鬼姫、掃除に精を出す
「さて、一度、自宅に戻るよ。」
朝餉を食べた後、成幸は清明と門を出た。
「じゃあ私は今からあっちに行く。いいな? お前は絶対に西の方角には歩くなよ?」
「いや、俺の家は南西なんだけど」
「なら、まず西へ行き、そのまま南に下がれ。それなら大丈夫だ。そして、今日はもう家を出るなよ」
「分かった。一眠りしてから家で本でも読んでおくよ」
「あぁ、それがいい。明後日頃にまた来い。その時、今日の話をしてやろう。ああそれと私のことはこれから呼び捨てにして構わないからな。ではな」
言うだけ言うと清明はそれ以降振り向くこともなく行き交う人ごみに紛れて歩いていった。
「…結局、俺は何もできないんだな」
雑踏の中に消えていった清明を探すような視線で見送ることしか出来なかった。
百鬼夜行の話、鬼の話、妖怪の話、あの鬼の少女の話にしても成幸は結局のところ清明の話を信じることしかできなかったのだ。
「俺には所詮、遠い世界か…。」
昨日、結界術と封印術の権威である香澄が言っていた言葉を思い知る。こうして清明付きの書簡係りになったはいいけれど、なったからといってできることは何も無い。手紙だって、清明は内容をほとんど軽視してしまっている。
実際、彼女にしてみれば取るに足らないことなのだろう。
「書簡係りになれば、少しは近くにいられると思ったんだがな…。」
物理的には近くなった。
清明と言葉を交わすようになり、屋敷に出入りできるようにもなった。だが、それだけだ。基本的に清明は一人でなんでもしてしまう。今日だって、足手まといになる自分たちに釘を刺してまで一人で向かったのだ。
「ここに居ても仕方ないよな。帰るか」
成幸は踵を返して清明の屋敷を後にして、戻橋に差し掛かった。
「くっそ。全然汚れ落ちないじゃない。しかも、なんかゲロ臭いし…本当最悪」
と、そんな声が聞こえた。
成幸は顔をあげて周囲を見渡したが誰もいなかった。
戻橋自体そこまで大きい橋ではない。
大人が横四人、縦に三人ほど並べば埋まってしまうくらいの短い橋である。
誰かとすれ違えばそれだけで目に入る。
「まさか」
そう思って橋の欄干に寄り、下に顔を覗かせてみると朱い髪をした鬼の少女がいた。
太陽の下では、その姿があらわになった。
死体を思わせるほど血の気の無い、蝋燭のような白い肌。白に朱の紋様が入った着物は元々、腿までしか丈がないのか。
遠慮なく両足ごと川に入れていた。
昨晩見た長靴下は脱いでいた。
水深もそこまで深くは無い。
膝の少し上くらいが浸かる程度の川である。
さきほどから鬼姫は橋の柱を何やらゴシゴシと磨いていた。
「あぁ。そうか」
思い出した。
昨日、確か、橋を磨くという話をしていたのだ。
行動が早いな。というか日に照らされているせいでやはり彼女の頭部には角が無く、どう見ても人間にしか見えなかった。
本当に鬼なのか?
清明が言っていたのに成幸には既に半信半疑になり、まじまじと見つめることにした。
顔は絶世とは言わないまでも美人の部類だろう。
美人、よりも可憐という方がまだ近いかもしれない。整った目鼻立ちは小さな顔に綺麗に纏まっており、四肢は細かった。
というか、体格を見回すも全体的に乏しかった。
清明の屋敷では橋姫や清明の裸を見た成幸は言い表す言葉を脳内でぐるぐると捜した結果、余分な脂肪がない、という表現を搾り出した。
「あ、ちょっと、たわし。動かないでよ」
手に持った束子の妖怪は、束子から手足が出ているだけの妖怪なのだが、苦しそうにもがいているも鬼姫の握力が勝っているのか抜け出せずに柱に擦られていた。力の限りに擦っている。
そんな磨き方だった。
「ここを綺麗に磨いて京を驚きの坩堝に叩き落してやるわ…くくく、きっとこの前の比ではないわね。京は大混乱。そして、私の知名度はぐんぐん上がってゆくゆくは最強の鬼になってやるのよ。んでもって、清明をギッタンギッタンにしてやるわ。はーはっはっは」
鬼姫は腰に手をやって、かぶりをふって高らかに笑っていた。
にしても独り言がでかいなぁ。。。
「おい、お前」
「んあ? 人間? 何よ」
キョロキョロと周囲を見渡した後、橋の上を見上げる。
鬼の少女は睨みつけるように大きな声を発した。
「お前は、一体何をしているんだ?」
「見て分からないの? 磨いているのよ」
「そうか、偉いな」
「偉い? 怖いでしょーが。さっさと怖がりなさい。さもないともっと磨くわよ」
言いながら、鬼姫は束子を成幸に向けて言った
「あぁ、じゃあ是非そうしてくれー。残りの柱もよろしく頼む」
成幸は立ち去ろうとして、橋の欄干から手を離した。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
「どうしたー。」
「怖くないの? 橋を磨いているのよ」
ほら、と言って橋をゴシゴシと磨き、束子の妖怪を押しつぶさんばかりに擦りつける。
「あぁ、だから、偉いなって」
「………え?」
「ん?」
「………」
「どうした」
鬼姫は束子で宙を磨きながら問う。
「怖く、ないの?」
「全然」
成幸は即答する。
「あ、そうなんだ…。へぇ…、じゃあ…これって。これって」
「騙されたな、お前。清明に」
一瞬、空気が冷たくなったように感じた。
「なーんーーーだーとーーーーー」
鬼姫は、川から跳ぶと裸足のまま橋の上に着地する。
成幸と相対するような形である。
「清明はどこよ」
「さぁ、あいつはどこかに行ってしまったぞ」
「嘘を言いなさい。前に会った時あいつは日中ずっと屋敷にいるって言っていたわ。清明の屋敷はどこ」
凄みの効いた目でこちらを見眇める。
「あ、あっちだ」
思わず気配に気圧されて正直に屋敷のある場所を教えてしまった。
自分が今来た道の奥、小路から見て、右側に門を構えた屋敷。
「あっち? 近いの?」
「屋敷は、あれだ」
成幸はゆっくりと後ずさると指で清明の屋敷を指した。
「へぇ、古いけどけっこうでかいじゃない。今から、襲撃するわよ。ものどもー!」
その声に、草むらや戻橋の隙間や、欄干を掃除していた妖怪たちがぞろぞろと出現した。
見る見る、戻橋を埋め尽くしていく。
「私に続け!!」
駆け出す鬼姫は、成幸の脇を抜けて清明の屋敷を目掛けていった。
そして、門に飛び蹴りを繰り出した、その瞬間。
「ぎゃあああああああああ」
バチバチと、電撃を食らったような音とともに鬼姫が悲鳴を上げた。
「ど、どうした」
「これ、結界じゃない! あいつ…私用にこんな罠を仕掛けているなんて…。ふん、中々やるじゃない」
ボロボロになった様子でよろよろと起き上がる。
鬼姫は憤慨を隠せなかったようだ。
顔は苦渋に満ちており、今の結界の強さを伺い知ることができた。
やはり、清明が言っていたのは本当だったようだ。
「いや、それはずっと前からしていたらしいぞ。恐らく、お前用というわけではない…」
「ぬわんですってぇ…」
そう言えば結界と言えば、封印術と結界術の権威である香澄の存在である。
もしかして、あの結界を作ったのは香澄ということになるのだろうか。意外と言っては失礼だろうが、すごい存在なのだろう。
「あ、あの女狐はどこなのよ…」
「さ、さぁ…。」
女狐というのは清明のことか。
確かに、ぴったりの表現である。息をするように人を誑かして、人を管と煙に巻くのが生きがいみたいな人物である。成幸は清明のことを考えているとつい今朝のことを思い出していた。
確か、物部邸に行くと言っていたな。
「どこよ!?」
「い、いくら脅しても言わないぞ」
「いいわよ、『呪』を使うから。ねぇ、こっち見て」
不意にそう言われて、首に腕を回された。
急なことで驚いた。
鬼姫という少女の顔が真正面にあるのだ。
吐息がかかる距離に思わず動悸が激しくなる。鼻頭が擦り合う。少しでも顔を前に出せば口と口が触れてしまうような距離である。成幸はここから見える鬼姫の顔を無遠慮ながらに見つめてしまった。線で書いたような眉毛に長い睫毛、朱色の瞳。雪のような白さを思わせる肌にわずかに上気した頬、開いた薄い唇からは艶かしくも舌なめずりをされていた。
成幸は瞳に捕食されるような気分になった。
目を逸らせねば、脳裏では警鐘が鳴っている。
でも、体がそれを拒否しているような、意識と意思が乖離していくような感覚に満たされていた。しかし、いつまでもこうしていたいと思わせるような瞳に、沼のようにずぶずぶと飲み込まれていく。
「ねぇ。清明はどこ?」
脳内で、艶やかな少女の声が響く。甘ったるい言葉に脳がとろけるような、このままずっと酔いしれたいような気になりながらも精一杯に耐えようとするも、むしろその葛藤ですら心地良く感じた。
「…物部邸、だ。」
搾り出した声を聞いて鬼姫は少し笑った。
「そう、そこへ案内しなさい」
鬼姫は首から腕を外すと数歩下がってから前方を向いた。すると身体がまるでからくり人形にでもなったように、他には何の選択肢もない。与えられた行動を遵守するような足取りで道を歩き出した。
方角は、凶の方向、西。
物部邸がある方だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます