第69話 いつ何が起きるかも知れないからとりあえず車道に近いところを歩くときは注意しろ。

 サークルの部室に行ってから合コンに向かうという星置、これから一緒に島松の家に向かうという古瀬さんと島松と別れ、僕は三限の授業を受けていた。西洋史概説という授業なんだけど、植民地でオレンジを栽培したという話が出てきて、僕は一人でオレンジという単語が出てくるたびに必死に笑いを堪える不審者になってしまった。……星置、許さない。

 少し曇り空が濃くなりつつある時間に授業は終わり、僕は大学から帰ることにした。人の波に押されるようにモノレールの駅に向かい、帰りの電車に乗り込む。

 ……今日、折り畳み傘持ってきていないから家着くまで天気もって欲しいけど……。

 今にもぐずつきそうな空の機嫌は、一歩間違えると泣き出しそうな、そんな雰囲気。……最悪駅から走れば五分で着くってことはもうわかったから、雨で濡れて大惨事ってことにはならないと思う。

 乗り換えも済ませ、到着した京王八王子駅。どうやらお空の機嫌は崩れたようで、しかも予想以上に雨が激しく降っていた。イヤホンを挿していてもはっきりと雨が地面を叩く音が聞こえるぐらいには。近くで一人、スーツを着たお兄さんが同じ大学生っぽい通行人に声を掛けて、何やら話をしているのが目に入る。

「……コンビニで傘買うか」

 さすがにこんな雨のなか全力疾走するほど僕はバカじゃない。

 僕は一旦駅に引き返そうとすると、ちょんちょんと肩を叩かれた。

「……?」

 僕はすぐに叩かれた方向を振り向くと、

「えへへー、傘ないんだよね?」

 ……僕に懐いた野良猫一匹が、傘を持ってそう話しかけてきた。

「なんでここにいるんですか……? 家に帰ったんじゃ」

「帰ったよー。 それで、少し卒論の勉強して、また着替えとか持って来ちゃった。出かける前雨降るかもなあって思って、傘持ってきてたんだー」

 僕は栗山さんの持つ傘を見て、二人入れるかどうかを想像する。ぎりぎり、かな……。まあ、十分くらいだし、いいか。

「で、そのニンマリな笑顔は、僕を傘に入れてくれるって意味でいいんですか?」

「うん、そうだよ?」

「……まあ、そこは素直にお礼を言っておきます。ありがとうございます」

「えへへー、どういたしまして」

「……傘、僕が持ちますよ」

「え? いいの?」

「身長差的にも僕が持ったほうがいいでしょうからね」

 と、まあ合理的な理由を挙げてみたけど、それに対して栗山さんはぷくっと顔を膨らませて、

「むぅ、それってわたしがチビって言いたいのかなっ」

 と語気を少し強くして言う。怒っている感じはしないから、きっとこれもコミュニケーションの一環なんだろう。

「……二十センチは離れていないですよね? 僕も栗山さんもほぼ標準の身長だと思うんで、こんなもんだと思いますよ。チビとは言ってないです」

 まあ、精神年齢はチビかもしれないけど。

「そう? えへへー」

 ……単純なことで。

 傘は僕が持って、家までの帰り道を歩き始める。ひとつの傘に二人入ると、当たり前だけど肩と肩がぶつかるような距離感になる。まあ、とっくのとうにそれ以上のこともやってはいる僕と栗山さんだけど、家の外でこういうふうなことをするのは初めてだったりするので、少し緊張した。……あと、星置に見られたら今度こそ言い訳が効かなそう。

 あ、でも今ってもしかしたらいい雰囲気だったりする? これ家に着いたらワンチャンいけるのでは……?

 よし、今日だ。きっと告白するなら今日だ。それしかない。栗山さんが野良猫に水をかけられる心配もない、お酒に酔っていない、傘もあるから雨に当たってもいない。

 これ今日だな。うん。そうだ、そうしよう──

「あっ、上川くん」

「はい?」

「トラックが……」

 栗山さんが言い切る前に、車道側から跳ねた大量の水が僕にぶちまけられる。

 ……おーけー神様。今日も駄目なんですね。

 おのれ水たまりにトラックめ……おかげで僕の決意が水に流れてしまったではないか。それに、普通に寒い。……まあ、濡れたのが僕でよかった。

「……ま、まあ、すぐ家に着くんで、気にしないでください……ははは」

「う、うん」

「たまには、こういうときもありますって、はは」

 と、空元気を見せていると、隣を歩く彼女は傘の持ち手を掴む僕の左手を握ってきた。

「……ありがとね? 車道側歩いてくれて」

 ……心臓が撃ち抜かれた気がしました。

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