2. 咲苗
警察署で見る母の顔は異様にやつれて見えた。思えば真正面から見るのも久しぶりだ。眼窩がすっかり落ち窪んで、一瞬目を逸らしたくなってしまった。
「どうもご迷惑をおかけしました」
母は僕よりもはるかに深く腰を曲げていた。先程僕に説教を垂れていた警官は、真面目な顔を少しやわらげて、母を宥めていた。
「お子さんはまだ若いのですから、多少威勢がいいのは仕方ありません。しかしそれを見過ごすほど社会は甘くありません。いずれにしてもご家庭でよく話し合われてください」
「はい。申し訳ございません」
やりとりを聞いている間、警官が何人も玄関口から出入りした。僕らを一瞬見る人と全く見ない人とで半々だった。その一瞥には熱さえも感じられない。確認の素早さに感心していると、母が僕の頭を小突いた。
「あんたも下げなさい」
もう何度も下げている。解放してくれないこの警官が悪い。そんな文句はもちろん言えない。頭を下げる。俯いたまま、母に連れられて外に出た。
父は母のことを「
警察署の駐車場から母の車に乗って、夜道を走った。距離はそれほど無いはずなのだけど、時間がとても間延びして感じられた。カーラジオからは気の早い夏の曲が流れてくる。しっとりとしたバラードが、耳を素通りしていった。
「来るのが遅くなっちゃってごめんね。室長がなかなか解放してくれなくて」
バックミラーから母の瞳がこちらを見ていた。警官のそれとは違う。食い入るような、それでいて睨んだらすぐに避けられてしまいそうな視線だった。
「仕事していて良かったのに」
「そうもいかないわよ。警察からの連絡、職場の人に取り継がれちゃったんだから。あーあ、明日出勤したら根掘り葉掘り聞かれるんだろうな」
学生時代に文筆系のアルバイトをしていた母は、離婚してから当時の知り合いに連絡を取り、県内都心部に居を構える小さな出版社に雇われた。タウン誌やフリーペーパーの作成、地域振興のためのウェブページの運営が主な業務だと聞いている。母は、編集はもちろん、そのための取材にも駆り出される。業務は多忙のはずだ。泊まり込みも何度もある。短くない通勤距離は母にとって苦痛のはずだけれど、僕と冴良が学校に通っているからと、頑に引っ越そうとしなかった。
「章汰は何も気になくていいんだよ。困っている人を助けようとしたんだから。良いことをして、ちょっとやりすぎちゃっただけなんだから」
「誰も困ってなかったよ」
思わず言ってしまったけれど、返事はなかった。否定も肯定もない。衝突することも、離婚してからは特に一切なかった。
「ごめん」
怒ってこない相手に謝るのは、虚しかった。どうせ返ってくる言葉はわかり切っている。
「いいんだよ」
母は結局、それ以外のことを言わない。
「今考えていること、当ててあげようか」
リリィは僕の横に座っていた。オレンジのコートの裾から、学生服が見えている。夕里の通った進学校の、ブレザーの冬服だった。
「リリィ、今までどこにいたの」
身を乗り出そうとしたところで、シッ、とリリィに制止された。
「喋らなくていいよ。変に思われちゃうでしょ」
母の後頭部を見やったリリィに、僕は渋々頷いた。
「君はいつものように赤空の世界で化け物を切った。今まではうまく隠すことができていたんだけど、今日は上手くいかなかった。それはどうしてか、だよね」
リリィが首を傾げて問い掛けてくる。髪が不均一にしな垂れて、彼女の輪郭をぼやかした。
「君が本気になったからだよ。君は本気で、あの暴れていた男を力で持って止められると信じたんだ。君は立ち向かったんだ。それは、成長と言っていいと思う」
車が速度を落としていく。見慣れた街並みが外に見える。僕らのいるマンションの駐車場に、静かに入っていく。
「ほら、帰ろう」
停めた車の外に出て、母が僕に言う。中学生の頃から変わらない声音を母は保ち続けている。
「章汰?」
母に声を掛けられても、僕はすぐには動かなかった。
リリィはすでに車内からいなくなっていた。どこへ行っているのかわからないが、リリィは一度見えなくなると、もう次の日の朝まで見つからない。
成長だと、リリィは言っていた。だけどそれを伝えてくれたときの顔は、ひどく寂しいもののように思えた。
「忘れ物?」
母に問われて、首を横に振った。
「ごめん、今いく」
庫内に僕らの足音が響き渡る。外気温はじわじわと高まっていたけれど、この駐車場は冷えていた。天井から降り注ぐ青みがかったライトが無機質な車体を点々と照らしていた。
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