香澄の往診

ここ数日の成幸の身に降りかかった出来事は橋姫から要請を受けて、看護をした際に聞いたつもりでいた。

香澄の家は、結界術と封印術だけでなく治癒術を施した特殊な包帯も製造しており、多少なら薬学にも心得があった。

以前、清明との話し合いの際に、結界の耐久性の話が問題視されたので、本日はそれについての検証結果と修正点を構築するための新たな術式を持ってきたのだ。

何なら今日は成幸の診察を兼ねての訪問だったのだが、目の前の光景に香澄は思わず片眼鏡がずり落ちそうになった。

視線の先、門を潜って廊下を歩けばその異変はすぐに目に付いた。

廊下の先から何やら小さな物音がすると思って凝視していると束子と箒の姿をした妖怪が走ってきた。すぐさま呪符を取り出したものの、二匹の妖怪は香澄には意も介さず、そのまま目の前の廊下を曲がっていった。

妖怪たちは喜色満面の笑みとは正にこのことだと言わんばかりに屋敷内を掃除していたのだ。

「ど、どうなっている…。」

香澄は思わず叫びそうになった口を咄嗟に押さえた。

だが、自分にも矜持というものがある。

妖怪を見たからと言って叫び声を上げたとなったら結界術の権威としての家名に傷が付くどころの話ではない。

先祖に顔向けできないくらいの恥である。

落ち着くためにその場で何度か深呼吸をする。

「すぅ、はぁ、すぅ、はぁ。…よし、仕切り直すぞ」

屋敷の造り自体はボロく所々に古さが滲み出ているわけで、以前から妖怪でも住んでいてもおかしくないと思っていたのも確かな話である。

それは決して橋姫の掃除の至らなさに苦言を呈しているわけではなく、ただの家屋の経年劣化であることは目に見えていたわけだが、香澄は清明の屋敷を初めて訪れた時にはそのような印象を持ったのだ。それが通ってみれば京で一番と名高い陰陽師の屋敷に妖怪などいるわけもなく自分の中に抱いた恐怖心を恥じていたのだ。

そして、本日、表の通りから見える清明の屋敷は綺麗に磨き上げられていた。

苔の色が付いて変色した塀は見事に元の白さを取り戻しており、ずれた屋根瓦や傷んだ瓦もきちんと嵌っていた。その様子に香澄は感心していたのだ。

安部清明はとにかく人間を嫌う。と風の噂で聞いていたので、自分の屋敷に職人や左官を立ち入らせることはしないと勝手に決め付けていたのだ。

そう思うのも無理からぬ話だと思った。

陰陽師とはそれ即ち人間の業を見つめ続ける者のことである。

鬼や妖怪が現世で悪さをするのは人間の欲がそれだけ深いからなのだ。

清明ともなれば数多くの鬼や妖怪を見てきたために人間を嫌いになるのも当然だと思っていた。

しかし、現実はどうだ? 

屋敷に職人を呼び、身なりや外観にも気を使うという心の広さを見せ付けられたのだ。香澄は心の中でこれは安部清明についての認識を改め直さねばならない。清明に会う際にはその旨を陳謝しようとさえ思っていたのだ。

そう思っていた。

門を潜る前までは。


「いつからこの屋敷は妖怪屋敷に鞍替えしたのだ…」

香澄は忍び足の様にして廊下を歩いた。

できるだけ音が鳴らないようにするためだ。

曲がり角に差し掛かると、顔を少しだけ出してその先を覗いた。

いつも清明が酒を楽しみながら術の話をする縁側が見えた。

縁側からは中庭が一望できるのだ。

香澄は酒を飲める年ではないので談笑するならお茶を飲むのだが、清明は縁側から見える梅の木を見ながら酒を飲むのが習慣だった。そんないつもの、清明が座っていた縁側の定位置に一人の朱い鬼の少女が不貞腐れながらあぐらを掻いて座っていた。

「鬼、か…?」

そこには自分と同い年ほどの少女がいた。

しかし、すぐにあれが人間ではないことが分かった。

浮世離れした雰囲気、現世に存在していること自体が異常であると思われるほど、万物の創造主によって美しい物として造型されたような姿をしていた。

蝋を思わせる白い肌、すらりと伸びた手足、腿までしかない白地に朱い紅葉柄の着物から伸びた脚線美は実に健康的でその下には膝上まである黒い長靴下を履いていた。彼女が女性ではなく少女だと断定するのに時間はいらなかった。

何やら朱を交えた瞳はどこか物憂げな顔をしている、と香澄は思っていると。

「へっくしょい」

「あ、くしゃみした」

くしゃみの動作が大きく、豪快に唾を飛ばしながらくしゃみをする拍子に身を縮こまらせていた。そして、鼻が出たのか散り紙を取り出すと再び豪快に鼻を噛んだ。

「季節はずれの花粉症かしらね…。鬼って花粉症なるのかしら…。あー、もしかして誰かが噂しているのかも。あ、あの雲、美味しそう…。」

と、そんな独り言を言っていた。

今しがた美しい鬼だと思っていたがその動作を見て知性の低さを感じた香澄の胸に去来した感情はこの子はきっと不憫な脳みそなのだ。なら守ってあげねばというような慈愛に満ちた気持ちになった。

「どうやら悪い鬼ではなさそうだな…」

そう思って、しばらく様子を見ていると廊下の奥から橋姫がやってきた。

「鬼姫さん。釜を洗うの手伝ってください」

橋姫は慣れた調子で言うと

「えー…」

鬼姫と呼ばれた鬼の少女はあからさまに嫌そうな表情を浮かべていた。

「あ、それが終わったら池の掃除をお願いしますね」

「そんなの成幸にやらせなさいよ。いつまで寝てるんだか…」

「成幸様は療養中ですからね。無理はさせられません。鬼姫さんお願いします」

「もう…、分かったわよ。やればいいんでしょ」

ぶつくさ文句を言いながら鬼姫は立ち上がると橋姫と台所に向かっていった。

香澄は二人が消えた廊下に出るとそのまま縁側を歩いていた。

今日の用件は清明と成幸である。鬼姫と呼ばれた鬼の少女を見つける前に橋姫に出会っていたなら声をかけられたのに、と一人で愚痴を零し廊下に出た。

「や、やめっ…」

「ん?」

縁側の奥、というか中庭を挟んで廊下の奥の部屋。確か、客間だったと記憶している部屋から声が聞こえた。

「あの声は成幸殿か?」

香澄はそちらの方へ歩みを進めた。中庭を挟んで奥の部屋は清明の寝室もあったので、部外者の自分が行くのは憚られていたのだが事態が事態のために止むを得ないだろう。

廊下を歩いていると声がどんどんと大きくなっていく。

確か、あちらは成幸を看病した際に通された部屋である。

「まだ床に臥せているのか? 本来ならば、もう回復しているはずなんだがな」

香澄は声のする方に足を向けた。その声は段々と大きくなって聞こえてくる。

「ははは、心配するな。私はこういう経験が豊富だからな。任せておけ」

その声が清明の声であることはすぐに分かったが声色が違った。

どこか妖艶で聞く者を虜にするような淫靡な香りがした。

「い、いい加減にしろ…」

「いやいや、そう恥ずかしがるな。綺麗じゃないか。ほら、よく見せてみろ」

香澄は障子戸の前で固まってしまった。

清明も淑女であるからにはいずれ結婚するとは理解していた。殿方と結婚し、子を宿し、母となる。世間一般でいう女性の人生というのがこの本流にあるのは否定できないだろう。

香澄とて、いずれ結界術の権威の血族を守るためにも子を為し、母となり、師となる流れの中にいるのだ。

だが、実感は無かった。

よもや京の都一と嘯かれている安部清明が最近知り合った書簡係りの文官とそのような仲になるとは思ってもみなかった。ねんごろの仲というやつだろうか。というか誘ったのはどっちだろうか。意外にも成幸の方だろうか。それともこの会話の通り清明の押しの強さで迫ったのだろうか。

「そのような仲…」

香澄は先ほど思った言葉を口にした。

脳内ではぐるぐると何やら未知なる世界が広がっていた。子どもの自分にはまだ分からない大人の世界というやつなのだろう。

分かりやすく言い直すなら、清明と成幸は男女の仲というのだ。

「ん? そこにいるのは、誰だ?」

障子の向こう、部屋の中から声がした。清明の声である。

「か、香澄です。今日は…その、お取り込み中の様子なので日を改めましょう…」

声が上擦っていた。極度の緊張である。朝廷からの家名取り潰しを言い渡された時並みに緊張している。障子の奥は未知の空間が広がっている。中身に興味はあるものの見れば何か取り返しの付かないことが起こりそうな雰囲気があった。

「香澄か。よし、入れ。いい機会だ。お前の感想も聞きたい」

「はへ?! 私に感想ですか…」

感想を言えるまでの知識は無い。いや、知識は本を通して多少は知ってはいるが実物を含めての経験は皆無である。

そんな中途半端な知識しか持たない自分でもいいのだろうか。

「ん? 入らないのか?」

そんなことを考えていると、まさかの部屋の、屋敷の主から入室の許可が出た。そこまで言われたら香澄も腹を括るしかないだろう。

「で、では…お言葉に甘えて…」

障子に緊張する手をかけて、そっと障子に手をかけた。

香澄の視線の先には布団から這い出ようとする成幸が清明に圧し掛かられて、上半身に巻かれた包帯を取られていた。

「おい、やめろって」

「いいではないか、もう傷も綺麗に塞がっているわけだしな。そうだよな? 香澄」

成幸の左胸には傷跡はあるものの、確かに傷は塞がっていた。問題ないだろう。

「だからといって、何故清明がするんだ」

「いいではないか、私は包帯の扱いは慣れているんだぞ。洛中でも屈指だと自負している」

「どこで競ったんだ」

「自己申告だな」

「やっぱりそれただ包帯を替えたいだけじゃないか」

「そう言うな。こんなうら若き乙女たる私が包帯を替える機会などそうそう無いぞ。それよりも、香澄の白魚のような指に触れられるのが好みか?」

そう言って、清明は意地悪そうな視線を香澄に投げかけた。大方、お前も成幸をからかうのに参加しろ、とでも言わんばかりの視線だった。

「いい加減にしろー!」

成幸は覆いかぶさる清明を払いのけると立ち上がった。

清明はまるで予期していたように離れる。

「なんだ? 私の介抱が受けられないのか。観念して恥辱に塗れた醜態を晒せ」

「誰が晒すか!」

「言ったな?」

清明はニヤリと邪悪な表情を浮かべた。その手には何か紐が握られている。

「あー、これは、なんだろーなー? 病衣の下を留める紐に思えるぞー?」

わざとらしく大きな声で清明は言う。

病衣?

成幸は病衣と言われてそれが自分の衣服であることに気がつき視線を下げた。下部は病衣を履いていたのだ。紐により留まっていた衣服は擦り下がり、股間を露出してしまっていた。

「な、なぜ履いていない!?」

「昏睡している間に、橋姫に清拭を頼んでいたからな。なるほど、あいつが言っていた通りずいぶんと立派じゃないか」

清明は口元に笑みを浮かべさも面白そうに、成幸の下半身を見て言った。

「清明、何を言っているんだ。早く、その紐を返せ!」

成幸は掛け布団で局部を隠すと、清明に向かって手を伸ばす。清明はゆったりとした動作で成幸が伸ばした腕を掻い潜ると室内を小走りで逃げた。

「いや、すまんすまん。やれ子どもだ、童だと馬鹿にしていたが訂正しなければならないなぁ。なぁ香澄?」

「………。」

笑い転げそうなほど面白いのか喜色満面な笑みを浮かべた清明は入り口付近で凍り付いている香澄に声をかけた。

「おーおー。香澄は初心だな。まぁ、分かる分かる。私も見た時は泣き叫びそうになったものだ。まったく成幸は罪な男だよ。傷物を増やすとは」

「香澄殿、違います! 清明のやつがからかって…、全部捏造です! それに傷物にはしていないだろう」

「心に大きな傷が残ったのだー。香澄も何か言ってやれ」

「き、」

「き?」

「きゅう…」


香澄は赤面した表情でぐるぐると目を回して、その場に倒れこんだ。

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