7.死告天使
少女に胸を押された。
柱の陰から外れて、赤空の下に晒されていく。いくつもの瞳が僕を見つめる。虚ろなそれも、血走ったそれも、みなが出鱈目な場所で赤い輝きを放っている。
「ここでの君の役割は、あの化け物たちを切り刻んで、殺すこと。大丈夫。うまくできるよ。君にはアズライールがついているから」
柱の裏から彼女が言う。それが少し、引っ掛かった。すぐには思い当たらないが、聞き覚えのある響きだった。
「それって、君の名前?」
尋ねると、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。
「それは天使の名前で、その意味ではボクとも似ているけれど、少し違う。どちらかというと、ボクが君をその名前で呼びたいな。ボクのことは、君の好きなように呼んで。さっきも言ったとおり、ボクは誰にでもなれるから」
唸り声が、針金のように折り重なって届いてくる。触手の束が上空から、もたげて僕を見下ろしていた。
その触手のひとつを僕のダガーが切り落とす。
「行ってきてよ、
静寂の中で、少女の声が耳に迫った。
鼓動は次第に落ちついて、代わりに別の熱が込み上げてくる。駆動したエンジンのように、心臓が猛り、血液が循環していく。改めてダガーを手に持った。握り締めると軋んだ音がした。とてもよく、手に馴染む。まるで僕自身の腕と変わらない。
地面を蹴ると、コンクリートが波状に砕けた。風が裂ける。視界が光の線になる。視界に映る肉塊にダガーを押し込むと、触手もろとも上下に割れた。
切断された肉塊が赤いシャワーを放ち、無遠慮に僕の顔にかかる。温い。腐臭がする。そしてなにより鉄の匂いがする。ヒトの中にある、醜悪な鉄の匂い。
僕が叫び、空気が震えた。化け物へと迫る。その肉塊には目があり、鼻も口もついている。辛うじて手足も判別できる。でも全部が出鱈目だ。泥人形のできそこないにしか見えない。生きていると思うだけでも鳥肌が立つのだから、今さら裂くのにためらいはない。
二体目を斬り伏せると、頬に微かな衝撃があった。別個体の触手の刃が僕の頬をかすめとっていた。
傷痕を確かめた指先に、生温いものを感じる。五月の陽気に湿っていた皮膚をたどると襞に当たった。痺れがある。できたばかりの傷痕だった。
化け物の攻撃も僕に通る。途端に、足が止まった。鳥肌を感じたときには、すでに触手が数本迫ってきていた。動きは目に見て取れる。しかし、そこに生えている刃の全てが僕を目指しているような気がした。
駅構内の明るすぎる蛍光灯よりもずっと柔らかい、肌触りさえ感じるような光の障壁が触手を包み、留めていた。
「大丈夫。ボクがそばにいるから」
彼女の言葉だと、もはや確かめる必要すらなかった。
雄叫びを上げて、触手を切り落とす。化け物は悲鳴を上げた。動きが止まる。痛みのせいだろうが、それは格好の的だった。腹の真ん中に浮かんでいる瞳めがけてナイフを投げると、断末魔を挙げて触手がしなだれた。
「本能に頼っている化け物に、君が負けることはないよ」
少女の言葉が僕を鼓舞してくれた。もう知らない人ではない。そろそろ彼女を呼ぶ名前が欲しいとさえ思った。
化け物たちは、同類の死をあわれむことなく僕に突っ込んできた。悼みも怯みも感じさせない。確かに頭がないのだろう。本能といっていたが、それ以下だろう。それらは的以外の何者でもなかった。醜いうえに、僕を攻撃してくる。だから僕はそれらを殺す。たとえそれがヒトのもうひとつの姿だとしても、関係はない。僕はそれらを逐一、丁寧に終わらせていった。
黒い影が、倒れて腐臭を放っていく。その匂いに、僕は何度も吐いたし、血もでた。涙は最初のうちは流れたけれど、そのうちすぐに乾いていった。理由のわからない感情にかかずらっている暇はない。
もしもこれが本当のヒトならば、僕は惨劇の加害者だ。だけどそれらは、いくらヒトだと言われても、見るからに化け物だ。人とは似つかない存在だ。いくら刺してもうめくだけで、ヒトの言葉も話さない。生物らしく、襲ってくる僕に対して逃げもしない。敵意だけをもって向かってくる。仕方ないから刺し殺す。身を守るのは当然だろう。僕は正常だ。この世界に化け物しかいないのであれば、僕はそれらをためらいなく殲滅しなければならない。
「来ないで!」
甲高い悲鳴が、呻き声を引き裂いて聞こえてきた。叫び声ではあるけれど、人のものだと聴き取れた。
駅前ロータリーのガードレールの前についさっきまで人だかりができていたのが、なんだか遠い昔のことのようだ。そこにはマイクスタンドを振り回しているアイルがいた。僕が気づかないうちに、彼女は彼女で逃げていたらしい。
アイルは、軽いはずのマイクスタンドを扱い切れていなかった。振りすぎて揺らいだ重心の下で触手に足を払われて、悲鳴をともに尻餅をつく。化け物の触手がその顔を覗く。遠くからでも、アイルの口が震えているのがわかった。
僕は声を振り絞り、アイルを襲う化け物へと飛びかかった。距離が一気に狭まる。しかし足らない。アイルへ向けられた凶刃がその身に触れようとする。
一瞬、アイルの身体が引き裂かれるのを想像した。ほとばしる血飛沫は、真っ赤な色をしているのだろう。想像して、気分が悪くなった。見たくなかった。
僕は半ば賭けで、ダガーを振り投げた。触手が半分ほど裂ける。呻いている化け物に蹴りを見舞って、地面に落ちたダガーを拾い上げた。
化け物が滑り、土煙があがる。
「なに? 何なの?」
アイルは叫び疲れたらしく、声が枯れていた。その声が、胸の奥をざわめかせた。
アイルに僕を見られたくはない。
「だったら、はやく終わらせないとだね」
口にして、意志を固めた。
土煙が止む前に、化け物に飛びかかり、全ての触手を切り落とした。呻く暇さえ与えなかった。
残りの化け物に向かって、僕はダガーを向けた。臭気を吸い込み、吐き気が湧く。遊戯施設のジェットコースターで揺さぶられ続けているような感じがする。振りきりたくなって、一息に走った。飛びかかって、襲い続けて、斬り伏せる。この世界に、異物が散乱する。
「誰なの?」
アイルの問いかけは、すでに遠かった。それなのに、その声は耳に届いた。僕は雄叫びで応答し、また化け物を切り落とした。
やがて僕は、その場にいた最も大きな化け物と対峙した。身体中のありとあらゆる口から黒い煙を吐き出している。触手は絡まるように天へと伸びて、僕を見下ろしていた。
触手の瞳が霞んで見える。僕に向けられたそれは、やがて一斉に飛びかかってきた。空気を裂く轟音からして格が違う。ただ、僕はそれでも動くことができた。
流体のように隙間をぬって、五月雨式の触手を避ける。僕の手には長い爪が伸びていた。骨の一部が変形したようだ。鋭利になったそれが相手の喉元を食い破るのがわかった。
黒い煙の中に赤黒い血が混じる。大量の飛沫に晒されて、何も見えなくなった。鉄の匂いを感じる。ヒトの気配の濃厚すぎる味。きっとヒトがヒトでなくなるときに、この匂いは濃くなるのだろうと思った。
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