日菜に比べて、という意味であって自分では自分のことを特別にブスだとも可愛いとも思っていなかった。ようするに【姉より可愛くない妹】、という私の立場は自分でもよく理解していた。
「……そんなんだから、モテないんだよ」
明日菜はそう捨て台詞を残して行ってしまった。恐らく私の言う通りに風呂に入りに行ったのかまたどこかへ出かけて行ったのだろう。もう夜の九時になろうとしていて、中学生が出歩くには遅い時間だが私も母も、なにも言わない。私たち家族は、どうしようもなくバラバラだった。
同じクラスの三村くんは神さまに似ていた。色白で、この時期の男子にしては華奢な体つきと、サラサラした薄い茶色の髪の毛。それから、笑った顔。神さまの魅力はなんと言ってもその笑顔であり、三村くんは神さまにとてもよく似た笑い方をする。口角をにっと上げて、目が線になった笑い方を見たときには、あまりにも神さまにそっくりで思わずドキっとしたくらいだった。
「なーソロモン、今日学校終わったら、カラオケいかね?」
「また? 俺もう、金ないよ」
ソロモンとは三村くんのあだ名のことで、三村くんと仲の良い男子や女子たちがそう呼んでいる。どうしてソロモンというあだ名になったのかは知らないけれど、たまに三村くんと仲の良い先生まで彼の事をソロモンと呼んでいるのを見かけたことがある。彼が何故ソロモンと呼ばれているのか気になって、夜そのことを考えていたら眠れなくなったことがあったけれど、私と三村くんは三年生で初めて同じクラスになってまだ一度も喋ったことがないので聞けるような間柄でもなかった。
「明日香ちゃん、昨日のテレビみた?」
「あ、朱里ちゃん。うん。見たよ。でも出番は相変わらず多くなかったけどね」
同じクラスで仲の良い朱里ちゃんがそう話してかけてきたので、私は答えた。朱里ちゃんは神さまが好きというわけではなくて、まったく別のアイドルグループのうちのひとりが好きな子だけれど、お互い自分の推しがいかに素晴らしいかについてよく語る仲だ。推し、というのは自分の好きなグループのメンバーのことを指す。推しには担当カラーがあったりして、朱里ちゃんの推しの担当カラーは緑だから、鞄に付いているキーホルダーには緑色のものがたくさん付いている。私の神様はユニットやグループではないから担当カラーはないのだけれど、神様は水色が好きだからライブのDVD映像を見ると観客はよく水色のペンライトを振っている。
「いいよねー最近露出多くて」
「うん。毎日楽しいよ」
「……それはそうと、明日香ちゃんさ、さっき三村くんのこと見てなかった?」
「え? 見てないよ」
朱里ちゃんは意外と目ざとくて、私がたまに周りにバレないように三村くんを目で追っているのに気付き始めている。私は、朱里ちゃんのことは好きだけれど三村くんのことが少し気になっているとかそういう話はしたいとは思っていないので、いつも適当にかわしていた。中学三年生にもなれば、付き合っている子たちもちらほら居て別に珍しいことでもなんでもなかったけれど、私が三村くんのことを気にしているなんて噂が立てば、明日菜をはじめ、派手な子たちにからかわれるに決まっていた。三村くんは制服も着崩していないし、大きな声もそんなに出さないけど、派手な男子のグループに居て、女子にも結構人気があった。私は、三村くんといつも一緒に居る同じグループの男の子たちが苦手というのもあって、三村くんに近付けないでいたし、それでいいと思っていた。けれど、どうしてあだ名がソロモンなのかくらいは、卒業までに聞けたらいいなと思っていた。
「そう? まあでも、明日香ちゃんはそういうの、興味、ないか」
「うん。そうだよ」
朱里ちゃんは丁度私のクラスにやって来た明日菜たちのグループを一瞥してからそう言った。こんな時、朱里ちゃんは全然悪くないのに、少しだけ嫌な気持ちになる。
「おーい! 高槻ぃ、今日さ、斉藤たちとカラオケ行くでしょ?」
明日菜と仲の良い、声が大きいバレー部の新島さんが三村くんと仲の良い高槻くんのことを呼ぶ。
「あ? なんだよ、おまえらも来んのかよ?」
「いいじゃん」
「えー」
「えーじゃねぇよ! あ、たまには三村くんも一緒に行こうよ!」
「え、俺? いや俺はちょっと……」
新島さんが三村くんの名前を呼んでいるのが聞こえて、胸がざわっとする。
「そうだよ。行こうよ三村くん」
新島さんに続いて、明日菜が言った。私は、視線を明日菜たちに向けないようにしながらも意識をあちら側へ集中させる。
「……うーん。じゃあ、行こうかな」
「やったー! やっぱ美人の誘いは断れないってか!」
「ち、違うよ! そんなんじゃない!」
三村くんが慌てて否定する。三村くんと明日菜がいまどんな表情をしているのか確かめたかったけど、出来なかった。胸が苦しいような気がしたけれど、それを気のせいだと言い聞かせるみたいに、私は水色のシャープペンをぎゅっと握りしめた。
「今日、明日香と同じクラスの三村くんと初めて喋った」
私がお風呂から上がって、顔をつきあわせるなり、明日菜が言ってきた。私は短く、「そう」とだけ返して髪の毛を乾かすためにタオルで頭をぐしゃぐしゃにしていた。明日菜の口から三村くんの名前が出てくることは、なんとなく予感があった。
「三村くんてさ、結構かっこいいよね。今まで気にしたことなかったけど」
当たり前だ。だって三村くんは神様に似ているのだから。
「明日香の好きな、この人に似てるよね。あれ、名前なんだっけ?」
部屋中に貼ってあるポスターのうちの一枚を指差して明日菜が言った。神様だよ、と言いたかったけれどそんなことを言ったら馬鹿にされるのは決まっているので黙っておく。
「ねぇ? なんだっけ?」
「……さあ」
「はあ? アンタ、ファンなんでしょ?」
「別になんだっていいじゃん。それで、三村くんがなに?」
面倒くさい話の展開になりそうだったので、私は話を逸らした。
「ああ、だからさ、この人と三村くんが似てるよねって話なんだけどさ、それはそうと、三村くんって高槻たちのグループに居るのに、あんまり派手じゃないよね」
「ああ、そうだね」
三村くんの居る高槻くんたちのグループは派手だが、三村くんは見た目も派手じゃないし、私が大嫌いな悪ぶってだらしのない感じの子でもない。それでも三村くんが高槻くんたちと一緒に居るのは、高槻くんと小学生の頃からの幼馴染だからだ。高槻くんと三村くんが幼馴染なのは、朱里ちゃんから教えてもらった。
「でも、なんでか、高槻たちのグループに溶け込んでるよね? なんでなんだろ?」
「……三村くんと高槻くん、幼馴染なんだってさ」
これくらいは教えてもいいだろうと思い、私は言う。明日菜は「へえ! そうなんだ!」と何故か嬉しそうに言った。
「そうそう、それでね、三村くんって何故かソロモンって呼ばれてるでしょ? 珍しいあだ名だね、って言ったら、昔、ソロモンの鍵っていうゲームがあって三村くんはそれがめちゃくちゃ得意だったからそのあだ名になったんだってさ」
「……なんで」
「え?」
「なんで、そんなこと私に言うの?」
私が訊きたくて仕方のないことを明日菜はいとも簡単に訊けてしまう。同じ血を分けた姉妹でもこんなに差があるのだ、と見せつけられたようで私は悔しくなった。
「え? だってさ、気にならない? ソロモンだよ? なんかの呪文かなーって思うじゃん。まあ実際は呪文じゃなかったけどさ」
「別にどうだっていいよ! そんなこと!」
「……なに? どうしたの急に怒鳴ったりして。あ、もしかして明日香生理なんじゃない?」
「うるさいっ!」
生理になんかなっていなかったけれど、私はどうしようもなくイライラしてしまい、そのへんに置いてあったぬいぐるみを明日菜に投げつけた。
「痛っ! なにすんだよ!」
そのまま私と明日菜は取っ組み合いの喧嘩になり、さすがに心配になったのか母が止めに来てあっけなく私たちの喧嘩は終了したけれど、私は明日菜が妬ましかった。
「水谷さんってさ、一ノ瀬光好きなの?」
その翌日、理科室へ移動するとき、たまたま教室に三村くんと二人きりになるタイミングあった。そして急に彼が神さまの名前を口にしたので、私は驚いた。
「え……どうして?」
「いや、渡辺さんとよく話してるなあ、って思って。それに水色の持ち物、たくさん持ってるでしょ?」
「……もしかして、三村くんも好きなの?」
恐る恐る私は尋ねた。
「まあ、好きかな。なんでかよくわかんないんだけど、俺、一ノ瀬光に似てるって、たまに言われるから気になってどんな人なのか調べて曲とか聴いてみたら、好きなかんじだったから」
「そうだったんだ……あっ、あの、私も好きだよ。い、一ノ瀬さん」
心の中でずっと神さまと呼んでいるからか、つい三村くんにも神さまと言ってしまいそうになった。
「ファンなのに、一ノ瀬さんって呼んでるの?」
「ああ、うん。下の名前で呼んでる人も居るけど、私は一ノ瀬さんって呼んでるんだ」
「そっかー。あ、やばいそろそろ移動しないと遅れるよ。行こう、水谷さん」
「えっ」
「え?」
「あ、ううん」
三村くんの中では一緒に教室に行く流れになっていたようで、私は戸惑いながらも「急ごう」と答えながら耳が熱くなっているのに気付かないふりをした。
「そういえばさ、俺、昨日水谷さんのお姉さんと初めて話したよ」
「えっ、あっ、そうなんだ」
三村くんが明日菜の話題を出してきたのでギクリとした私は思わず手に持っていたノートや教科書などを落としそうになってしまった。
「大丈夫?」
そんな私を見て心配した三村くんがそう声をかけてくれた。私は「大丈夫、ありがとう」と答えながらも、三村くんに顔を覗き込まれてドキドキしていた。
「……明日菜と話したのも初めてだつたかもしれないけど、私とこうやって話すのも初めてだよ。……たぶん」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ」
そうやって話しているうちに理科室の前まで辿り着いた。
「あ、じゃあね」
「え? 一緒に入らないの?」
「……私と三村くんが一緒に入ったら変に思われるかもしれないから」
なにか言いたげだったけれど、私は三村くんの言葉を待たずに理科室のドアを開けた。幸い先生はまだ来ていなかった。三村くんと話が出来た。それだけで、私には十分すぎるご褒美だった。
六限目の理科の授業が終わり放課後になると、私たち三年生は残り少ない部活動に勤しむ。私は吹奏楽部で、明日菜はバレー部だった。私の所属している吹奏楽部も、明日菜の所属しているバレー部もどちらもコンクールや大会ではパッとしない成績ばかり残しているので恐らく夏休み前に引退するだろう。吹奏楽部は音がうるさいのでだいたい外で練習することが多い。私の担当するクラリネットの部員は昇降口まえで練習する。
「じゃあ、始めようか」
三年生である私が仕切ってそう言うと下級生の子たちは「はい!」と元気よく返事をした。
「あっ」
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと楽譜忘れちゃったみたいで」
「一緒に見ます?」
「ううん。それじゃ集中できないかもしれないし、私、取って来るよ。皆、先に自分の苦手なところとか練習しておいてくれる?」
「わかりました」
二年生のサブリーダーの子に告げて、私は荷物を置いてある音楽室に向かう。音楽室に行く途中、理科室を通り過ぎるのだがそこに何故か明日菜と三村くんが居て、思わず立ち止まってしまう。
「三村くんてさ、明日香と仲良いの?」
「え? なんで?」
「今日さー三組の友達が二人で話してるとこ見たって言ってた」
私は二人に見つからないように教室のドアにピタリと背中を付けて聞き耳を立てていた。三村くんとのさっきの出来事は誰にも見られていないだろうと思っていたから思わず焦ってしまう。
「明日香と、なんの話してたの?」
「え? えっと……一ノ瀬光の話してた」
「あーそうだ、明日香の好きな芸能人。で、なに? 三村くんも好きなの?」
「まあ……好きだけどさ、なんか、近くない? 水谷さん」
「そう?」
三村くんのその言葉に、私はそうっと振り返って二人の距離を確認した。すると明日菜が三村くんを壁に追いやるような形で接近していた。
「一ノ瀬ナントカよりも、いま目の前に居る三村くんのほうがずっとかっこいいのにね。あ、あと水谷じゃわけわかんなくなるからアタシのことは明日菜って呼んで」
「……え? どういうこと?」
「三村くん、明日香の好きな一ノ瀬ナントカに似てるもん。だからあいつ、三村くんの話したら急に態度変えたんだなって」
「えーっと、よくわからないんだけど……」
「うん。わからなくていいよ。明日香のことは。それよりさ、もっとアタシのこと知って欲しいな」
そう言って明日菜は三村くんの隣に近付いて行った。それから三村くんの左手を取って、唇にキスをした。唇を離した明日菜と、目が合ったような気がした。
どうせならいっそもっとずたずたに打ちのめされたくなった私は、家に帰って神さまのポスターを全部剥がした。それを、なにも考えないようにして、ビリビリに破いた。もう、やめよう。三村くんのことを気にしてしまうのも、神さまを好きで居るからだ。私は神さまのことが好きで、本当に好きで、でもそんな子はこの世にたくさん居て、私はそのうちのたったひとりでしかない。
「明日香、泣いてんの?」
いつの間にか帰宅していた明日菜に声をかけられた。私はゆっくりと明日菜のほうへ目をやる。自然とさっきまで三村くんに触れていた手と唇に目が行ってしまう。別に明日菜は一ノ瀬さんと手を繋いだわけでもキスをしたわけでもなかった。そこに居たのは三村くんだった。けど、私は大事なもうひとりの神さまを明日香に汚されて、取られてしまったような気がした。どちらも私のものなんかじゃないのに。
「あれ、アンタどうしたの? もう一ノ瀬ナントカのファンやめるの?」
「……明日菜に関係ないでしょ」
「まあそうだけどさ。あ、そうだ、アタシ三村くんと付き合うことになったから」
「……うん」
「……あれ? それだけ?」
「なにが?」
「もっと羨ましがるのかと思ったんだけど。つまんないなー」
「なんで私が羨ましがるの?」
「だって三村くんアンタの好きな一ノ瀬ナントカに似てるじゃん」
「似てない。ぜっんぜん似てない!」
「……あっそ。あんたもさ確かに一ノ瀬ナントカが素敵なのはわかるけど、でも付き合えるわけじゃないんだからさ、もっと身近な人に目ぇ向けたら?」
「……なに言ってんの?」
「え? なにが?」
「そんなの知ってるよ。だって向こうは神様だよ? 住む世界が違うんだよ? 付き合えるなんて、思ってるはず、ない、じゃん……」
「は? え、ちょっと」
「なに?」
「いや……泣くことないじゃん」
「泣いてないし」
そう答えたけれど、本当は自分が泣いていることに気付いていた。
「とりあえずその顔なんとかしなよ。すごいブスだよ」
「……明日菜だって、ブスじゃん。たいして可愛くない」
「は?」
「アタシのこといつもブスブス言うけど、明日菜だってそりゃ顔はアタシより可愛いかもしれないけど、東京に行ったら明日菜より可愛い子なんてたくさん居るんだから!」
私が吐き捨てるように言うと明日菜は顔を真っ赤にして、掴みかかってきた。私も応戦するように、明日菜の髪を引っ張った。
「うるさい! アタシは可愛い!」
「明日菜くらいのレベルの子なんてね、探せば埼玉にだって居るよ!」
「居ない!」
「居る!」
「ちょっとぉーあんたたちまた喧嘩ぁ? やめなさいよもう、近所迷惑だから」
「うっせーババア!」
「こういう時だけ母親面しないでよ!」
取っ組み合いになりながら、私たちは言う。母は、呆れたような顔になって「そう。なら好きにしなさい」と言ってどこかへ行ってしまった。彼女はどこまで私たちに対して愛情がないのだろうか。悲しくなってきて、私はさらに涙をぼろぼろと零す。
「こんな! こんなどうしようもないクソみたいな現実で生きていくには、私には神さまが必要なの! ……一ノ瀬さんじゃなきゃ、駄目なの!」
私が叫ぶと明日菜は何故かとても苦しそうな表情を浮かべたが、すぐに険しい顔つきに戻り、言い返してきた。
「知ってるよ! クソみたいな現実なのは! だから私は少しでも楽しくなるように一生懸命努力してるのに、アンタはこんな芸能人にばっかり夢中で、努力なんて一ミリもしてないじゃん!」
「うるさいっ!」
その言葉が本当のことを言われているみたいで悔しくて、私は明日菜の右頬を思い切り引っ叩いた。負けん気の強い明日菜のことだから、てっきり叩き返してくるかと思ったが、明日菜は両目いっぱいに涙を溜めて家から出て行ってしまった。
部屋に戻って剥がしそびれていた最後のポスターを乱暴に剥がす。それからそれをビリビリに破こうとしたけれど、手が動かなかった。神さまが私のことを知らなくても、たとえ私と神さまの人生が交わらなくても、神さまが私を好きになってくれなくても、それでも。神さまがこのクソみたいな現実に負けないように、私の心を支えてくれていたのは変わらなかった。
「やっぱり好き……」
私は泣きながらそう呟いてポスターの神さまに向けてキスをした。
ここで生きてる すしみ @muni_muni
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