4.殺さない理由
「おはよう」
あいさつに、小さく悲鳴を上げた。自転車のタイヤがよくない揺れ方をして、笑われた。リリィが現れていた。
「登校中?」
「そうだよ」
「へえ、元気だね」
僕の横にリリィはいた。並走しているけれど、身体は全く動いていない。浮きながら平行移動している。
マンションの駐輪場から自転車に乗り、駅前の混雑を横目に県道沿いを走っていく。川に架かる橋を渡れば高い建物はなくなって、林と畑が目立つようになる。自転車で十五分もあれば隣市に入り、僕が通う高校へと到着する。
畑には緑があるけれど、僕から見れば荒野としか思えない。それなのにリリィはあたりを興味深げに見つめていた。
「質問していい?」
走りながらリリィに問いかけた。周りの目を憚って小声になったけれど、リリィは問題なく顔を向けてくれた。
「リリィはどうして僕のところに来たの」
「教えない」
リリィを睨んでいるうちに、自転車は石に引っかかってバランスを崩しそうになった。
「なんでだよ」
「知らないからだよ」
「記憶がないってこと?」
「そもそも記憶って何だと思う?」
リリィが楽しげに質問を返してくる。
「過去の出来事?」
「その主観の集合体」
僕の答えにリリィの補足が追い被さってきた。
「一ヶ月前の出来事でいいから、友達に聞いてみるといいよ。どうなると思う? みんな微妙に、違うんだよ。人によって見ている景色は違う。何に着目するかもバラバラ。それは同じではありえない。記憶は過去の似姿でしかない。いかに正直な人であろうとも、一度獲得した記憶には尾鰭つく。あるいは不足を歪めて埋めてしまう。それが真実の過去であるとその人が納得できるように」
「つまり、どういうこと」
交差点の向こうにある隣市の標識が目に入る。住宅街の入り口だった。信号が変わるのを待つ。
「ボクは普通の生き物とは違う。作られたんだよ。誰のせいだか知らないけど。君の前に現れるまでボクの主観はなかった。現れた理由はボクの中にはない。強いて言えば創造主にあるんだと思うけど、少なくともボクは知らない。これでわかった?」
「漠然とだけど。でも、創造主の目的もわからないのに、僕はどうしたらいいんだろう」
「どうって、すでにやってるじゃない」
青信号に切り替わり、車が流れ始める。ペダルを漕いで白線を踏み越え、隣市に入った。街並みも植生も、何も変わらない。境界などというものは地図の上にしか見られない。
「君はあの赤空の世界に行って、化け物を退治できる。できることをやっていればいいんだよ。それとも、もう戦うのは怖い?」
「そんなことはない」
思わず大きな声になって、横断歩道を徒歩で渡っていた学生がこちらを振り向いた。視線は無視した。もう学校にかなり近づいていた。
「僕はともかく、ヒトが化け物になるのに理由はあるのかな」
冴良の背に何も見えなかったことを思い出しながら質問した。
「それこそ、君自身で見つけないとダメ」
「本当は知ってるんじゃないの?」
「知らないよ。本当に」
どうにも怪しい。しかしいくらそれを伝えたところで受け流されるのがオチだろう。
住宅街の中に野球部用のフェンスと開けた校庭が見えてくる。五階建ての校舎は白い壁だけど、遠目からは鼠色がかって見えた。
「仮に目の前で、知っている人が化け物になったとして、君は殺せる?」
僕の質問の意図は、リリィにはやはりお見通しだったらしい。
前に家の中で、僕らが話しているところを冴良に見られたことがあった。どう言い繕おうか迷っているうちに、冴良は僕を見て、「気色悪」と呟いた。冴良も夕里のことは知っているのに、リリィの姿は全くみえていなかった。
「殺せない。殺す理由がないもの」
通学路には少しずつ学生がふえてくる。自転車でかき分けるのが難しくなり、足がとまる。呼吸を整えていく。僕は順応しなければならない。この息苦しさは、いつまでたっても消えはしない。
「見えているんでしょ」
リリィが言う。言わんとするところはわかる。
学生服の背中から、触手は天へ向けて伸びている。長さは人によってバラバラだった。肩甲骨の幅を出ない程度の人もいれば、体長と同じくらい高くそびえる人もいる。あの日からそうだった。見えない人の方が少ないし、それは今のところ家族だけだった。
「本当に、なんでなんだろうね」
リリィは鈴のように笑っていた。
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