9.リリィ

 あの日、駅前広場では、通り魔による無差別刺傷事件が起きた。犯人は逃げおおせて未だ捜索中だ。

 死者はゼロ。重傷者は一人。それでも致命傷は免れている。僕はその他大勢の、軽傷者で済んだ。その中にはライブでギターをかき鳴らしていた青年も含まれていた。

「だから、私が免れたのは幸運だった」

 いかなる傷も彼女には残らなかった。それは確かに幸運なことなのだろう。

「僕は少し切られたよ」

 お腹には、まだそのときの傷が残っている。

「不幸だったね。それでも、死ななくて良かった」

 アイルは僕を見て笑う。

 僕らは予備校のそばの、公園に来ていた。すっかり緑になった桜は、もはや何も散らさない。

「君が死んでしまったら、夕里に顔向けできないし」

 言葉には、素直に頷くことはできなかった。それをごまかそうとして、コンビニで買ったおでんを見る。もうじき暑くなるはずだけれど、まだこれは売っている。昆布巻の味を噛み締めて、味わっているふりをした。昆布はすぐに何の味も出さなくなっていた。飲み込むまで何度も、味のしないそれを噛み続けた。

「気にしないと思うけどね」

 間近の桜の木のそばから声がする。

 肩まで掛かる髪に、白さの際立つ肌が浮いて見える。季節外れのオレンジのコートは相変わらずだ。どこで手に入れたのか、服装と不釣り合いな和傘を手にして、たおやかに笑っている。もしも僕が何も知らなかったら、悲鳴をあげていたかもしれない。それくらい、幽玄な姿だった。

「どうしたの? 何かあるの」

 アイルが怪訝な顔をして覗き込んでくる。

「いや、なんでもないよ。ただ」

 樹の下では、未だに彼女が笑っている。あの人は夕里とは違う。それはわかっている。それなのに、胸のうちに温かさが広がってしまっていた。

「夕里がいるような気がして」

 そんなことを言ってしまって、頬が熱くなる。

 アイルは何も言わず、手にしていたおでんの汁を一口啜った。

 アイルの脇を人々が通り過ぎていく。近所の大学の学生だろう。男子と女子が混ざり合って、連れだって歩いている。その騒がしさにアイルが一瞬身を竦め、僕の側に寄った。その一方で、僕は彼らの姿を目で追っていた。なかなか離れなかったのは、彼らの背中に触手が見えたからだ。

 それは、彼らばかりじゃない。公園にたむろしている親子にも、街を往くスーツの男性にも、時折それらは見える。

 あれが人間の本来の姿だと、教えてくれたのは少女だった。

「大丈夫?」

 アイルの手が僕の額に触れる。驚いて、少し肩を押してしまった。

 僕はアイルの背中が見られない。その背中に触手があったらと思うと、怖くなる。だから見ないことに努力を払う。

「眠いだけだよ」

 そういって前を向いた。酔ってもいないのに騒がしい若者たちを見つめ、そっとおでんをすする。最後の最後まで。触手は、それぞれに刃をかかえているけれど、それらは僕に向いていない。

 僕はいつでも彼らを切り落とすことができる。

「ちょっと、待ってて」

 僕から言った。

「どうしたの」

「お手洗い」

 言いながら、樹の下の少女に目配せする。傘をくるくる回していた少女は、僕を見て小首を傾げ、ついてきてくれた。

公衆トイレの陰に隠れて、彼女と向かい合う。

「君の呼び名を決めたよ。リリィだ。いいかな」

「ユウリじゃないんだ?」

 目を見開いた彼女は、どこか楽しそうだった。

「その名前は別の人の名前だから。君とは違う」

「ふうん、まあどっちでもいいけど。でもなんでリリィなの?」

「ゆり」

「ああ、そういうこと」

 大差ない、とでも言いたげに彼女が目を細めた。

「リリィ」

 有言実行、僕は早速その名を使う。

「何?」

「ありがとう」

「大したことはしてないよ」

 そう言いながら、リリィは嬉しそうに笑っていた。その顔に、うっかり夕里の名残を探しそうになって、やめる。それではリリィと呼ぶことにした意味がない。

「これからもよろしく」

「もちろん」

 枝から葉が一枚、僕らの間で揺れながら落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る