7.樋浦先生

「思い出しているの?」

 柔らかい声がして、アイルは薄く開いた。

 氷の中を通ったような、青く光が部屋に満ちていた。目を凝らすと内装に焦点が合う。物はあまり多くない。無骨な鉄筋の天井に、青味を帯びた丸電球が垂れている。壁紙はまだ

新しい。壁沿いに背の高さほどのスチールの本棚がひとつある。アイルはそのうちに収容された本の多くをすでに読んでいた。この部屋に来るたびに一冊は手に取り、その日のうちに読み切るのが趣味になっていた。

 腕に絡んでいた掌が離れ、髪をいてくれた。爪が少し立てられていて、髪を割いていく。

「わかりますか」

 寝起きのせいか、異様に弱い声になってしまった。ベッドは年代もので、マットレスのところどころに穴が空いているけれど、寝心地は意外に良いものだった。

 普段の声はアイルのコンプレックスだった。腹に力が籠もらないのだ。まるでネズミが助けを求めているようで、それが嫌でたまらなかった。そんな声に釣られてくる人がまともな人である試しがなかった。

 その声に応えてくれるのは、夕里だけで十分だった。彼女だけをアイルは許していた。

「君が泣くのは、夕里のためだけだから」

 夕里という言葉は優しかった。それは私の髪にあてがわれた掌のそれとは違った。慰めるための手触りとは別の、親しみのこもった接し方を感じさせた。

 アイルは夕里の全ては知らなかった。彼女がいなくなってしまってからも、悲しみよりも渇望の方が強く残っていた。

「夕里にとてもよく似た人を見かけたんです」

 一息に言い終えると、アイルはため息をついた。しばらくの間、静寂があった。

「それは嬉しくなるだろうね。俺もまた会いたいな」

 ベッドが傾ぐ。立ち上がった男性は、カーテンへを開いた。窓の外には曇り空が見えた。雲の下に何もない。鳥さえもとんでいない。あの雲の上からしたら、私たちは不定形の不気味なあれらに覆い隠されていることになる。

「会って話がしてみたい。死ぬってどんな気持ちなんだろうね」

 彼は私を向き直った。

 カーテンの逆光から離れた彼は、波打つ重たい前髪を掻き上げ、あめ色の髪留めで止めた。

「いつでも笑っているんですね」

 言ってしまってからシーツをたぐりよせ、口元を隠した。失言に捉えられることを恐れた。

「張りついているからね」

 彼は口の端に指を当てて、引っ張り上げた。口は弧となり、裂けるように広がる。歯が見えて、触手のような舌がうごめいた。赤黒いそれの奥からまた笑い声がした。

「学校でもそうだったんですか?」

 怖がりながら尋ねてみてしまう。返事はなかった。見ての通りというように、男は鼻で笑った。

「先生」

 樋浦ひうらというのがその男の苗字だった。在籍していた学校名で調べれば、インターネット上を飛び交う情報がすぐに見つかる。そのうちのひとつが、アイルと彼を引き合わせてくれたのだった。

「もしも、夕里がまだ生きていたらどうしますか?」

 ようやく顔を強張らせた樋浦を見て、アイルはシーツの下で声を立てずに笑った。

 

 

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