第94話 闇って奴はどこまでも、執拗に獲物を追いかけてくる。

「……うちの家、母親しかいないのは星置先輩は知ってますよね」

「ああ」

「奨学金ないと学費払うのもきついってことも」

「なんとなく想像はつくよ」

「……一年のときはそれでもまだ余裕があったんです。オレンジジュース研究会の合宿にも行けたし、多少の娯楽に使える時間とお金がありました」

 そこまで話して、彼はぎゅっと口を真一文字に結んでは、悔し気にテーブルに置く冊子を見つめる。

「でも、一年の後期末に、一緒に住んでいるばあちゃんが倒れて。結構な難病らしくてですね、お金がかかるわけなんです。……入院費でお金はどんどん吸われるんで、ますます学費が怪しくなります。バイトの量を増やしたはいいんですけど、今度は自分の単位が危なくなって。俺、給付型の奨学金も貰っているんで、成績落とすわけにいかないんですよ」

 ……なるほど、そういうことか。

 彼も、つけこまれたってわけなのか。

「それで……これに手を出したのが運の尽きって奴でした。あれよあれよとどんどん引き込まれて、気づいたときにはもう遅い。……ねずみ講って知ってます? それです。……これを売らされるんです。別に、今机に置いてる教材だけじゃないんですけど、他にも大したこと載っていない冊子を高い価格で売りさばいては利益を得る。で、さらに仲間を増やしたら──っていうふうに、どんどんネットワークを広げていくんです」

 ねずみ講については一年生のときに授業で聞いた。仕組みも、矛盾点も。

 きっと、頭の良い彼もそんなことは百も承知だろう。給付の奨学金を貰えるってことは、そうなんだろう。

「……こんな役にも立たない教科書、売りつけるわけにもいかなくて、でも、誰かに売らないと自分の負担になるだけだし、このままだと学費も払えないし、勉強する時間もなくなっちゃうし……」

 そして、人もいいときた。これじゃあ潰れるのも無理はない。……ん? 目の前の星置の顔色が凍り付いているけど……。

「へ、へー、これ役に立たないんだ、そうなんだー、はははー」

 ……僕、女たらしだから野郎に優しくする義理はないから。レジュメ見せないからな。

「……抜け出せなかったの? 篠路君くらい頭の回転よければ、どうにかなったんじゃ」

 口からプシューと魂が抜けている役立たずは放っておいて、僕は尋ねる。

「……抜けられるならとっくに抜けてます」

 ひどく憂いを帯びた口調、カランとグラスのなかで溶けた氷が音を立てる。

 夏の暑さに頭をやられそうになる、この時期。

 机に上げていた冊子をカバンにしまっては、こう続ける。

「……団体のなかに、ばあちゃんが入院している病院関係者がいるらしくて」

「……え?」

「どうやら俺は格好のカモになったみたいです。……ありていに言えば、脅されているんですよ。はっきりと言われたわけじゃありませんが、もし裏切れば、って匂わされてはいます」

 やばいやばいとは思ってはいた。

 でも……まさかここまでとは。

「……て、転院とか、そういう選択肢って」

「難病なんです。救急車で搬送された病院は違うところでした。でも、そこではどうしようもない病気なので、容態が落ち着いたところで治療してくれる病院に移ったんです。それが、そこ。もう、受け入れてくれる病院があるかどうかはわかりません。仮に受け入れてくれたとしても、きっと死ぬのを待つだけになる」

「ど、どこかに通報とかって」

「一度やろうとしましたよ? 警察に相談しようと色々会話の録音とか取って。すぐバレましたけどね。そしたら一度だけ入院食の量が減ったとか」

 偶然ではないだろう。この流れでは。

「ばあちゃんにはちょっと食事の量を制限するとかなんとか適当に説明をしたんでしょうけど、まあ俺に対する実力の誇示ですよね。あんなん見せられたら、もう何もできなくなります。もし、二度目をやったら事故かなんかにみせかけて本当に死なせるんじゃないかって……」

 彼の説明に、僕はひどく頭が痛くなる。

 なんだ、この反吐が出るほど気持ち悪い憎悪は。普通に生活していれば無縁であろう、この感情はなんだ。

「八方塞がりってわけです。俺は。抜けられない助け呼べない、売らないわけにもいかない。でもこんなことしたくない。……どこで間違えたんでしょうね、俺って。やっぱりあんなもの買ったからなんですかね……」

 蟻地獄にはまって、ずるずると深みに沈んでいく彼は、もはや諦めているようにしか見えない。ただひたすらもがくことも許されないまま、灼熱の太陽に燃やされるように、着々と貪られるのを待つように。

 言葉が出てこない。それは、僕も星置も同じだった。

 想像以上に、単純ではないことを、僕らは知ってしまったんだ。

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