8.思い出巡り

 雨の日の放課後は静けさに満ちていた。

 普段聞こえる部活動の声も、体育館から聞こえるバレー部の掛け声以外には耳に残らない。校庭にクモの巣状に水が流れていくのを見ながら花壇の脇を歩いた。留岡たちの告げ口で、先日防虫剤を撒かれていたツバキには、もう毒虫はいないだろうし、いても今日溺れて死ぬのだろう。

「最近はあまり殺さないんだね」

 言ってから、リリィは欠伸をした。その身体は生垣に重なっていた。

「もう飽きちゃった?」

 ツバキの合間からリリィが寄ってくる。花は風に揺らいだかのように揺れた。

「最初から楽しんでない」

「素直じゃないね」

 僕の額にリリィの手のひらが触れた。ふわりと前髪が動く。リリィの瞳は少しブラウンが掛かっている。夕里の瞳だ。僕が見つめようとして、結局できなかったあの眼だ。

「赤くなってる」

 頬をささやかに小突かれて、しばらくしてから意味に気づいた。否定するには遅すぎた。

「今日は平和に街を歩こうか」

 そういって、リリィが僕の横に並ぶ。

「見せてよ。普段の君。そうしたらボクも、もっとうまく夕里さんになれるかもしれない」

「いいよ、そんな気遣い」

「そんなんじゃない。興味関心。ほら、散歩しよう。好きでしょう?」

 せっつかれて歩き出す。水たまりの波紋は、薄くなったかと思うと、思い出したように密度を増した。灰色の空は信用するに値しなかった。

 薄暗さは、街の色を変えた。通り過ぎる車のタイヤは激しく水たまりを裂いていく。ホームセンターの広い駐車場が見えて来ると、人通りが増えてくる。無機質な街灯が雨水に散乱し、綾を描いていた。

 足は学校の最寄り駅へ向かっていた。自転車に乗っていないのは。雨の日だからというのもある。合羽で頑張るくらいなら、多少の出費はやむを得ないと考える同級生は多かった。しかし僕は、たとえ雨が降らなくても、最近は週に何度かは駅へ向かっている。近くの図書館に向かうためだと家族には家族には言い訳をしていた。

 チューリップ、ヒマワリ、あるいはタンポポ。名前もはっきり覚えていないその商店街は、厚い雲の下でも活気があった。時刻は五時になろうとしている。家事に急ぐ人々は、晴れていても雨模様でも変わらず忙しそうで、時折笑い合っていた。

 こんな景色の中でも、僕は触手をみることができた。人々の上に立ち昇るそれらが強烈な印象を与えてくれたのも最初のうちだけだ。

「何人も斬ったけど、減ったりはしないんだね」

 できることをやる、その言葉のとおり、僕は何度も街を歩いて、赤空の下で化け物を殺し続けていた。

「そう、物理的に殺さない限り」

 夕里は僕の身体を小突いた。柔らかな春の風のような感触だった。

 リリィの姿は雨になす術もなく穿うがたれている。髪は濡れないどころかいくつも小さな波紋を浮かべている。じっと見ていると目が痛くなる。いつぞやの和傘は持たないのかと聞きたくなるけれど、コートの肩にも同じように波紋が浮かんでいるのを見ると、傘さえも最初から無力なのだろう。

「行きたいところがあるんだ」

 僕から提案した。

「へえ、珍しい」

 リリィは嬉しそうに僕の後をついてきた。


 駅前から少しそれた、寂れた百貨店。若い人の姿よりも、お年を召した夫婦が多いそこは、僕が高校生になってから、夕里と何度か訪れたことのある場所だった。

 五階建ての百貨店の、四階には書店と楽器店がメインに据えられている。当時の僕は本を読まなかったから、書店に向かう夕里をいつも見送っていた。少しでも関心を持っていたら、思い出せる事は今よりもっと多かったかもしれない。思い出にならなかった書店を手ぶらで歩いて通り抜ける。本の背表紙が目の前を滑っていく。手を伸ばして、躊躇ためらって、また次の本に手を伸ばす。それを何度か繰り返した。

「お金ないの?」

「そういうわけじゃない」

「立ち読みならタダでできるよ」

「知ってるよ。というかだから、違うって」

「ということは、埋もれてしまった大事な小説を探している」

 リリィが戯けた調子で言う。問いかけではないと思ったから、放っておいた。

「しかし本当の物語は、こんなところにはあるわけないのだ」

 ステップを踏んで夕里が僕の前に出て、つま先を支えに振り向いた。

「夕里さんってこんな人だった?」

「全然」

「違うのかあ、残念」

 言葉とは裏腹に、リリィは楽しげに微笑んで、しばらくターンの練習をしていた。

 僕らは本を見ることなく、一階まで降りて、フードコートの二人用席で休んだ。夕ご飯には少し早いせいか、フードコートはかなり空いていた。

「懐かしい?」

 隣に座ったリリィが尋ねた。

「ここは思い出の場所なんでしょう?」

「うん」

「楽しそうには見えないけどね」

 詰め寄ってくるその顔から、僕は目を逸らしたかった。しかしリリィの視線は常に感じられた。実体はないはずなのに、存在感は人一倍強い。

「無理に楽しくなろうとなんてしないよ。ただ……僕と夕里は学年も違ったし、学校も違うようになったから、夕里とはいつも文字でやりとりしていたんだ。それなのに彼女がすぐそばにいてくれて、僕に時間を割いてくれるのは、それだけで嬉しかったんだ」

 自分の過去の感覚を言葉でもって表現のはとてももどかしかった。うまく言えているか、正しいのか、どうしても気になってしまう。

「本当に、嬉しいだけ?」

 リリィが歯を見せた。八重歯がある。夕里にそれがあったかどうかはさすがに覚えていなかった。

「夕里はそんな顔しない」

 一蹴すると、リリィは珍しく不満げな呻き声を上げた。

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