式神、契約
「ここは、どこだ…?」
視界の奥が眩しくて、心臓がやけに高鳴るのを感じて成幸は目を覚ました。
開けた視界の先は、どこかで見た天井だった。
「気が付きましたか」
すると、耳が覚えているお淑やかな声がかかる。
その声がする方を見ると橋姫がとても心配そうにこちらを見ていた。
一睡もしていないのか、顔にはやや疲れが見える。
「橋姫さん…何故、俺はこんなところで寝ているんだ」
いつから眠っていたのだろう。
自分の身体は妙に気だるくて、それでいて全身がどこかよそよそしいような気がする。まるで自分の身体が自分の身体じゃないような気さえする。
そう思ったものの今はそれよりも自分のことである。
自分は何故、ここにいるのか?
その疑問の方が大きかった。確か…思い出そうとして頭痛がした。
「あら? もしかして記憶に障害がありますか。確かに、あんなことが起こったと言えば致し方ないことですよね。では、質問をしましょう。自分が誰だかわかりますか?」
橋姫はふざけているのか真面目なのか判断のつかないようなことを言いながら、成幸の顔を見ていた。ふざけないでください、と言おうとして橋姫を見るも何かを吟味しているような目つきだったので言う気力を逃してしまった。
「…源成幸です」
「そうです。良かった…ちゃんと定着しているようで。では、ここが何処だかわかりますか?」
橋姫は、安堵のため息をつきながら次の質問に移った。
「ここは、どこですか…。」
「自分の名前は覚えているのに、場所が分からないなんて…迷子ですね」
気の抜けるような呑気な返答をする橋姫に成幸は少し気が立った。
「…起きて確認します」
このまま橋姫と問答を繰り返していても埒が明かない。そう思ったのだ。動かしづらい身体に鞭を打つように足を布団から出そうとする。本当に自分の足では無い様に、思うように力が入らなかった。
足を動かすというか腰を動かすように膝が立ててみる。
「あぁ、どうかそのままで」
苛立ちを隠せないままに布団から起き上がろうとした成幸を制するように、額を軽く人指し指で押される。まるで達磨のように簡単に成幸は布団に倒れた。
「うわっ」
どうやら今の自分は体力はおろか筋力すらも落ちているようだった。
「すみません。ですが、あまり動かないでくださいね」
橋姫は謝罪の言葉を口にしながら、乱れた布団を掛けなおしてくれる。直された枕に頭を乗せて天井を見ながらも呼吸しているとようやく脳内が覚醒に至ったようで少しは状況が整理できた。
まず橋姫がいるということはここは清明の屋敷だろう。
どこかで見た天井というのは客間であった。早朝、清明と話し合ったあの部屋である。そして、どうやら自分は怪我をしているらしい。
起き上がろうとした際に見えたが上半身はほとんど包帯が巻かれていた。
「俺に何があったんですか…」
成幸は尋ねるように橋姫に目をやった。
「もう少しすれば、分かりますよ」
橋姫は人指し指を立てて、口の前で、しーっ、と静かにするように促すとそのまま手を耳に持っていって何かを聞くように頭ごと耳を外に傾けていた。成幸もそれに倣い傾聴していると、どこからか縁側の廊下を闊歩する足音が聞こえてきた。踵から歩く音はどんどんと大きくなってくる。成幸は内心で清明であると予想した。
そう思い至るには至極当然のような理由があったからだ。この屋敷には清明と橋姫の二人しかいない。
橋姫はここにいるということは清明であるのだ。それにしても、随分と縁側を闊歩する足音は大きいな。
そう思っていると、障子が勢いよく開いた。
「清明はどこよ!」
清明の声ではなくもっと活発的な声が客間に響いた。
勢いよく両開きになった障子からは眩しい光が差し込んできて思わず成幸は目を細めた。
「あら、鬼姫さん。随分と元気がよろしいですね。ここには重傷の方がいらっしゃいますからお静かにお願いします」
「お前…」
成幸は自分の心臓が高鳴るのを感じた。
まるで遠くに行ってしまった相手が帰ってきたような胸の高鳴りだった。
視線の先、陽光を背負って立つ人物は見覚えがあった。慣れた視界の中には鋭い目つきに白過ぎるほどに白い肌。目は深い朱色、雪を思わせる白地に血を思わせる紅葉柄の着物、朱い髪をした鬼の少女が立っていた。
「なんで、ここに…」
成幸は不自然な心臓の高鳴りがする中、搾り出すように言った。
「はぁ? あんた覚えてないの?」
「どうやら、少々記憶に混乱が起きているみたいです」
橋姫の注釈も気に留めないまま鬼の少女は成幸の方を見眇めていた。
そして、ひとしきり睨んだ後、
「っていうか、あんた、心臓返しなさいよ!」
そう言い放った。
「心臓…?」
その言葉に成幸は自分の心臓が跳ね上がるくらいに高鳴ったのを感じて視線を落としてみる。先ほどから気にはなっていたことがあった。左胸を重点的に巻かれている包帯を見た。
手を当てて確認する。
トクン、トクンと手のひらに脈動する心臓の鼓動が伝わってきた。
「私の心臓、勝手に触ろうとしないでよ。こ、この変態!」
顔を真っ赤にして怒号を放つ鬼姫はずかずかと部屋に入ってきては布団に横たわる成幸の胸倉を掴み上げた。
その結果、成幸は無理やり上半身を起こされる。
「何をする」
成幸は鬼姫の腕を掴もうとした。
「それはこっちの台詞よ。三日前に起こったことを思い出しただけでも腹立たしいわよっ! よりにもよって、あんたなんかと契約させられるなんて…」
分かりやすい憤慨の態度を露にして鬼姫は自分の頭を思いっきり掻いていた。
その結果、成幸は布団に投げ出されてしまい、手は鬼姫に触れる前に空を切ることになった。本来ならば十分に掴むことができる速度だったにも関わらず、筋力が衰えていたのだ。
「三日前…?」
「そうよ、あんたあれから三日間寝込んでいたのよ。いっそそのまま死んでくれたら…まぁ、あいつの術は完璧なわけだし、絶対にそんなことはないんだろうけど…。と、ともかく、あんたのせいで私の人生おじゃんよ! どうしてくれんのよ!」
鬼姫は部屋の中を落ち着き無くうろうろと歩いた後、腰に手をやってふんぞり返りながら成幸を指差した。
「人生っていうか鬼生ですけどね」
橋姫が他愛のない合いの手を入れる。
「三日も寝込んでいたのか…。どうりで身体が動かないわけだ」
筋力の低下に嘆く成幸に
「それだけじゃないわよ。今のあんたの心臓は元は私の心臓なんだから馴染むのに時間かかるのよ」
鬼姫は言う。
話が長くなると思った橋姫は気を利かせて押入れから座布団を取り出していた。
「橋姫さん、三日間も付きっ切りで看病してくれてありがとう」
「いえいえ、私も付きっ切りということではなかったんですよ。市場に食材を買いに行ったり近くの山に山菜を取りに行ったり、まぁ、炊事や洗濯を終えた後、睡眠時間を削ってはいましたけれど。決して、付きっ切りというわけではなかったんですよ」
「…頭が下がる思いです」
成幸は文字通り頭を下げた。橋姫は胸の前で小さく手を振りながら
「そんな、頭を上げてください。私が好きでやっていたんですから」
その言葉に、成幸は知らずに自分がしてもらった恩がとてつもなく大きなこと知った。
「ねぇ、そろそろ再開してもいい?」
鬼姫は橋姫が用意した座布団に乱暴に腰掛けて胡坐をかいた。
さらに用意していたお茶請けをいくつか口にいれながら話す。
「だから何があったんだよ。確か、あの時、俺は咄嗟に床に臥せっている娘を抱きかかえて走ったところまでは覚えているんだが…」
その後のことは思い出せない。
まるで頭の中に靄がかかっているように記憶が閉ざされていた。
「その後、あんた死んだのよ。何もないところで転んでね。力も無いやつがでしゃばるからよ。そこを、あの鬼に心臓貫かれたのよ」
鬼姫は、わざわざ意地悪そうな言葉を選んで説明する。
確か、というか成幸にしてみればつい先ほどのことなのだが、三日前、戻橋のところで鬼姫の昼間は『呪』で身体中が疲弊していたというのも思い出していたがそこはなんとかぐっと堪えた。
「鬼姫さん、その辺にしておいた方が…どうやら混乱されているようですし。香澄様の話によればゆっくりと時間をかけて説明した方が良いとのことでしたし。明日も回診してくださるので、そのときにでも」
「いえ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
「…ふん。それで清明が私の心臓を使ってあんたを蘇生させたのよ。正しくは生命維持って名目で契約したのよ」
「契約?」
「そ、契約。あんたも知っているんでしょ。陰陽師と式神の契約よ」
「そう…なんだ。よく分からないけど」
「そう言えばあんた凡人だっけ? なら、知らなくても仕方ないわよね」
高飛車な様子で、上から目線で話している鬼姫をよそに成幸は今の自分の状況を理解しようとしていた。
陰陽師における式神という存在は契約によって成り立つというのは成幸にも理解できていた。
「式神というのは…人間でも契約できるのか?」
「えぇ、そうですね。魂のあるものでしたら何とでも契約できると聞いております」
陰陽師は、その魂と契約して使役することである。
「なら、俺は清明の式神になったのか」
「はぁ!?」
成幸の出した答えに、鬼姫は素っ頓狂な声を上げた。
「え、ど、どうしたんだ? 何か間違っているのか? 俺は陰陽師じゃないわけだから…」
「何をどう聞いたらあんたが清明の式神になるのよ。バカじゃない? っていうか、バカじゃない! 一回死ねば? ていうか、一回死んでいるんだっけ。なら、もう二回死ねば」
どんどん口が悪くなる鬼姫を他所に、橋姫が横から仲介してくれる。
「はいはい鬼姫さん。少し落ち着いてください。そんな説明では何も伝わりませんよ。よろしければ私が説明しますけど、成幸様?」
「はい。お願いします」
ちらりと鬼姫の方を見つめたが、まだ言い足りないのかこのままでは罵倒だけが続きそうで埒が明かないと思ったのだ。
「んなっ!? どうしてよ。ちゃんと私が説明しているじゃない!」
抗議するように叫ぶ鬼姫の声はどんどんと蚊帳の外になっていきやがて小さくなっていった。成幸は橋姫に向き直る。
「こほん。では始めますね。成幸様は現在、鬼姫さんと契約していることになります」
「え…?」
陰陽師じゃないと式神と契約できないというのが世間一般の常識であり、成幸が知っていた数少ないことだった。
「そんなことできるわけが…第一、俺は陰陽師ではありません」
「そうお思いになられるのも無理からぬ話です。成幸様は本来、一般人。鬼との契約などできるはずもないのです。しかし、清明様に不可能はございません」
「そんなこと言っても…どういうことですか? それに俺はどうすれば…」
陰陽師とは式神と使役する存在だという、陰陽師でもない自分が式神を使役するなど出来得るのだろうか。
「成幸様自体は何もする必要はありません。契約といっても、主な契約は清明様が勝手にされたようなので、特に成幸様が鬼姫さんに対して何かしらの対価を支払うことはありません。精々、この先の人生を一緒に過ごす程度でしょうか」
「それが一番、大きいと思うんですが…」
「いえいえ、一番ということはないんですよ。式神の中には莫大な生命力を対価にしたり、術者の身体の一部を要求したり、金銭を要求する式神だっていますからね。その結果、命を落とす陰陽師もいますから。それに比べれば時間程度、安いものですよ」
そう言うと、にこり、と橋姫は笑みを返した。
「まぁ、確かに命を要求されるよりは…」
「でしょう?」
「しかし、ということは、清明は俺の代わりに鬼姫とそんな大層な契約したというのか」
「そうですね。成幸様は契約者でもないので対価無しで式神を使役できるということです。そして、清明様が支払いを肩代わりしている状況でもありますね」
契約の内容を含めて契約は清明がしてしまい、その対価は清明が支払うということだったのだ。それはひどく分の悪い話だと思った。
何のため?は分からないが、誰のために?
そんなものは明白である。
「そんな…俺のために」
「清明様も少なからず巻き込んでしまったことへの罪悪感があるのでしょうね」
橋姫はやや悲しそうに肩を竦めた。
「なぁ、鬼姫が途中で契約を変更するなんてことはないのか? 途中でやっぱり命を対価にするとか鬼や妖怪ならありそうじゃないのか?」
成幸は清明の契約を案じていた。その考えでいくのなら、たいていの妖怪は最初は軽い対価を要求して、次第に要求内容を変更するといったことができるはずだと思ったのだ。
「いえ、一度決めた契約ですからね。不履行にはできないものですよ。最初に決めた契約が全てなので術者はまずお互い妥協できる点を模索するのが何より大切なことですかね。まぁ、用はその式神との按配を探る感じですか…」
そう説明する橋姫は何やら微笑んでいた。
「…橋姫さん?」
「はい? なんでしょう?」
「なんで、そんなに笑顔なんですか」
「いえいえ、これで成幸様が清明様の書簡係りを辞退できなくなったなぁと」
「そんないきなり現実的なことを…」
橋姫の呑気な言葉は成幸に現実味を与えるには十分だった。
この話が始まってからというもの今までどこか地に足が着いていないような話に思えたが、その言葉で現状がどういうことかを改めて理解させた。
「なら、俺は…というか鬼姫は何を要求したんだ…?」
「さぁ、それは清明様と鬼姫さんしか分からないことですからね。ちなみに、清明様は対価を教えてくださいませんでした」
そう言って、橋姫はちらりと横目で鬼姫を見る。
聞け、ということなのだろう。そう理解した成幸は訊ねてみた。
「なぁ、鬼姫」
「………ふんっだ」
ぷいっと顔を背けている。
どうやら最初から思っていたことだが随分と嫌われているようだった。
「あら…先ほど、鬼姫さんの説明を遮ったからでしょうか」
「あれが説明だったんですか? 俺にはただの罵倒にしか聞こえなかったですよ」
「あれでも鬼姫さんなりの説明だったのでしょう。仕方ありません。成幸様、駄々っ子をあやす様に丁寧に話しかけてあげてください」
丸聞こえなひそひそ話、耳打ちをする橋姫に対して
「だーっ!!」
鬼姫は大声を上げて立ち上がる。
「うわっ、危ないな」
「あれだけ言われて、私だって、教えるわけないでしょ!」
鬼姫は腕を組んで今度こそ顔を背けて、背中を向けてしまった。
「せめて清明じゃなくて俺に契約を変更してくれないか。契約が無理なら対価だけでも俺が払う。何でもいいぞ。命は…困るけど、他のものならできる限り譲歩する。あいつに迷惑はかけられない」
「うるっさいわね。凡人は凡人らしく、あいつに迷惑をかけないようにこそこそと生きていればいいのよ!」
「だからこそ、あいつに、清明の迷惑にならないようにしようとしているんだけど…」
そう言うと、鬼姫はしばらく黙っていた。
「…無理よ。うんそう、無理無理。あんたにはぜーったいに無理! できっこないし! バカ、アホ!」
何か言葉を紡ごうとして諦めた。
その後、鬼姫は罵詈雑言を吐き散らすと部屋を出て行ってしまった。
「なんだ、あいつ…何が無理だっていうんだよ…」
「さぁ? 私も清明様に似たような感じで管を巻かれましたからねぇ…。」
「どうしろというのだ…」
先が思いやられる成幸は取り付く島もない様子に頭を抱えてしまった。そんな様子を見ながらも橋姫はいつもの軽い調子で答えた。
「それは簡単じゃないですか」
そんなことも分からないのか、とでも言わんばかりの物言いに思わず成幸は顔を上げた。
「無理、って言っておいて、出来っこないって言いましたからね。きっとどうにかすれば出来るようになるんですよ」
「それをどうすればいいのか、分からないんですけど…」
橋姫は、格別で屈託のない笑みを浮かべて言った。
「鬼姫さんと仲良くなればいいんですよ」
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