5.チャドクガ

 一週間ぶりの登校だった。

 飾られていた百合はベランダに移動していた。代わりに机には絵が描かれていた。布団を被って眠る僕の頭に天使の輪がついていた。おやすみなさいとシャーペンで吹き出しが書かれていて、永遠にと枠外に小さく添えられていた。何とも言えない。最初のうちは口頭で注意していた担任の先生も、新学期が始まって二ヶ月が経とうとしている今となっては気にしないと決め込んでいるらしい。

 椅子を引いて席に着く。離れた位置から留岡が何かを言って、津久井と宇田が笑っていた。それもいつもどおりだ。

 担任の先生が入ってくる。まだ若い、といっても三十代の、七三分けにスーツ姿のその教師は、いない人の机だけを見て出席簿に書き込んでいった。僕の机は二度見して、スルーする。筧くんが無事復帰しました、おめでとう、なんて言葉はかけられない。受験前なので妙なことをしないようにと、僕を盗み見しながら言い、足早に去っていった。

 一時間目の授業が始まる前に、クラスの雰囲気が弛緩する。教材を出していると、椅子の脚を蹴られた。振り向いてもすでに誰も待っていなかったけれど、留岡たちの背中はすぐそばにあった。僕が目を向けることに気づいて、津久井が留岡に報告して、彼らなりに楽しそうにしていた。

 僕がやり返しても意味がないことは重々承知している。力もなく加害者になることは率先して弱者になることと同義だった。声を出さなければいい。それが一番、何もなくて良い。

 その今までの価値観が、揺らいでいた。

 目の前には触手が浮いていた。留岡、津久井、宇田。漏れなく三人、まとめて僕にその先端を向けている。ミミズのような顔のない触手は、襞ひとつない肌膚をしていた。

 

 机の落書きを休み時間になるたびに少しずつ消して、消し終わったときには昼休みになっていた。持ち寄ったお弁当を食べる人と、学食へ行く人が半々だ。仲の良い人たちは机を寄せ合って独自の班を組み、そうでない人が方々に散る。

 学食の購買で買ったサンドイッチを持って、学内を放浪する。そうたくさん選択肢があるわけじゃない。空き教室に人がいると気まずいし、特別教室は使用禁止。図書室での食事は司書が拒む。便所飯は趣味に合わない。しかたなく外に出る。敷地外には出られない。

 僕は花壇脇のベンチに腰掛けた。サンドイッチは二切れ。どちらも唐揚げとレタスを無理やり重ね合わせたものだった。

 フェンスの遥か向こうに駅前の街並みが見える。規模は小さくとも、このあたりでは随一の繁華街だ。一棟だけ背伸びしたタワーマンションが唯一のランドマークだった。

 小学校まで暮らしていた地域とは少し離れている。その前の地域にしても、僕は特に愛着はない。頑張れば自転車でも県の中心部へたどり着ける。中学生の頃は、そうやって中心の駅まで向かい、先に地元を離れていた夕里と落ち合うことをしていた。彼女もまた、地元には愛着がないようだった。

「また思い出しているな」

 リリィに声を掛けられて、サンドイッチが喉に詰まる。

「なんでわかる」

「わかりやすすぎるからだよ」

「わかってるなら邪魔するなよ」

「そう? ボクがいた方がいいと思うけどな」

 妙な言い方に引っかかっていると、人の気配を感じた。振り返った途端にサンドイッチを摘まれた。例によって留岡だった。

「妄想は終わったのか?」

 野太い留岡の声に、津久井と宇田が連なって笑う。

「返せ」

 低い声で言い返すと、留岡は目を見開いた。

「驚いた。妄想相手にしか話せなくなったのかと思ったよ」

 また笑い出そうとするのが癪に触って、サンドイッチに手を伸ばした。留岡の手に触れると、予想以上に留岡が飛び退いた。ビビったのだろう。慣性を帯びてしまったサンドイッチが宙で散った。

「不可抗力だ」

 でかい図体と態度に似合わず、言い訳が素早い。

 肩を落として席を立ち、地面におちたサンドイッチをつまむと、津久井が吹き出した。「こいつ食べる気かよ」と言いかけている途中で、僕の放った切れ端が彼の顔に張りついた。半開きになった口の中で舌が揺れて、間の抜けた悲鳴を上げていた。

 留岡と宇田が僕に怒声を浴びせる。吠え声とともに、背中の触手が首をもたげてきた。

 血が上っているのか、触手はピンクに染まり始める。突端が黒ずんで、刃へと形を変えた。

「てめえ」

 低い言葉にエコーがかかる。歪曲して、僕の耳へと届く。

 僕はリリィへと目を向けた。

「化け物になる理由、僕なりの解釈を言っていい?」

 リリィの返事を待たずに、僕は顎で彼らを指した。

「例えばこいつらは、とても自分と同じとは思えない。だから化け物に見える。なるんじゃなくて、見える。どんな人でも少なからず、僕にとっては化け物で、とりわけ敵意がある奴は触手を僕に向けてくる。そういうことなのかな」

「ボクにはわからないって言っただろ」

 そう言いながら、リリィは頷いた。

「君が納得するなら、それでいいんだよ」

「それは、わかりやすいね」

 留岡が僕につかみかかろうとする。伸びてくる手の赤が横溢している。

 気づけば世界が赤くなっている。僕は深く息を吸い、触手を避けて、留岡だったものを視界に収めた。

「ダガーは?」

「もう渡したよ」

「本当だ、ありがとう」

 柄が手に馴染む。鈍色に光が差す。この世界の太陽は黒ずんで見える。銃痕のようだ。空気に漂う赤みはやはり血なのかもしれない。

 僕は留岡の触手を切断した。悲鳴が聞こえた。あまりにも醜いその響きに、笑ってしまう。

 津久井と宇田も肉塊になって、僕に敵意を向けてくる。それらの触手は愚鈍で、耐えがたいほど臭かった。切り落とすと血が噴き出す。臭いはますますキツくなる。うごめくよりは横たわっていた方がいい。モノはモノらしくしていればいい。

 ダガーは何度もそれらを切った。切ればそこから生えてきたけれど、次第にその再生も鈍くなってきた。飽きてきたらダガーをしまって、それらの皮膚を蹴り続けた。繰り返し踏みつけているうちに、抵抗すらしなくなった。せっかくヒトよりもずっと多い眼球を携えているのに、それらの瞳は色を失い、虚な穴と変わらなくなっていた。恐れはとっくに失せていた。


 空は青くなっていた。赤が失われていく間に、何の痛みもない。ナマコのように横たわっていたたくさんの触手は見えなくなった。飛び散っていた血痕も、乾いたアスファルトには残らなかった。もちろんダガーもすでにない。

「うわ、刺された!」

 留岡が叫んで、三人が保健室と慌てて逃げていった。彼らは五体満足で、僕の方には一度も目を向けてこなかった。

 彼らのそばにあったツバキの生垣はところどころ黒ずんでいた。うごめいている。チャドクガの幼虫だった。毒虫だ。それらは寄り集まって、艶のあるツバキの葉を侵食していた。

「気持ち悪」

 呟くと、傍らでリリィがケラケラと笑った。

「すっきりした?」

「あんまり」

 足元に転がっていた石を生垣に放る。枝葉の折れる小気味良い音がした。残骸を見る気にはなれなかった。校舎に戻る途中で午後の授業の予鈴を聞いた。

 

 

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