第56話 まさか古瀬さんの泣き顔をあんなにマジになって描写すると思わなかったから、綾のシーンも頑張ってみた。そんなこと言うな、台無しだよ。
「そ、そういうところですよ、よっくんがモテないのは」
生まれたての小鹿のようになりながらも、彼女はいつもの僕のあだ名で呼ぶ。その事実に、少し安心してしまう。
「……優しいのは確かによっくんの美徳です。いいところです。……でも、それをみんなに平等に与えようと思ったら、それは優しさじゃなくなっちゃいます。優しさであって、優しさじゃなくなくなるんです。……だって、それがその人の当たり前の対応になっちゃうんですから」
か細く、今にも折れてしまいそう弦を震わせたような声が、病室に響く。
「そうなったら……よっくんはもはやただの都合のいい、いいひとです。いいように使われていいタイミングで呼び出されていいように切り捨てられるんです」
おう……なんかいいが多すぎていいのゲシュタルト崩壊が起きているよ。いいってどういう意味だっけ。
「……だから、私がそんなよっくんを拾ってあげようと思ったのに……あーあ」
おいおいおい。とうとう本音を漏らしたなこの小娘。少々ツン要素があるのは反抗期の再現でもしているのかな?
「知りませんよ? 十年後、やっぱ綾のこと選んでおけばよかったって後悔しても」
その言葉も、どこかで聞いたことがあるような、そんな台詞回し。
「……あの人のこと選んで、後からこっぴどく振られて泣きついてきても慰めてあげませんからね?」
「いつ僕が綾に慰められたんだよ。それに、いつ僕があの人を選ぶだなんて言った?」
あの人っていうのは……きっとそういうことなんだろう。
「……だって……私のこと解決している途中なのに……全然清々しそうな顔していないから……そんなの……わかるに決まってます……」
「せいぜい十年後……僕が後悔するくらい『いい』女になるんだね……」
「なりますよ……。だって、よっくんのお墨付きですよ? これでならなかったら逆によっくんに責任取ってもらいます」
勝手に僕の責任にするんじゃない。ほんと……油断も隙もあったもんじゃない……って。
なんか、こうやって呑気に誰かと会話するって、久しぶりかも、な……。
「じゃあ、彼氏ができたら僕のところに連れてくるんだね、兄貴として相応しいかどうか見極めてあげるからさ」
「なんですか、それ、父親ですか?」
「……まあ、綾のお父さんに綾のこと少しは任された身だしね。十年くらい。それくらいしても罰は当たらないでしょ」
「……そう、かもですね……」
ハハハと、乾いた笑い声が再び反響する。そして、彼女はこう続けた。
「……よっくんには、あの人くらい、能天気な人のほうが合っているのかもしれません。考えすぎるよっくんを、いい意味で馬鹿にしてくれそうで……」
よかった。彼女が握るナイフは、僕にでも、彼女に向けるものではなく。
「……いいなあ。これでも、少しはよっくんの好きなアニメのキャラっぽく振舞っていたつもりなんですよ? でも……駄目だったかあ……」
ましてや、そこら辺に生えているフラグをぶった切るためのものでもなく。
「……そろそろ、帰ります。あまり長居してもなんで」
誰かのためにリンゴを剥いてあげる、そのために用意されたもので。
ガタンと音を鳴らし、彼女は病室を出ようとする。病院特有の、音が鳴らないスライド式のドアに手をかけて、綾はこちらを向かないまま最後にこう言った。
「……本当は、すごく不安でした。倒れたって聞いたとき。……だから、きっと。……幸せだったのかもしれませんっ……。よっくんの幼馴染でいれて……」
言い終わったあと、ようやく彼女はこちらを振り向く。
端的に言えば、泣き笑い。
数瞬前から堪えていたのであろう雫は、一滴、いや。二滴だろうか。
細く笑みを浮かべた瞳から零れていた。
振り向きざまだったので、彼女の清楚な黒髪がふわりと空気を取り込み、揺らめく。
彼女の周りだけ、切り取られたような。それこそ、幼馴染の君が僕のために追い求めたアニメのヒロインのように、微かに舞い上がる上着の綿毛すら、輝いて映って。
この扉をくぐった瞬間、僕と綾の関係は、瞬間接着剤か何かで貼り付けられるようにして「幼馴染」という枠組みに固定される。
それを、綾は受け入れたのだろう。
慈しみにも近い表情を見せて、飛び散った二雫の宝石だけをここに残して、
「それじゃあ、よっくん。また、今度。退院するときは教えてくださいね」
そう、言った。
最後に残された微かな想いも、長い時間いることは許されず、あっけなく病室の白い床に取り込まれていった。
……誰かにだけ、優しくしないという行為の代償を、僕は初めて知ったのかもしれない。
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