安倍晴明という女
堀川という比較的小さな川に架けられた戻橋を渡ってから数分―。
その屋敷は見えた。
「頼もう」
成幸が清明の屋敷に着いた頃には、辺りは既に夕闇が迫っていた。
空には宵いの明星がうっすらと光り、欠けた月が浮かんでいる。
すれ違う人の足はどこか忙しなく、足早にかけていくような、、、どの顔にも何かに怯えるような憂慮した色が窺えた。
「頼もう…って、誰もいないのか?」
彼女、安部清明の屋敷は率直に言って広かった。
葉脈のようにツタが這っている塀に囲われた中は窺い知ることはできないが、不気味であった。
貴族たちが住まう寝殿造りではないにしろ陰陽師というのは皆こんな屋敷に住んでいるのだろうか。。。
居候している為雅の屋敷よりも幾許か大きいように思える。
こんなに大きい屋敷なら中で働いている使用人の数もそれなりにいるだろうと予想していたが、しかし、果たして声を上げるのは何度目だろうか。いい加減、誰か出てきてもよさそうなものなのに、一向に誰一人出てこないというのはどう考えてもおかしかった。
例え、主が留守でも屋敷で働く者はいるはずである。
「た、の、も、うー。」
門を叩いてみようかとも思ったが、為雅から聞かされていた話を思い出す。
陰陽師の邸宅の門には結界が施されているらしい。
「やめておこう…呪われたりしたら大変だ」
そもそも陰陽寮に勤めていたが陰陽師が何をするのかまでは理解していない。
自分が普段しているのは祭祀の際に用いる道具の管理である。
見かけた陰陽師も地相を掌握する技官が多く、結界などという物騒な言葉とは無縁に思えた。
「たのもうー。」
だが、為雅の言葉を信用することにする。
それに、女のこととなると為雅の信憑性は信頼がおけるのだ。
なので、素直に声を上げることにする。
そして、ついにその努力が成就するときがきた。
「はて…その声は、鹿島為雅様ではございませんね…。」
背後から声がかかり振り返ると新しそうな市目笠を被った橙色の壷装束を着た女性がそこに立っていた。
それまでは使用人が出てくれば文句の一つでも言ってやろうかと思っていたのだが、笠で顔は見えないがおそらく美しいであろう雰囲気が十二分に伝わるような、物腰の柔らかい口調に成幸は毒気をそがれてしまった。
声が美しい人の顔が綺麗でないわけがないのだ。
「お、俺、いや私は源成幸と申します。鹿島為雅殿より転属の命を授かり、今日より天文博士であられる安部清明殿の書簡係に任命されました。つきましてはその挨拶と封書を預かってまいりました。清明殿にお目通りをお願いしたいのですが」
「まぁ、とても優しい雰囲気を纏っていらっしゃる青年でございますね。物腰の柔らかさといい、為雅様とは大違い」
女性は、微笑みながらそう言って市目笠を取りその相貌を現した。
「初めまして、私、橋姫と申します」
恭しく礼をする橋姫に成幸も遅れて礼をする。
宮中で見た清明は聡明そうな気品があったが、目の前の女性はお淑やかな雰囲気で親しみやすい雰囲気をしていた。年は自分と同じくらいか少し上だろうか。
「女性に年齢のことを悟らせるのは良くありませんよ、女性はいつだって若く見られたいものですから」
「え、俺…、声に出していました?」
「成幸様は嘘が下手ですねぇ」
橋姫は気さくに笑みを浮かべた。
成幸はそれが丁度良い具合に、当たり前のように感じた。
「…嘘は、得意ではありませんから」
「それは良いことです。嘘は付かずにおければそれが一番ですから。でもすぐに顔に出るのもどうかと思いますけれど」
橋姫という女性は裾で口元を押さえ笑顔を浮かべていた。
見事に誑かされた。
「それはそうとなるほど本日は成幸様が来られる巡りでしたか。得心いたしました」
…ん?
成幸は、橋姫が何やら一人で納得している様子に、違和感があった。
「何を得心したのです?」
「いえ、つい先程、市場が閉まる前、急に主が魚を2匹買って来いと言うものですから。私、急いで買いに行った次第でございました。」
見れば、その腕の中には、笊に上げられた鯵が二匹いた。
「そうだったのですか…では清明殿は中におられるのですね」
先ほどの門から出てきた人に文句の一つでも言ってやるという思いがここに来て沸々と沸いてきた。橋姫には申し訳ないが清明には一度文句を言っておいてやらなければならない。
「はい、そうですね。先客がおられますが魚は二匹で良いということは時期に帰られるのでしょう」
「え、と…清明殿は屋敷にいるんですよね?」
成幸は橋姫の的を射ない言葉に面を食らいながら、確認する。
「はい。もう何日も屋敷から出ていません」
「…いえ、それはおかしい。今朝、宮廷内で見かけましたよ」
またしても面を食らってしまう。
大丈夫か、この人。
「え、あ、そういう勘違いをされましたか。これは鈍い成幸様に説明が不足した私の落ち度なんですかね…」
ぶつぶつと独り言を言う橋姫。
「ん? どうかしたんですか」
「いえいえ、主は成幸様を待っていますよ。さぁ、どうぞお上がりになってください」
橋姫は少々ぶっきらぼうな言い方をする。
見た目よりも幼く子どものような人だと思った。
そういって橋姫が触れると、門に五芒星の光が浮かびあがり、門の奥で閂が開いた音がした。
樫の木で造られた門はやはり術式で閉じられていたようだ。
「では、どうぞ。主が首を長くしてお待ちです」
橋姫は白魚のような指で軽く門を押すとまるで最初から重さがなかったように、両開きに門が開いた。
「では、お邪魔します…」
成幸は橋姫に続いて門を潜ると門はひとりでに閉まった。
面妖な。
そう思いながらも橋姫の案内に続いた。
「んなっ!?」
成幸はその邸内の在り様に驚いた。
生い茂った草木は伸び放題で、蔦が柱に絡まっていたりした。庭の手入れがされていないのがよく分かる。見上げれば瓦も所々、外れており雨漏りしている跡があった。
「ここは廃屋か?」
そう言わずにはいられなかった。天文博士である安部清明は公家である。公家であるにも関わらず、こんな廃屋に住んでいるのか。
そんなことを考えていると
「廃屋ではございませんよ、失礼ですね。これでも一応、掃除は毎日しているんですよ。ただここの草木は伸びるがとても早くて…」
「これは失言でした。それで、先客というのは…」
「先客の方は、清明様に術の指南をしていただいている方です」
「清明殿よりも長けた術者がいるのか?」
「失言その二ですよ。この京で清明様に肩を並べる者はいませんよ」
「だって、今…」
「先方の方は、結界術と封印術の開祖の娘であり権威である香澄様であらせられます」
橋姫は、丁寧に説明してくれるも気になったのは別のところだった。
「清明殿は結界術が苦手なのか?」
「そうではありません。清明様は封印術と結界術を使用する側なのです。創作はまた別の方が行っているだけの話です」
「陰陽術とは、自分で練り上げる物だと聞いたけど、違うようだな」
「はい。陰陽の術は使う人によって多少仕組みは変わりますが、概ねは同じのようですから」
「では、橋姫さんも陰陽術に詳しいのですか?」
「いえ、私はからっきし。むしろ、鬼だの妖怪だのは好みません」
「好みませんって」
…この屋敷にいる限り、好む好まざるではやっていけないだろうに。
そう考えながらも成幸は、颯爽と廊下を歩いていく橋姫の後を追った。その途中、廊下を歩いているとヤモリが廊下の壁にへばりついていた。
「!?」
成幸は戦慄したように身を強張らせた。
爬虫類というのはどうにも苦手だ。まずあの目が気に入らない。蛙だって背中の紋様が気持ち悪い。
そう思っているとヤモリと目が合った。
「うわっ!」
成幸は咄嗟に身を仰け反らせた際に後ろの裾を踏んでしまい、床に尻餅を着いた。
「どうかなさいましたか?」
その声に、橋姫は驚くことなく振り返るとそっと手を差し伸べてくる。
手を掴んで起き上がれというのだろうか。その細い手にしがみ付けば橋姫ごと倒れてしまい兼ねない。
「いえ、結構。自分で立てます」
なけなしのプライドというものが邪魔をして、むざむざ女性の手に触れる機会を逃してしまったと後悔を抱きながら、成幸は一人で立ち上がると小首を傾げる橋姫を見つめた。
「橋姫さん。何か聞こえませんでしたか?」
「いえ、何も?」
だとすれば、ヤモリからだろうか。
『いらっしゃい。成幸』
確かにそう聞こえたのだ。
「おや。橋姫殿。今帰ったのですか。ご苦労さまです」
ヤモリのこともあって、見つめ合っている矢先、廊下の先から声がかかった。
凛として堂々とした少女の声だった。
「香澄様。もうお帰りですか?」
「はい、清明殿のお陰で最近は休む間もないよ。これから帰ってまた封印術の研究をせねばならないようだ」
橋姫よりも小柄な少女は小脇に抱えた古紙の束に視線をやり、肩を竦めて続けた。
「やはり清明殿の着眼点には毎度敬服するよ。完璧に思えた結界の隅を上手く突いてくるとは…いや、そういう言い方はよくないな。先代が練り上げた結界もこんな落とし穴があると気付かせてもらったというべきか。おや? 橋姫。そちらの御仁は?」
何やら考え込んでいた様子だった片眼鏡の少女は、顔を上げると成幸に視線を投げた。
年端もいかない外見とは裏腹に堂々とした雰囲気に成幸は居住まいを正した。
「こちらの方は、この度、清明様の書簡係りを任ぜられた源成幸様でございます」
橋姫が流々と紹介をすると、
「そして、こちらは先ほど説明した通り、清明様に結界術と封印術のご指南をしてくださっている香澄様です。他にも、結界術にも秀でておられますから言わば陰陽師界の守護、防衛の重鎮ですね」
「いや、私は重鎮というほどでは…。私の家が代々結界術と封印術を専門に研究してきたというだけですよ。半年前に先代の宿根が死に、朝廷より家名を取り上げられそうになっていたところを清明殿に拾ってもらったわけですから」
橋姫の説明に、照れながら香澄は言い直す。
「こほん。書簡係りということは、鹿島為雅殿は見事解雇されたわけだな」
わざとらしい咳払いをした後、香澄はおかしな表現をした。
見事、解雇?
「はい、無事に解雇です」
橋姫は間髪入れずに、それに肯定する。
「ちょっと待ってください。為雅殿は解雇されたわけではありません。叔父はこの書簡係りの役を俺に譲ってくれたのです」
仮にも、自分の叔父である為雅が解雇されたなどという醜聞はあまり触れ回ってほしくない。あれでも、自分の叔父なのだ。
「押し付けた、の間違いでは?」
そう言うと香澄と名乗る少女は慇懃無礼に肩を揺らした。
どうやら、ここを訪れた為雅の本心を知っているのだろう。
「ぐっ…」
今、思い返せば清明に出会えないことを知り、自分に機会を与えるという名目の元、損な役回りを自分に押し付けただけという言葉のほうが正しく思えてならない。決して、譲るというような自分の主張よりも他者の主張を尊重するような面影はどこにもなかった。
「…だが、まぁ、それがいい。こういう世界に常人は長く務まるものではないよ。成幸殿も無理をせず辛くなれば遠慮せずに言うといい。叔父君のことを悪く言うつもりはなかったんだ。気に障ったなら謝る」
そう言うと、香澄は深々と頭を垂れた。
「いや、そんな…、怒っているわけではなくて…」
言い返す言葉もないほどに、ぐぅの音も出ないほどに正確な物言いだっただけに怒る気にもなれなかった。
実際、為雅は下心の化身なのだ。
「本当に済まなかった。私は、どうにも知らずに人の神経を逆撫でしてしまうらしい。この年になるまで周囲は敵が多かったから、つい反感を買って相手のボロを突くという手段が身についてしまっていてな…時に成幸殿はいくつになられるのだ?」
「俺は16ですが」
「そうか。ずいぶんと幼いのだな」
平然とした顔で、香澄は言う。
「私は、数えで16になる」
「え、ということは今、15歳?」
15歳でこの貫禄か…。背丈は15歳という割には小さいな。背丈だけで見ても小さかった。他にも薄い青色の水干姿なので体躯を見ることはできないが全体的に幼い雰囲気だった。
「そうだ。大人だろう?」
胸を張りながら香澄は廊下でふんぞり返った。
「…そうですね」
「そう思ってくれるか?」
香澄は、ぱぁっと明るい顔をして身を乗り出す。
「えぇ、まぁ…」
一つ下というだけなので、そこまで幼くはないだろう。外見は12歳ほどのあどけなさしかないが。
「そうかそうか。うむうむ。為雅殿は私を童女扱いしたからな。もしかして、自分は人より幼いのかと思ってしまったが勘違いだったようだな。気に入った。もし清明様の書簡係りを辞めた暁には私のところに来るがいい。な? 成幸殿」
香澄は、年不相応のあどけない笑みを浮かべながら言う。
「まだ封書係りとしては始まってもないんですけど」
「仲がよろしいのは結構ですけど香澄様。当初の威厳ある態度はどこへいかれました?」
「はっ! そうだった。つい嬉しくて、こ、こほん。では、橋姫殿。成幸殿。またな」
「えぇ…。では、また」
小走りで成幸の脇を駆け抜ける香澄を視線で追いかけながら後ろを向くといつの間にか香澄はいなくなっていた。
「あれ…?」
長い直線の廊下なので、香澄は絶対にいると思ったのに。
「橋姫さん」
「私のことは橋姫と呼び捨てで構いませんよ。それで、何でしょう?」
「この屋敷はあれか? 物の怪でも出るのか? それとも神隠しでも起こるのか?」
「物の怪? いえ、私はここにお仕えしていますけど物の怪は見たことがありません。そもそも、私、物の怪というのはどうにも苦手で…」
橋姫は、物の怪という単語を耳にするとおどおどしながら周囲を見渡している。探しているのだろうか? だとしたら、足元にいるヤモリにも是非注目していただきたい。
「あ、ヤモリがこんなところに」
見つけてしまった。人語を喋るヤモリを見つけてしまった。
「あらあら、いけませんよ。ここに来ては」
そう言いながら、橋姫はヤモリを素手で掴むと庭が見える廊下まで小走りで行き、庭の草木に置いた。
「すみません。ヤモリがいたもので、あれ? 成幸様?」
戻ってくる橋姫に成幸は、若干、距離を開けていた。
「い、いえ…何でもありません。橋姫さんはヤモリ平気ですか?」
「大丈夫です…。この屋敷ではよく見かけますから」
こ、この人、物の怪が怖いとか言いつつ、鈍感なだけなんじゃ…。
「成幸様は、爬虫類が苦手なようですね」
「…はい。子どもの頃、蛙が飛び跳ねてきて以来、どうにもあの者たちが捕食しようとしているように見えて仕方ないのです」
「はぁ…。捕食ですか。誰にでも怖い物はありますからどうぞお気になさらないでください。それに今後の参考にもさせていただけるので私にとっては大歓迎ですよ」
「はい?」
思いも寄らず、聞き捨てならないことを言われたような…。
「成幸様、主はこの時間は縁側でお酒を呑んでいらっしゃるか、釣殿で鯉でも眺めていらっしゃいますよ。私は、この魚を調理して参りますのでどうかそれまで主と談笑でもしていてください」
そう言うと橋姫は、颯爽と台所へ歩き去ってしまう。
「…談笑、ね」
そう言われると緊張してしまう。
朝廷内で見かけた彼女はそれはもう美しくて、周囲の男の視線を釘付けにするという話に嘘偽りがないほどだったのだ。そんな人物の屋敷にこうやって入ることができて、少しばかり舞い上がっている自分がいる。
…できたらいいな。
…そうなったらいいな。
「いかんいかん。俺は、ここに書状を届けに来たのだ」
頭をブンブンと振って、邪念を払い正気になる。
当初の目的を確認するように、歩いていると廊下の奥、釣殿のところに座る後姿が一つ。烏帽子を頭に乗せ、白い狩衣姿の人物が胡坐をかいて座っているのが見えた。傍には愛飲しているであろう瓶子と猪口が置いてあった。
きっと橋姫が言う通り酒を肴にして釣殿から鯉でも見ているのだろう。
「清明殿。私は、この度、鹿島為雅殿より書簡係りの任を引き継ぎました源成幸と言います。この書状を是非、ご一読なさいますようお頼み申し上げます」
背中越しに声をかける。成幸はここに来る途中、練習をしながら来たので上手くいったのを内心で拳を固める思いだった。
しかし、
「……………。」
返事はなかった。見向きもせずに、池を見ていた。
「あの…清明殿?」
「………。」
「もしもし?」
「……。」
「え、と…」
待つこと数秒ほど。
「……………………」
無視。
無視である。これは無視といって他ならない。
これには成幸も怒った。
「おい、あんた、いくら美人だろうが失礼だろう。こっちを向いたらどうなんだ」
成幸は立ち上がると清明の肩を掴んだ。
「!?」
その瞬間、手の感触はまるで霞にでも触れたような抵抗感の無さに掴んだ本人が驚いた。
さらには擬音語でいうところのポロンというやつである。
清明の肩から上、首の部分が根こそぎ落ちた。
それにつられて長い黒髪が暖簾のように揺れながらも続く。
戦慄した成幸は身を固めて動けずにいた。
「清明…どの?」
思わず床に転がる顔を見る。期せずしてこちらを向いていた顔の部分には、『模』という紙が貼ってあった。
「……は?」
「はーはっはっは。騙されたな。源成幸!」
ひどく豪快な笑い声と共に、足音が響いてきた。
振り返ると、廊下の奥のほう距離にして十メートルほどの距離にあたるだろう。
その向こうから全身が青磁でできているような、雪を思わせる肌をした女が歩いてくる。
そして、というか、全裸であった。
歩き度に揺れるほど大きくふくよかな乳房、くびれのある腰、程よく肉付いた下半身からすらりと伸びた足。均整の取れた艶かしい肢体である。
成幸は初めて見る女人の裸に固まってしまった。
清明は一糸纏わぬ姿をして肩で風を切りながら歩いてくる。
「いけません! 清明様、裸じゃないですか!」
その後ろから橋姫が素っ頓狂な声を上げて、急いで手に持っていた風呂敷で主の胸部と下腹部を隠す。
「ん? どうした橋姫、そんな誰が見ても分かるようなことを言って。私はこの通り裸だが? まぁ、私の服は源成幸がああしてしっかりと握っているわけだからな。肝心の服が無いのだ、服が。無論、私は裸を見られた程度では何も恥ずかしいことはないぞ。むしろ今日は肌の調子が良い! とても良い! このまま小躍りでもしてもおかしくないほどだ!」
廊下の先から話しているにも関わらず、声がよく響いてくる。
「そんなことを言ってないで早く服を着てください! 自分の屋敷内だからといって全裸で歩き回るなんて破廉恥です。というか見られています」
「気にするな! 男といってもまだ子どもじゃないか。子どもの前で肌を晒そうと何も臆することはない。むしろ、ここは年長者として堂々と接するべきとは思わないか?」
「思いません。成幸様はれっきとした青年であらせられます。少々、爬虫類が苦手なところが子どもといえば子どもでしょうが。あれでも、立派な文官ですよ」
…あぁ、けっこうズバズバ言われてるなぁ。
あれでも、とか橋姫さんそういう風に思っていたんですね…。
「成幸様も出歯亀のように見てはいけません。主の身体はそこまで安くはありませんよ!」
「し、失礼しました」
成幸はすぐさま池の方を向き直る。
そういえば、思わずとはいえ女性の身体を見るのは初めてであった。
「ん? 安くはないかもしれないが決して高くもないぞ? この身体は…」
「言い訳は結構です!」
橋姫は主を風呂敷で包むと大またで歩いてきて手に持っていた服を取り上げて、再び清明のところに駆けていった。
「さぁ、早くお召しになってください。成幸様がお待ちですから!」
「ん、あぁ、でもな? こうやって取り繕っても後でボロが出て苦労も元の木阿弥になるんだぞ?」
「そんなことを言うのは、まずは取り繕う苦労をしてからおっしゃってください。それに成幸様も先ほどのことは水に流して、あの回りくどい言い回しを自己紹介から始めてくださいます」
やめて、橋姫さん。ヤメテ…。
「はっはっはっは! あんな堅苦しい挨拶なんぞ。ここ数年聞いたことがないな。あいつはあれか? 生きた化石なのか?」
「さぁ、しかし、生きた堅物とは思われます。さぁ、早く胸を隠してください」
ヤメテ…。もうヤメテください。成幸は脳裏にある安部清明という女性のイメージが音を立てて壊れていくのを感じた。
「ええと…。この度は、安部清明殿の書簡係に任命されました、源成幸です。以後、よろしくお願いします…」
数刻後、成幸はしきり直すように、先ほどの挨拶をしだした。
幾分、棒読みなのは疲労が物語っていた。
「おいおい、どうした。あからさまに落ち込んでないか…?」
縁側で酒を飲んでいる清明に隣で正座していた橋姫が耳打ちする。
「清明様、成幸様は落胆されているのですよ。世間では天文博士と呼ばれて敬われている清明様がよもやこのような体たらくという現状を目の当たりにして」
「落胆? 私の裸にか? どこだ。どこが気に入らないというのだ。おっぱいか?」
清明は、徐に自分の狩衣に手をかけると脱ごうとする。成幸は、思わずその谷間に見入ったが橋姫に睨まれると思ったので、視線を池に置いた。
「清明様、おやめください。落胆しているのはいつ何時、周りが隙を見せるとすぐに露出しようとするところです」
「なに? 自分の屋敷では服を脱いではいけないとでもいうのか? どうにもこの服は好かん。というか橋姫。酒が足りないぞ。成幸の就任というめでたい日ではないか。ケチケチするな」
清明は、不貞腐れるように文句を飛ばした。
「いけません。酔えば、また脱ぐでしょう。今日はそれで終わりです」
「ちぇ、いいもん。後で勝手に飲むもん」
そう言って、橋姫は清明の前に出されていた盆を下げて台所に消えていく。
「…まるで、主従が逆ですね」
その様子にあっけをとられて見ていた成幸は精一杯取り繕うようにして口を開いた。
「ん? あぁ、そうだろう。橋姫は私の式神の中でもちょっと特殊だからな。ある程度の自由を認めているんだ」
「っ!? …橋姫さんが式神。人間じゃないのですか?」
橋姫が人間じゃない、自分で言っておいて信じられなかった。屋敷の前で会ってから間もないが今まで会ってきた女性の中でも、誰よりも女性らしく人間らしかった。
「あぁ、そうだ。橋姫は式神だよ」
「式神…ですか」
式神。陰陽師は全員が全員、それを用いて悪鬼羅刹の百鬼夜行と戦うという。その第一線で活躍するのが安部清明である。
成幸はそんな清明の不思議さに興味を持った。
「あぁ、そうだ。成幸は式神を知っているのか?」
「いえ…。俺には全く」
「せっかく、来たのだから軽く教えてやろう」
そう言うと、清明は音もなく立ち上がると庭に出た。
「何をしている。お前も早くついて来い」
「あ、はい」
成幸も続いて庭から出て、清明が見下ろす池まで来るとそこには鯉がいた。
「何がいる?」
「鯉…ですね」
「違うな。『式』だ」
「この鯉が『式』ですか?」
成幸は訳も分からずに鯉を見る。白と朱のまだら模様の鯉だった。まるで世界には自分一人であるように悠々として泳いでいる。時々、口をパクパクと開けては水中に浮かんでいる藻を吸い込んでは吐き出していた。
「お前には、こいつが鯉に見えるか?」
「はい…。鯉が見えます」
「鯉のほかには何が見える?」
「鯉の他には…?」
成幸は鯉のいる池を見入る。池には、鯉が一匹いるだけで他には水中に浮かぶ藻があるだけで、全体的に水が汚れている…。
成幸には何が何だか分からなかった。
目を凝らしてみる。
「いえ、やはり何も見えません」
成幸が軽く首を振って捜すのを諦めた。
ここには何がいるのだろう。
やはりこの女性は安部清明で、京の都で一番の陰陽師なのだろう。
ここには何かいるらしい。
「そうか。まぁ、そうやって探そうと思っても無駄だということだ」
「はい?」
「ははは、まぁ、そういうものだよ」
「?」
成幸にはもう何が何だか分からなかった。
清明は笑いながら、縁側に戻っていく。縁側には橋姫がお茶を淹れて待っていた。
「あの、清明様? さっきよりも成幸様が不機嫌なのですけれど、何かあったのですか?」
「こいつをからかうのは面白いな。よし、気に入った。封書係りに任命してやる。書状があるのだろう。よこせ。」
「…俺はもう辞退したくらいです。この書状を預かって参りました。どうぞ」
何が何やら分からない様子に、成幸は頭を抱えた。
「くっくっく、まぁ、お前がヤモリに声をかけられて腰を抜かしたのは黙っていてやるよ」
言いながら清明は成幸が持っていた書状を解いた。
「どうしてそれを」
知っているのか。成幸は、そういおうとして、ヤモリが式神であることに気が付いた。
「さっきのヤモリは式神だったのか」
「はぁ? そんなわけあるか。バカ」
ぺしっ、という音とともに読もうとしていた書状を投げつけられた。
どうやら違ったらしい。
「私の高尚な式神をあのような『枝』と一緒にするな」
「『枝』?」
投げつけられた額を擦りながら、成幸は呟いた。
また謎の単語の到来である。
「『枝』とは文字通りだ。まぁ視界の枝だがな。私の枝になっている者なら全ての目が私にも見える。だから、お前が廊下で橋姫の安産型のデカ尻に見蕩れていたのも知っている」
「はぁ!?」
「成幸様、最低です…」
橋姫の目は、とても冷ややかにこちらを見抜いていた。手でそっとお尻を隠しているあたり、とても奥ゆかしい人らしい。
「橋姫さん。事実無根ですから!」
必死に弁明するも疑いの眼差しが一向に晴れることは無い。視界の隅で清明がニタついているのが見える。
「清明殿、からかうのも大概にしてくれ。さっぱり意味が分からないぞ」
「ははは、硬い頭が少しは柔らかくなったか?」
「いや、全然…。」
かえって混乱を招いているようにしか見えない。
「そうか、まぁ、魚でも食って行くといい。お前が来ると知って市場に買いに行かせたんだ」
そう言うと、橋姫が調理した焼き魚を持ってきた。
いい焼き加減で、とても美味しそうだった。
「はぁ…。そういえば、俺がここに来るというのは枝というので知っていたのか? だとすれば、枝は未来が見えるのか」
「ははは、頭が柔らかくなってきたじゃないか。だが、枝じゃそこまでは分からないさ。枝にできるのは精々周辺の監視くらいだ。未来なんて誰にも読めないよ」
「じゃあ、どうやって…」
「そんなに急ぎ足で聞くな。がっつく男は嫌われるぞ。それに“ながら”で命を食うんじゃない」
清明は視線で成幸の前に誘導する。
それにつられて視線を落とす先には橋姫が調理され開かれた鯵が皿の上に乗っていた。
どうやら、まずは食べろということだった。
「む…。鯵が美味い」
上手に箸を使い鯵を身を摘み、口に運ぶ。塩が軽く振られており程よく焼かれていた。どうやら橋姫は料理が上手なようだった。
「味が美味い? お前、しょうもないこと言うなぁ」
清明は骨になった鯵を指で摘むとボリボリと食べながら成幸に箸を向けた。
とても失礼というか行儀が悪かった。
「違う! そんな笑えない冗談を言うものか」
「ほう、なら成幸は笑える冗談を言えるのか?」
清明は注がれた酒で口の中を一掃するように飲み干すと、酒の入った瓶子を持つと徐に立ち上がり縁側に出た。客人をもてなすという気持ちはあるにせよ、気遣いは無いようで成幸は急いでご飯をかきこんだ。
「ふむ、悪いな。急がせたようで」
「いえ、ご馳走様でした。それよりもそろそろこれを受けとって欲しいのですが」
成幸は懐からさきほど読みかけた封書を取り出すと清明に差し出した。
「読んでくれー。」
清明は成幸に目もくれずに言う。どうやら縦のものを横にもしない性格の持ち主のようで成幸はこれまた面食らったような顔をする。
「では、こほん」
そう言って封書を開ける。
一枚の白い書状が入っていた。
“昨晩、小路に出現した百鬼夜行を討伐せよ”
要約するまでもなく、短く、そう書いてあった。
「…清明殿。百鬼夜行の討伐と書いてあります」
言い終えて、書状を封書の中に綺麗に畳み、縁側に座る清明の隣に置く。
「ん~。いやだ。断る」
「なんだと」
「断ると言ったんだ。まずはなんでもかんでも討伐すればいいって発想が気に入らん。どうせ昨晩の蛙の件だろう」
「知っているのか?」
清明は何も答えず酒を口に含んでいた。大方、先ほど言った『枝』というやつで知っているのだろうか。
「どうしてだ…蛙とはいえ事件でしょ」
成幸には理解ができなかった。よもや式部省からの書状を断るという選択をする者がいるとは露にも思っていなかったのだ。
「あの事件で人が死んだか?」
「死んではいない。でも、次は死ぬかもしれない。誰かが死ぬ前にどうにか手を打った方が良いと思うのは妥当だろう」
「自分たちが生きるためには周りを犠牲にしてもいいと?」
「そ、そうだ。仕方あるまい…。人間はそうやって生きている」
「人間は、か。はぁ…、橋姫。成幸はお帰りのようだぞ。門まで送ってやれ」
清明は聞くに堪えんとでもいいたげな胡乱な雰囲気で立ち上がり、台所の方に向けて叫んだ。その声に呼応するようにすぐさま台所から足音が響いてくる。
「おい。話はまだ終わってないぞ」
抗議する成幸は奥の部屋に歩き去ろうとする清明の肩を掴もうとしたが、寸前で橋姫が成幸を引きずるようにして玄関付近に連れて行った。
「はいはい、成幸様。あぁ、なってしまってはテコでも動きませんからね。今日は諦めてお帰りになってくださいな。また明日いらしてください。機嫌は私が直しておきますから」
「橋姫さん。そうは言うけど式部省の命令ですよ。それに清明は何故あそこまで頑固なのですか」
「さぁ…清明様は独特の思想をお持ちですから」
橋姫は苦笑しながら呟くと思いついたのか
「頑固と言えば、まぁ屋敷から出たがらないというのがありますね…」
そう告げた。
「屋敷から出たがらない? そうだ、今日、廷内で清明を見たんだ。それなのに、あいつは屋敷から出ていないって言うし、何がなんだかまったくわかりません。」
「それは簡単な話ですよ。『模』を使ったのです」
「『模』ですか…」
また式神か…、成幸はこめかみに頭痛を感じてきた。
「そうです。あれのお陰で清明様は屋敷におられていても外出しているように振舞えるのです」
成幸は先ほど、清明の全裸を見る前の釣殿にいた清明の服を着た『模』を思い出した。あれがあれば中にいながらも外に出ているという。
「新手の引きこもりか…。どうして」
橋姫はそそくさと近付いて密かに耳打ちをすると、人差し指を唇に当てた。
その仕草の意味を知っている。
静かに、という意味だ。
微かに頷くと橋姫は、耳元で囁いた。
耳元を生暖かい風が頬に触れる。そして、そっと指を庭の一部分に向けた。見れば、そこには白くて小さい花がついていた。
あれは…。
廷内の資料にあったのを思い出す。白い花びらがまるで耳ウサギに見えることからウサギゴケという名前がついていた。
耳、まさか。
「清明様は今、力を失っていますからこのくらい静かに話せば大丈夫でしょう。ああ見えて今日はとてもお疲れなのです」
思ったとおりである。
自分の『枝』が付いた者の視界から覗き見る能力があるのなら、耳があれば盗み聞くこともできるのだろう。まさか、耳の形をしていれば良いとは思わなかった。
「そんな素振りはまったく…」
「それはそうです。お客人に気を使わせるのは失礼ですから」
「失礼って…他にもたくさんあるだろ」
全裸のことは別にしても失礼な振る舞いを挙げれば指折り数えても足りないだろう。
「清明様のことが知りたければ今宵、屋敷の門を見ていてください」
言い終わると、橋姫は身を離して、くねくねと身をくねらせながら
「あら、やだ。成幸様ったら後ろから抱きつくなんて誰かが見ていたらどうするんですか、もう。むっつりスケベですねぇ」
わざとらしく庭のウサギゴケの方を向いて大声で話した。
あぁ、そういうことか。
「いやぁ、抱きしめたい背中というのもあるものですねぇ。あははははは」
「いやですねぇ、今度やれば清明様にお願いして島流しにしてもらいますからね?」
「…何故、そこだけ現実味を帯びるんですか」
本気かと思った。まさか、本気なのだろうか?
見つめるも、ニコニコと笑顔を浮かべているので本心が読めない。
「あぁー、こほん。成幸。そこで何をしているんだー? もしかして、橋姫に後ろから抱きつき胸倉でも弄っていたということはないだろうな? その慎ましやかな胸は私のものだぞ」
「せ、清明殿っ。いつの間に」
いつの間にか、玄関の廊下の曲がり角に立っていた。
酒を飲んだからか顔がとても赤かった。狩衣もどこか着崩している…。既に豊満な胸の谷間が全開だった。
「清明様? 私の乳は誰のものでもありません。いい加減なことを言っているとお酒減らしますよ?」
「あー、橋姫が二人に見えるぞぉ。いつから『模』を使えるようになったんだー?」
「使えませんよ。知っているでしょう。鬼や妖怪だって見たこともないのに」
「ヤモリには気付いてなかったんですか?」
橋姫の言葉に成幸が口を挟んだ。
「あのヤモリが清明様の『枝』であることは知っています。成幸様を驚かすためにわざと黙っていたんですよ」
「えぇ、苦手って…」
「苦手ですよ? 妖怪とか恐ろしいじゃないですか」
「式神だって似たようなもの…。」
自分だって人間じゃないのに、とは言わないでおく。
「似ていません! 清明様の式神なら我慢できます。それに全然怖い気配が無いんですよ。よく見てください、あのヤモリ」
「いやですよ! 気持ち悪い!」
「橋姫ー。おかわりどこだー?」
言いながら、清明は狩衣を脱ぎ始める。脱ぐ速度はもはや脱皮に近かった。
気が付けば、すでに半裸である。
「清明様、酔えば脱ぐくせやめてください。ほら、成幸様、もうお帰りください」
「え、あ、はい…では、また」
今夜。
成幸は門を潜りながら脳裏に焼け付く清明の肌色を思い返していた。
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