6.化け物
篠笛が遠ざかっていく。
気づいた途端に、頭が痛む。目が眩む。視界が明滅する。
心臓が鼓動を強めた。
世界は暗い。ビルの明かりが散乱する。先ほどまで隣に立っていた人が、なぜかみんな静かになって、俯いていた。翳る横顔は、黒く爛れていた。
呻き声がする。地の底を這うような声。彼らはすでにヒトではなかった。顔がねじれ、腐った眼球が落ちくぼみ、背中から触手が上り始めていた。
頬をつねり、痛みが走る。夢ではなかった。これは僕の目の前で起きている。
「何だ、これ」
たたらを踏んで、もつれながら化け物たちから距離を取った。
周りに人の姿はない。みな、醜悪な物体になっていた。血の匂いが充満している。空は夕暮れよりも遥かに赤みを増していく。
柱の影に隠れて、ようやく足を止めた。関係者専用口の前の、何もない空間だった。
息が詰まり、半ば無理矢理口をこじ開けた。息を前へと吹きつける。鳴り響いていた心臓の鼓動が、少しずつおさまっていった。
あれらは夢で見たものと同じ化け物だ。だとすれば緩慢なはずだが、のんびり見物する気にはなれなかった。足は未だ震えている。彼らを切り裂く武器もない。
フェンス前でライブをしていたアイルたちの姿は見えなかった。一体の化け物だけがいる。あれはアイルだろうか、それとも青年か。首を伸ばしていると、別の化け物が視界をよぎった。
虚な瞳が腹のあたりに浮かんでいる。三つある。その全てがはっきりと僕を見ていた。
声が出てしまい、舌を噛んで遮った。残響が残った。触手につり上げられた皮膚の下、襞のようなところに歯が浮かぶ。口なのだろう。笑っている。触手の先の刃が気づけばこちらを向いていた。
僕が再び柱の裏側に隠れたのと、すぐ脇のコンクリートが抉れるのはほとんど同時だった。緩慢なんてとんでもない。目が追いつかなった。轟音と、破片の粉塵が巻き起こる。コンクリートの小片が足元にぶつかり、疼痛が起きて、抱え込んで呻いた。
声がする。人のものじゃない声だ。笑ってようでもあり、叫んでいるようでもある。いずれにしろ僕を取り囲んでいる。耳を塞ぎ、目を閉じる。なにも見えない暗闇に、まだ笑い声は届いてくる。
鼓動がまた強くなる。治らない。
血の匂いに、埃のような乾いた匂いが混じる。鼻腔に入り込んでくる。息を止めることはできなかった。僕が生きているから、呼吸は続けないといけない。
「死にたい?」
弾けるように顔を上げた。
足首を覆うレザーのブーツがまず見えた。深い橙のコートを羽織っている。身長はほとんど僕と同じくらい。鋭い目つきが僕を見据えていた。
「そんなわけないよね。死にたかったら、そんなもの持っていないよね」
言われて初めて、グリップの感触に気づいた。柄の先に、黒光りする刀身がある。人殺しのための道具。ダガーは、まさに夢で見た形状をしていた。
「こんなもの知らない。僕のじゃない」
「君のだよ。夢で持っていたものと同じ」
夢と言われて、顔を上げる。にやりとしていた。夢で見た顔だ。そしてそれは、夢を観る前からよく知った顔でもある。
「夕里なの?」
つり目気味の瞳の中に、一瞬光が浮かび、柔らかな笑みに溶けていく。その仕草も、風貌や声色も、あの人と瓜二つだった。あの夢を見る度に僕の胸を締めつけた似姿だった。
「残念だけど、別人だよ。ボクは誰にでもなれるんだ」
少女は首を横に振った。声は同じだが、その一人称は確かに聴き慣れなかった。
「じゃあなんでそんな顔をしているんだ」
好意さえ芽生えそうだった心に、憤りが湧いた。耐えきれなくなり声を荒げて、化け物からの呻き声に邪魔をされた。
「まずい」
「声を出すからだよ。自業自得」
けらけらと、夕里の顔をした少女は笑う。
「あれは何なの」
「ヒト」
即答だった。
「いや、元はそうだったけど、今は」
「人はヒトだよ。元も何もない。誰も彼も、元々あの姿形をしていたよ」
彼女は僕の方に身を寄せた。一瞬懐かしい香りを感じる。そんなところまで夕里と似ていて、胸の内が条件反射で疼いてしまった。
「ここが別世界か何かだと思った?」
「地獄だと思った」
素直に答えると、彼女は短く笑ってくれた。
「似たようなものかもしれない。この世は地獄だから早く浄土へ行きなさいって、お坊さんも言ってるでしょ」
「ここはあの世?」
「この世、現世。見ての通りの地獄の様相」
弧を描いた彼女の唇が赤く艶めいている。空の赤さとも、化け物の爛れた皮膚とも違う。宝石のような、蠱惑的な色合いだった。
「恐怖症って言われたら、どんなものが思い浮かぶ?」
見透かすような視線のままに、彼女は僕に質問をした。
「高所とか、先端とか?」
「樹木、花、動物。山や水、人形、集合体。見上げるほどの建造物。海の底に潜む巨大生物。他にもたくさんあるんだよ」
すらすらと、彼女は言葉をつないでいった。
「あんまり数が多いと、ただの勘違いのように軽く思えてしまうかもね。でも、恐怖を抱く人にはちゃんと理由がある。樹が怖いのは、自分とは明らかに違う形をした枝葉が自分を突き刺すことを想像するから。想像力は人に備わった危険予知能力のこと。それを怖いと感じないのは、感覚が麻痺しているからだよ。自分が世界の中心にいると思い込んでいる。自分でないものが襲い掛かってこない保証は、本当はどこにも、一切ないのだから」
呻き声と、身体をひきずるような音が聞こえてくる。気配がする。空気が変わり、ひりつく。殺気を向けられている。姿が見えなくても、それは感じることができた。
「そしてもちろん、ヒトが怖い人もいる。どういうことかわかる? その人は、生物としてのヒトが自分と同じ存在だとは思えないの。だからとっても怖い。でも相手はどう見ても人間だから、何もできない。どんな社会でも理由のない同胞殺しは認めてくれない。同胞を殺すことは、日常という錯覚を破壊する危険な行為だから」
話しているうちに、触手が柱の陰から姿を見せて、僕らの間を漂った。息を止める僕の向かいで、少女はこちらを見据えていた。
「ひとついいことを教えてあげる。ここはこの世の裏側にある赤空の世界。ここで起きたことは希釈されるんだ。いくらあのヒトたちを殺しても、実際に人が死ぬわけじゃない。夢のようなものだと思ってもらっていいよ。赤空の下での魂は、実際の魂とつながりはしても、それを変質させはしない」
歌うように少女は言う。
僕は心臓が早鐘を打つのを感じた。
「殺してもいいってこと?」
理解は追いついていなかったのに、僕の口だけは先に勝手に動いていた。僕の内側から何かがはたらきかけて、唇を押し開けて問いを発したようだった。
「そうだね」
少女は頷いてくれた。
空中を漂っていた触手が、僕に向けてそのまぶたを開いた。死んだ魚のような瞳が僕を見つめる。瞳のすぐ左に口が開き、歯が見える。人のような、前歯、犬歯、奥歯。全てが刃へと変化していく。
「どう? 化け物なら、殺せるでしょ?」
頷いたら、雫が滴り落ちた。僕は自分が泣いているのだと気づいた。理由の思い当たらない涙だった。
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