2冊目 サイドストーリー

第62+α+β話 例えば、こんなバレンタインデーがあったとしたら。

 世間ではどうやらバレンタインデーなるものが繰り広げられているらしい。まあ、電車の広告とかSNSとかでしばしばバレンタインデーのイラストをいいねとかしていたので気づいてはいたけど。

 仮に僕がオタクでなくて、その手のイラストに全く縁がなかったとしても、去年のインパクトがあまりにも強かったので、忘れることはできないだろう。

 なんせ、去年のこの時期は栗山さんと綾、どちらとも危うい関係性になっていたのだから。あの日聞いた綾の金切り声は忘れようと思ってもなかなか忘れられるものではない。

 今年は既に綾から「友」チョコを貰った。義理ではないあたり少し安心したというか。いや、義理でも嬉しいものは嬉しいけどね。あと、古瀬さんからも一応貰った。……そこは島松に全振りしてやれよとも思ったけど、お世話になったからということで、わざわざ家に渡しに来てくれた。これも前日のうちに。今日は彼氏の島松のために使ってあげてください。……星置? 知らない。


 で、本日こと二月十四日なのだけれど。

「ふんふんふんー♪」

 台所ではリズムの外れた、もはや原曲が何かすらわからない鼻歌が奏でられている。そして部屋にチョコの仄かに甘い香りが僕の部屋へと流れ込む。

 ……これ、どういう状況なんですか?

 いやね、一応そわそわはしてたよ、健全な男子ですからね。それに前は喧嘩中だったからチョコを栗山さんから貰えなかったし。今年は貰えるかなあとか期待はしてたよ、なんなら今日が告白のチャンスなのではとすら思っていたよ。でもね、でもなんだよ。

 まさか朝八時に家のインターホン鳴らして僕のこと叩き起こす? 普通。「かみかわくーん、いーれーて」じゃないよ時間考えてください時間。って内心、いや、もうそう口にしていた。

 それで家入れたはいいけど、なにかスーパーの袋ガサゴソし始めたら「えへへー、これからチョコ作るから待っててね、上川くん」って言いだすんだよ。憎めないくらいの満面の笑みで。

 ……もう一回言うよ。これ、どういう状況?

 え? 偏見かもしれないけどバレンタインのチョコって自宅で作るないしは既製品を買って渡すのが一般的なのでは? もしかしなくても渡す相手の家の台所で作るものではないですよね?

 しかし貰う立場の人間がそんな贅沢なことも言えるはずがなく、僕は為すがままに自由人栗山さんの行動を指をくわえて見ることしかできなかった。あと、台所が埋まってしまったので、朝はパン・昼はコンビニ弁当になりました。出費が……。

 今は午後の二時。そろそろおやつの時間になる。何を作っているのかはまだ聞いていない。というか教えてくれなかった。コンビニ行くときに台所を通ったけど、栗山さんの子供っぽいバリアーを前に覗き見することは叶わず。……まあ、いいんだけどね。

 撮りためたアニメを消化しながら栗山さんが作っているものの完成を待つこと数時間が経過。一本のアニメをようやくリアルタイムの放送分まで追いついたタイミングだった。

「できたー」

 達成感に満ち溢れたそんなほわほわ声が耳に届く。

 ドタバタと物音を立てたのち、エプロン姿の栗山さんはお皿にチョコレートのパウンドケーキを載せて部屋にやって来た。

「……まじですか」

「えへへー、頑張っちゃった」

 この人、本当に料理スキル高過ぎでは? 一体何をしたらこんなに料理が上手になるんだ? 普通にご飯も美味しいのにお菓子までガチっているって……。

「ほんとは家で作って持ってくる予定だったんだけど、今わたしの引っ越しが近くてバタバタしていて大変だから、ここで作らせてもらっちゃった」

 お皿をテーブルに置くと、得意げに背筋を伸ばしてドヤ顔をする。

 けど、今栗山さんが口にした引っ越し、というワードを聞いて否が応でも現実を思い知らされる。

 来月で栗山さんは大学を卒業する。都内の会社らしいから、遠距離になることはないらしいけど、とりあえず実家から出ることにはしたらしい。やはり神奈川だと通勤が遠いとかなんとか。

「あ、ありがとうございます……」

 まさか朝の段階でこんな本気のチョコを貰えるなんて思っていなかったので、お礼の言葉がなかなか出てこない。

「ほら、食べて食べてっ」

 栗山さんは一口大の大きさに切り分けられたそれをフォークで掴んでは、僕の口元へと運んでいく。笑顔を崩さず、楽しそうに頬は緩んだまま。その姿もどこか子供っぽい。

「いっ、いや、それくらい自分でできますからっ」

「えー? 遠慮しなくていいのにー。そーれ」

「んぐっ……お、美味しい……」

 程よく僕の好みのほろ苦い味が口のなかに広がる。苦いんだけど。

 ……心のなかは糖分過多で糖尿になりそうだ。

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