後悔、懺悔、落涙、
街中を疾駆する鬼姫の足は早く、油断すれば見失ってしまいかねないほどの速さだった。京の都は碁盤の目を模しているために、直進と左折か右折しかない。清明の屋敷は朝廷を北に見て東北の地にあるために、ほとんどの場合が南に下ることが多かった。
今回の場所、市場は南側、南西に位置するためにまずはまっすぐに下りて、右折すれば後続の者にも分かりやすく着くはずだが、鬼姫はことあるごとに小さい右折と小さい左折を繰り返していた。そして驚くべきことに曲がり角に差し掛かると速度は自然と落ちるものだが鬼姫は違った。人間は直進する勢いを殺さないと曲がることはできないわけで、急には曲がれない。勢いに身体が負けてしまうのだ。なので、成幸と清明は曲がり角の度に速度を落としていた。しかし、鬼姫は直進する勢いのまま失速することなく曲がることができる。そのために、差がどんどんと広がり鬼姫に食らいつくように走る清明と成幸はほとんど鬼姫が曲がる瞬間しか捉えられていなかった。
それにしても狩衣姿のままこの速度で走ることができるというのに驚きを隠せなかった。先ほどの指貫をふくらはぎの上で結んでいたくらいではこの速度は出ない、そもそも清明が人間の、それも女性であるのなら尚のことである。息も切らさずに走る様を見て何かの術でも使っているのだろうか。
「それにしても、くそっ、早すぎる」
成幸は少し息を切らし始めていた。
段々と肩と顎が上がり、心臓の音が激しくなっていた。病み上がり、数日前に心臓を貫かれたということを考慮すると決して走るべきではないのだがこれを可能にしているのはこの心臓が鬼の心臓だからだろう。血液を送り出す臓器が特別なために身体能力も向上しているように思えた。普通なら、これだけの速度で曲がり角のある道を走り続けることはできないだろう。
そもそも、こうして緩急を付ける走り方は人間には合ってない。
急加速と急減速、右折したと思えば、次は左折。そして、また右折。途中、荷台を引く町民にぶつかりそうになり慌てて身体を捻って避けた。目の前を三人が走り去る光景に驚いた犬が吠える。それを瞬く間に過ぎ去って背後から聞く。段々と目的の場所が近づいてくる。普段、この道は人がそれほど通る道ではないのだが、今日は違っていた。目的地に向かうにつれてすれ違う人の数が多くなっていくような気がしていた。中には、ケガをしている者、泣き叫んでいる者が見て、避難してきているようだった。
表情一つ変えずに黙々と鬼姫の後を追っていた。
寡黙、普段様々な表情を浮かべる人物とは思えないほどに静かに、それでいて何か考え事をしているように思えた。それほどまでに今度の相手は手ごわいのだろうか、成幸はそう考えていた。なにせ、以前の死の契約をした百鬼夜行の討伐では苦戦しており、現在も能力は使えないままだという。
「おい、成幸」
その言葉に反応して成幸はちらりと隣を走る清明を見た。
「この符を持っていろ。香澄の父親から譲り受けたものだ。この先何があるか分からん。護符の役目くらい果たすだろう」
そういうと清明は一枚の護符を渡した。
「あぁ、ありがとう」
走りながら成幸は受け取る。
「あれか」
清明は黒煙が上がる方向を見て、口を開いた。続いて成幸もそれを見る。
鬼姫の姿はすでに見えなくなっていた。とっくに走り去ったのだろう。黒煙の上がる方に向かって何度目かの角を曲がると目的の場所は見えてきた。
そこは市場の裏手側に位置する住居が密集した地区で軒を連ねた平屋が広がっていた。平屋にかかる頼りない小さな橋を過ぎたところに鬼姫は悄然と佇んでいた。
「そんな…」
昼間、鬼姫が遊んでいた長閑な様子とは打って変わっての有様に成幸は絶句した。
軒を連ねたと言っていた家屋は破壊され、破壊された家屋からは黒煙が上がっている。夕方だから夕飯を作るのに火を使ったのだろう。吹き飛ばされた家屋の中からは人間の腕が出ていた。
「大丈夫か」
すぐさま成幸は橋を渡って家屋だった木材や石材を退けて腕を掴む。潰れた家屋の中から勢いよく腕を掴んだ。
「く、首が無い…」
成幸は首の先、肩から上の部分を見て背筋がぞわりとした。
それはまだ若い男の身体だった。無骨で鍛えられている腕を見るにきっと左官だろうか。そして父親だったのだろう。退かした家屋の中には子供の玩具が見えた。肩の部分は本来、千切れることのない肩関節から肩甲骨にかけてよりやや下、鳩尾のところまで何か大きな歯で引き裂かれたような傷が付いていた。
では、首から上はどこだ。
という考えにはならなかった。
成幸の脳内ではあることが反芻していた。
曰く、鬼に出会えば生きたまま首から食われる。
誰が言い出したのか、巷を騒がしている鬼に纏わる話である。
間違いなく鬼に食われたのだ。
言わば、これは食い残しである。
成幸は顔を上げて周囲を見渡した。
辺りには同じように首の無い死体や何かに押し潰され身体のいたる部分が潰された死体が散乱していた。ところどころから上がる黒煙の焦げた臭いに混じって鉄の臭いがしていた。
この臭いを知っていた。
自分もつい先日、自分の胃の中から湧き上がってくる際に嗅いだことのある臭いである。
血だ。
それも夥しい量の。
地面はまるで雨でも振ったかのように濡れていた。
それは考えるまでもないことだった。
何人分の血液量なのかも分からなかったが、血の雨が振ったのだ。
「すまない…」
成幸はその場に崩れ去った。
これは自分のせいだ。
自分が黒い書簡を早く清明に届けていればこんなことにはならなかった。
先ほど、すれ違う町民たちを見てからというもの考えていたのだ。
けがをしている者、泣き叫んでいる者、避難している全ての人たちを見て、これは自分が引き起こしたことではないのかと。
「すまない、すまない、すまない…」
成幸は膝を折って、その場に頭を擦り付けた。
土下座である。
謝る相手などとうにいないが、それでもそうしなければならなかった。
涙が堰を切ったように溢れ出る。
肩は震えて、膝には力が入らない。頭を下げても足りないほどに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「だから言っただろう。辛い、と」
背後から清明の声が聞こえて我に返った。
普段と同じように悠然と歩いてくる様はどこか気品に満ちていてとても浮世離れしていた。まるでこの場所こそが自分の生活圏内であるかのような、そんな佇まいである。手には数枚の札を持って、臨戦態勢という形を取っていたがどうやらここにはすでに脅威は無いのだろう、懐に仕舞うと自分を責め続ける成幸の肩に手を置いた。
「もういい。よせ。いくら謝っても死者は蘇らない」
そう言った清明の顔は穏やか表情なものだった。
その瞬間、成幸は理解した。
「清明は、いつもこんなところで生きているんだな」
いつも清明が浮かべる、あの笑顔は、こんな惨状を見続けてきて、こんな途方も無い悲しみを背負った挙句に出した苦肉の笑みなのだ。
「そうだ。私はこういった場所をたくさん見てきた」
それはここ最近、出会ってからという時間の中で、一番感情を吐露していたものだった。見ず知らずの人間の命を背負って猶、彼女は笑うのだ。
「確かに、辛い。辛すぎる」
見ず知らずの誰かの死でさえも自分が関係していると分かったら放ってはおけない。自分のせいだとすればなおさらである。
成幸はそれを知ってしまった。
「お前にはできればずっと知らずに過ごしてもらいたかったよ」
その言葉が周囲にとってどんなに優しい言葉か、そして、それが清明自身にどれだけ過酷な言葉なのだろうか。成幸には計りかねなかった。きっと清明は見ず知らずの誰かの悲しみを背負う覚悟を、そういう生き方をするという選択をとっくにしたのだろう。
「強いんだな」
強くて優しい女性だと成幸は痛感した。
現に今もこうして成幸のことを察して言葉を選んでいる。
安部清明。
平安を守る最強の陰陽師たる由縁は、鬼や妖怪に蹂躙されている民からの期待と悲しみに押し潰されそうになりながらも必死に耐えてきた結果なのだろう。
目の前にいる女性はそんな重圧の中にいる。
「心はいつまで経っても強くならないよ。心は次第に慣れてしまうからな。私はとっくに慣れてしまったんだ。それほどまでに人間の死を直視してしまったんだろう。だから、私は強くないよ」
清明は自嘲気味に笑みを浮かべた。
成幸はその顔を見て、不謹慎にも清明が人間味を帯びていると思った瞬間でもあった。
「それに強くあろうと無理に振舞った結果を私は知っているからな。その分、心は真ん中にあるんだろう」
清明は立ち上がるとどこに視点を合わせるでもなく少し遠い目をしていた。
『私はいつだって人間の側だ』
あれは伊達や酔狂で言えた台詞ではない。あの言葉の根幹はどうやらここから来ているようだった。以前、中庭を見ながら言った在り続けることはそれだけで呪いだと言った台詞は今思えば自分に言っていたのかもしれない。
香澄が言っていた話を思い出した。
陰陽師は人間の業を直視するという話。厭世的な人物が多いという話を思い出した。それは、人間が傲慢なことに嫌気が差したわけではないのだろう。自分が、陰陽師としての自分の無力さを思い知って現実に押し潰されて周囲からの期待に応えることを諦めてしまったのではないか。
彼女が人間か妖怪の側かと問うた自分を殴ってやりたい。
そんなわけがないのだ。
脆く、か弱き者の側に彼女はひっそりと立っている。
「それとも、こんな惨劇を目の前にして心が壊れてしまったのかな」
「そんなことはない。お前は、清明は壊れてなんかいない」
「ありがとう」
そう言う、清明の目は慈愛に満ちていた。
直後、地響きに似た轟音が鳴った。
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