3.背中

 雲雀の鳴き声が夢にミシンのような跡をつけていく。刻まれたそれらから、夢はピリピリと裂けていった。

 それは僕の中学生時代の記憶を元にしていた。時間の流れは飛び飛びだった。夕里は登場したが、その顔つきは昨年の冬のときと変わらなかった。それはつまり、リリィと同じだった。

「お兄ちゃ、あ」

 ドアが突然開かれる。案の定冴良だった。その顔は一瞬真顔になり、それから一気に喜色ばんだ。

「ご飯だよ」

「うん」

 朝方の空気を吸う。肺は何事もなく膨らんでくれた。多少気怠いけれど、吐き気はない。とても珍しいことだった。

 朝起きたら、僕はまず心臓を確かめる。普段よりも鼓動のペースが速かったり、胸郭への圧力が強かったりしたら、学校はサボる。落ち着いてきたら散歩に出かけることにしていた。

 今は学生だからまだいいけれど、社会に出たらこの休み方は許されないのだろう。そうなったときに僕は真っ当に働けるのか。不安はあるけれど、気にしたってしかたがない。今現在の僕に降りかかってくる吐き気を無視することはできない。

 僕の学校での評価は大したものではないはずだ。僕のことをただのサボり癖がついた禄でもない生徒と見做している教師も大勢いるだろう。規範に沿えない人間を正す。それが彼らの仕事だ。社会を軽視するような人間を学校から輩出すれば、社会は危険に晒される。もっともそれ以前に彼ら自身の評判が落ちる。だから、いつか僕もこの気怠さを質されるときがくるのだろう。

 しかし、おそらく昔の方が、もっと苛烈だった。僕みたいな一般人より遥かに深く拗れた思想家が、本気で社会をひっくり返そうとして、何度も誅殺されてきた。あるいは自分から命を絶った。

 今は世間が誰にでも優しくあろうとしている。優しくない人を除け者にしている矛盾はひとまず置いておいて、世界に順応できない人でさえも根刮ぎ支えようとする。それは受容ではない。逸脱した人を真っ当な人間の形へ矯正しようとする。見込みがなければ逸脱に蓋をする。殺すことは許されていないから、尖りを削いで型にはめる。そうやって世間は、安定しているかのように自らを偽装する。

 夕里はその偽装世界の中で、僕に手を差し伸べてくれた。型から溢れた僕に浮力を与えてくれていた。そのとき夕里が何を考えていたのかを僕は知らない。気にはなっていたけれど、知りたくはなかった。僕は夕里の背中さえ見えていればそれで十分だった。


「食べないの?」

 冴良に言われて、僕は我に返った。

 僕は冴良の手を見ていた。その手は箸を動かし、焼鮭の肉を裂いていた。人に食べられるために切られたその身が、さらに細かく切り分けられていく。僕らはそれを当たり前に殺している。つい、見つめてしまった。

「冷めちゃうよ」

「ああ、うん。ごめん」

 僕用の黒い箸を持つ。鮭を切りながら、思い起こす。

 僕はこの前何人殺したのだろう。重い感触はあったけれど、それはたぶん、今鮭を切り裂いているのと本質的に同じだった。食事するのと同じように、ヒトの化け物を殺す。それを僕はいくらでもすることができる。

「どうしたの、さっきから」

 また動きが止まっていた僕を冴良が睨んできた。

「まだ寝ぼけてるんでしょ? 私、もう行くから。自分で片付けといてね」

 椅子から降りて自室へ向かう冴良の背中をつい、見てしまった。触手は見えなかった。化け物ではない。それだけで深いため息が漏れて、廊下から冴良がしかめ面を向けていた。

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