6.つぐみ

 しまつぐみの家はとても静かだった。父親が音に敏感で、母親はそれをよく理解した上で契りを結んだ。その馴れ初めを聞かされる前から、つぐみは音のない空間に放り出されており、それが普通だと思いこまされていた。

 テレビがない代わりに、新聞は三冊届けられてくる。毎朝父親が全てに目を通し、何枚かスマートフォンで撮影して、会社へと向かう。新聞紙は母親が回収していた。つぐみが大きくなると、一冊あてがわれるようになったので、つぐみにも新聞を読む習慣がついた。ニュースの太字の大きさと、同級生たちの話題はあまり噛み合わなかった。テレビ番組欄にある名前に目を通しておくと、ある程度は話題についていけているフリができた。

 普通の生活にテレビと音楽があることは、人伝に聞いて理解した。普通の家の生活を想像するだけでも、つぐみには十分楽しかった。

 隣の家からギターの音が聞こえてきたのは、つぐみが中学生のときだった。突然始まったその習慣は、夜中でも鳴らされていて、父親が苛立ちを募らせていったのをよく覚えていた。一度直々に、父親が乗り込んでいったことがあった。日曜日の朝の穏やかな時間は、興奮した様子のやつれた青年に引っ掻かれている父親を警官が助ける騒ぎになった。

 青年の家族は一度つぐみの家に謝りにきた。つぐみの父親は言葉を聞くだけで返事をしなかった。それで彼らの交流は終わった。青年の家族が引っ越してしまったからだ。

 しばらくしてつぐみは、青年が鳴らしていたものと同じ曲を学校の教室で聞いた。イントロがテストの時間に鳴り響いて、監督員の先生が怒鳴って犯人探しを始めたのだ。顔を真っ赤にして白状した同級生の女の子は目深な髪の奥で涙を湛えながら嗚咽を漏らしていた。傷心の彼女を気遣うフリをして、つぐみは音楽のことを尋ねた。造作もないことだった。その子は目の色を変えて音楽を教えてくれた。嬉しそうな顔をしたその人の名前さえもつぐみは憶えていない。

 つぐみはすぐに、イヤホンを調達して、家の中で音楽を聴いた。イヤホンの設定を頑に守り、ずっと隠れていれば問題なかったのかもしれない。しかし、つぐみのメロディへの欲求は次第に抑え切れなくなった。部屋の中でささやかに口ずさんでいたのが、日を重ねるごとにその声量を増し、つぐみはカラオケや河川敷でも喉を震わせるようになった。 

 つぐみが歌うようになったのを、両親は苦い顔をして見ていた。父親を苦しめるつもりはなかったので、つぐみも気を遣って音楽を嗜んでいた。それでも、特に父親からはいい顔をされなかった。食事中の鼻歌を指摘されて、つぐみは歌とは違うとがった声色で、苛立ちと罵倒を投げ返した。

 以来、つぐみは父親とは話していない。父親をかばう母親とは、新聞に載っていたニュースや、本に載っていた言葉でもって接するようになった。つぐみ自身の内側で考えた言葉は、すべて自作の曲の歌詞に注ぎ込んでいった。

 高校二年生のとき、つぐみは同級生にライブに誘われた。聴くのではなく、歌う側だ。機材を揃えてやる気満々だった友達は、熱心にライブに脚を運んでいた大学生と身を寄せ合って歩くようになった。一揃そろいのマイクとアンプはつぐみに託され、つぐみは一人でライブを続けた。人通りの多い駅前ではあったけれど、反応はほとんどなかった。

 歌うことは好きだった。しかし、楽しければいいという純粋な感情は、人前に出てしばらくすると変質していた。歌う以上は、聴かれたかった。注目されたかった。そんな我欲がつぐみの中に湧いてきていた。

 学校が終われば、日暮れに急き立てられながら駅を乗り継ぐ。定位置になった駅前広場の片隅で機材をセットする。準備には次第に慣れていった。声量も増し、メロディの捉え方も身につけていった。それでも、まばらな観客には満足できなくなっていった。

 焦りは声色に乗り、膨らんで叫びとなった。一際激しさを増した、高校三年の冬の夕暮れに、鉄道警備員から呼び止められた。ようやく集められた関心は、クレームに形を変えてつぐみの歌を拒んだ。

 両親への連絡を必死に拒んで、したくもない約束事を紙に書かされて、詰所から開放されたのは夜の八時を回っていた。折りたたまれたマイクは鞄にしまわれ、アンプはただの重い手提げ荷物になっていた。

 暗くなった駅前の道を人々は次々と歩き過ぎていった。その速度が、歌っているときとさほど変わらないと気づいた。

 つぐみの名は鳥のそれに由来していた。他の鳥が鳴く頃に、声を発さないことがその語源だ。その名を与えられたつぐみは、音に焦がれていた。自分に足りないものを埋め合わせるように、音を求めてさまよって、ついに行く手を阻まれた。荷物を持つ手は今にも緩みそうになっていた。

「今日は歌わないの?」

 不意に声をかけられて、つぐみはふりむいた。オレンジ色のコートを羽織ったその人は、つぐみも見覚えがあった。度々自分の歌に足を止めてくれていた人だった。

「いつもありがとうございます。その、注意を受けちゃって、そろそろ終わりにしようかなって思っていたんです」

「もったいない」

 間髪いれずにその人は言った。

「どうせしばらくしたら駅員さんも気にしなくなるよ。ダメだったらもうちょっと広いところに行けばいいし、とにかく、歌ってほしいんだよね」

 つぐみの年齢が近いことは、見た目からの推測だったと、後に少女はつぐみに語った。つぐみは笑ってその肩を叩いた。そんなことができる関係になるまで、一ヶ月もかからなかった。 

「待ってるからね、アイルちゃん」

 歌い手として、足元のブラックボードに書いていた名前を少女は言った。彼女の名前は夕里と言った。一年後にいなくなってしまう彼女は、つぐみにとって、決して忘れられない人だった。 

 

 

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