2.唇

 ドウダンツツジが散って、深い緑に変わった。しなびたアジサイの残骸が、生垣に溜まりつつあった。

 六月下旬の、梅雨の切れ間。僕は湿り気を帯びた地面を頬に感じていた。

 放課後に、上級生たちがやってきて、僕を体育館裏へと運んだ。半ばどころか九割五分の強制だった。彼らがなぜ現れたのか僕にはわからなかったけれど、五分で何発拳を当てられるかの賭け事をしているみたいだったから、同級生の誰かが足のついたサンドバッグのように僕のことを紹介したのかもしれない。何をしても喚かない。抵抗しない。告げ口しない。よくあることだった。

 上級生たちは喧嘩慣れしているようで、僕の顔や手足には一切手をつけなかった。詰襟の制服に隠れる腹と尻ばかりが痛んだ。彼らが満足顔で去っていくのを横目で見た。彼らの姿が滲んでも、身体は起きようとしなかった。

 気の早いセミの鋸を引くような声が聞こえた。弱々しい胸の鼓動がそれらに負けていた。土の上でアリが並んで歩いて、破片になったセミのはねを運んでいた。

 そのアリの隊列が、大きく乱れて散っていく。振動が耳に届いた。飴色のローファーが蟻を散らして、僕のすぐ横に立ち止まった。

「今日は一段とひどいやられ方だね」

 膝丈の黒いソックスが曲げられて、その人の顔が見えた。すぐにはピンと来なかった。やがて少しずつ、その人が、夕里だと気がついた。かつて僕と同じ地域で暮らしていた、年上の女子だった。

「いつも見てたんですか」

「時々。いつもやられっぱなしなの?」

 質問されて、言い返せなかった。唇を噛んで身体を起こそうとして、痛みに肘が悲鳴をあげた。そのとき夕里が手のひらを差し出してくれた。

「ありがとうございます」

 疑いもなく、その手に縋ろうとしてしまった。その途端、身体が強張った。ヘビが獲物を捕らえるように、その人は僕の手首をつかんでいた。

「ちゃんと答えなさいよ」

 夕里は、僕のかつて、僕の家の近所で暮らしていた。小学校の登下校で見かけることもあったけれど、性別も年齢も違うので、話すことはほとんどなかった。

 景色の中に埋れていた彼女がどのような人なのか、僕は何も知らなかった。そのことがむしろ反動となって、強烈に夕里の瞳の輝きを印象づけた。あれだけ嫌いだった瞳というものから、僕は目が離せなくなっていた。

「いくらでも聞いてあげるから」

 夕里の唇は艶やかな赤い色をしていた。それらが象った音は僕の耳に届いて、内側から痺れさせた。


 それからことあるごとに、夕里に全てを話すようになった。僕は夕里に逆らえなかったし、事実夕里と落ち合うたびに、胸の内側が落ちつくようになった。夕里は僕の話す言葉を全て受け入れてくれた。決して否定はしなかった。僕の心を塞いでいるものを溶かし、その両手で優しく空隙を埋めてくれた。

 そうして僕は夕里から離れられなくなっていった。

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