物部邸の”業”
物部邸にて
「これは、呪いですね、しかも相当、業が深い」
清明は床に臥している人物を見ながら、口を重くして言った。
あらかじめ人払いの術をかけているため屋敷の中には従者を含めてまったく人がいない。
「業、だと? 私の娘が業深き人間だと申すのか。安部清明」
床を挟んで向かい側、清明の向かい側、意識もないほどに衰弱した娘に寄り添うように、全体的に肥えた口ひげを生やした黒色の衣冠服姿の男は言った。
…卑しい男だ、清明は内心でぼやいた。
この男を初めて見た時、清明は鯰に似ているとさえ思った。だがこれだけ太っていればきっと大味で美味しくないだろう。と、そんなことを思っていた。
この人物こそ、物部邸の主、朝廷内でも屈指の権力者、物部実頼である。
「この娘に纏わりついている業が、ですよ。ふむ…死相が出ている。何者かが『呪』をかけているようですね」
「巷を騒がす百鬼夜行の仕業か。陰陽寮の連中は今まで何をやっていたのだ。もしも、娘に何かあれば相応の責任は取ってもらうぞ」
勝手な話だと、清明は脳内で愚痴を零した。
きっと一般人にしてみれば、百鬼夜行はどれも同じに見えて仕方ないのだろう。
「あぁ、和泉。可愛い我が子よ…何故、こんなことに」
清明は冷ややかな視線で実頼と一人娘である和泉を見て、事前に調べておいたことを脳内で反芻する。実頼は出世欲の塊のような男であった。自分の出世の為なら竹馬の友にも汚名を着せ、ライバル関係にあった者は京を追放し、病弱な家名の高いところの娘を娶り、子ももうけて家督を継ぐと妻が死ぬのを祈るように家を空ける日々を続け、妻が死んでからというものは一人娘をより自分の地位が上がるような家柄に嫁がせたのだ。
清明はゆっくりと実頼の顔を見据えた。
その首元には、黒い紐のようなものが見える。
業の線。
清明たち陰陽師はそう呼んでいる。人間の欲の因果を表す線のようなものである。常人には見えないのか、清明はその線を見つめていた。
「なんだ。何を見ている」
実頼は自分の服を見回したが、何も付いていないことを確認する。
「いえ、何も」
陰陽師の中でも高位の者しか見られないであろう線を清明ははっきりと凝視していた。実頼は清明の視線を訝しげに思いながらも和泉に顔を落とした。清明はその光景を見ながら線を見つめていた。それは実頼の首に、腕に、足に、腰に、纏わりついていた。
しかし、実頼の線は確かに多いが線自体はそう多くもなく、さらにはそれが奇妙なことに娘の方に線が伸びていた。
親子共々恨んでいるのか…。
和泉という娘の顔を見れば夥しい数の業の線が雁字搦めにしている。
顔は線でかき消されるほど多く、清明は物部邸に来た時より和泉の顔はまだ見られていなかった。その線の中、よりにもよって一番太く濃い黒線が和泉の胸に向かって突き刺さっていた。
胸、つまりは心臓、死を意味する業の線だった。
清明は虚空、和泉の胸に触れるところまで手を伸ばして業の線に触れてみた。すると脈動する血管のように蠢いていた。指先に鋭い痛みを感じて清明は指を引いてみると爪の間から血が出ていた。当人だけでなく触れる者、皆傷つける強い呪いである。
それはまるで黒くて大きな蚯蚓を連想させた。清明は痛みに躊躇わず、その内の一本を引いてみた。
糸は何本にも分かれており、その先を目線で追う。
「おい、安部清明。何をしているのだ」
「そういうことですか…。」
清明は、何かを悟ったような顔をして手を離した。右手からは流血していた。
「その手はどうした」
「周囲がこの業に触れると反応するようです」
「無事なのか…」
「はい、おかげで分かりました」
「何がわかったのだ」
「敵の狙いですよ」
「狙い、だと?」
「敵は和泉を殺せば次は実頼様、と考えているようですね」
「復讐、だと? いったい、誰が。この私に復讐など考えるのだ」
「誰か、身に覚えはおりませんか。かつての友、かつての上役だった男、島流しにした者、娘を酷使させ殺された父親、婿を失った娘…」
「何が言いたい」
そこまで言えば、実頼も自分のことだと気付いたのか、清明の言葉を精査していた。
「これまで業深き生き方をしてきた者に最適の復讐は何かを考えれば、奇妙なことにそれはその者への復讐ではないのです」
実頼はしばし考え込み、やがて顔をあげた。
「近親者か」
「えぇ、おそらくは。実頼様は妻が死別していますから。この業はあなたに伸びているように見えて業の先は和泉様に伸びている。物部の血縁を呪うほどの恨みの念、普通はそんな恨みを抱くものはおりません」
つまり、この娘に纏わりついている業は元々、物部実頼の物なのだ。
「くっ、だとしても安部清明。この件を解決するためにお前を呼んだのだ。今さら心を入れ替えたからといっても和泉は助からんのだろう。ええい、厳命である。和泉の命を救え。さもなければ、お前を島流しにしてやる」
実頼の憤慨が閾値を越えたのか、今にも清明に掴み掛かるまいとしていた。
「はぁ…あまり私の機嫌を損ねない方がいい。和泉を不死にして永劫の苦痛を与えてやることもできるんだぞ」
清明はドスの利いた言葉で実頼を見下すように言った。
「なっ、お前…。」
「しばらく黙っていろ、鯰男」
清明は人差し指と中指を手刀にして実頼の顔の前で振る。すると、実頼は糸が切れたあやつり人形のようにその場に崩れ落ちた。
「まったく、ガミガミとうるさい男だ。こんな男が集中的に権力を握っているというのは存外人間社会も難儀だな」
まるで自分が人間社会に属していないかのように言うと、清明はあらかじめ施していた五芒星を描いたしめ縄の真ん中で術を唱えた。すると、しめ縄は明るく光り和泉の部屋を包みこむ。
昨日、成幸が来る前に香澄に頼んで持ってきてもらった結界である。
「…これで、まぁ。大丈夫か」
ひとまず妖怪からの攻撃で結界が破れることはないだろう。しめ縄は妖怪には触れることはできないのだ。結界を施した者、つまりは清明の命が失われない限り結界は壊れない仕組みである。
「この娘にまとわりついている業は死を招く鬼たちを引き寄せる業。つまり、洛中のどこかでその鬼たちと契約したやつがいるのか」
先ほど実頼には業が深い、と言ったが実際にはそれは正しくない。
業は言わば願いなのだ。願いは人を少なからず大きくする。幸せにする。その願いに尽力している間、人は充実していることだろう。
だが、自分の命と引き換えに願う願いとは…それはもう願いではない。
捨て身で命を無くした後、願いが叶ったかどうかを確認できないからだ。
「片道分の願い、か。言わば道連れの呪い、とでも言おうか…」
清明は独り言を続けた。
あのしめ縄の結界により一時的にも契約が切れてしまっているので、死の契約をした百鬼夜行たちがすぐにでもここに様子を見にやってくる頃だろう。不思議と人間ではない鬼や妖怪ほど契約を大事にするもので、契約を破った鬼という話は寡聞にして聞いたことがなかった。
脳裏で相手の数や形を想像するも問題無い。むしろ、鬼たちの力が衰えている昼の方が討伐しやすいだろう。
「自分の命を対価に相手の死を望む、そこまで自分を許せないのか。やはり予想していたよりも遥かに人間とは面白いものだな」
清明は物部邸内の縁側に腰を落とすと柱に寄りかかっていた。
業のことを考えていると橋姫に止めるように言われるある表情を浮かべてしまう。
それは鬼や妖怪にも思えるような禍々しいほどに邪悪な笑みだった。
きっと和泉を呪った女は、自分よりも和泉を選んだことが引き金になったのだろう。相手を許せる、許せないという枠組みの中で感情を殺してしまえるならまだ死の百鬼夜行とは契約できまい。そんな建前を超えた剥き出しの業が、取り繕うことのない泥濘した本心が百鬼夜行を呼び寄せたのだ。
清明は、契約者のことを考えていた。
おそらく和泉を呪った女はとても気位が高いのだろう。他者を圧倒するほどに美しい女なのかもしれない。そんな女だからこそ権力の傘の中にいる和泉に負けたのが悔しかったのだ。例え、それが実頼が自分の出世のために裏で手を回した政略結婚だとしても、だ。自分を選ばなかった男だけでなく和泉、実頼まで呪ったのが何よりの証拠だ。
そこへ、
「…来たか」
清明はゆっくりと腰を上げた。
東の空よりどす黒い気配が近づいてくる。
しかも、大きかった。雷雲を伴って黒い線を纏う雲が集まってきている。昨晩、羅生門にいたような生易しい微弱なものたちではない。清明が成幸の言ったことを嗜めた、人間に害悪をもたらす者、は本来の意味合いと出回っている意味合いが違うからだったのだ。
人間とは生物を表す。
害悪は生物全体に不運を引き起こす要因であるということ。
つまりは惨禍である。
生物全体を悪い結末に持っていく。
要するに生物としての絶滅である。
種族を殺し続けるのに一番の脅威。
それは即ち、同属を殺す同属である。
同じ人間である人間を殺す存在のことを敵という。
今回は人間との死の契約をもって人間を殺す活動をする百鬼夜行である。
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