第55話 ここまで頑張ったんだから、せめてここでは報われる世界線であって欲しい。

「おい……おい上川! しっかりしろ、上川! 駄目だ、起きない、救急車呼びましょう……って古瀬さん! はやく!」

「はっ、はい! えっと……一一〇一一〇……」

「それ警察! 九、九だから!」

「すすいませんっ!」

 闇底に沈んだ意識に、そんな怒号が聞こえてくる。誰だろ……でも……助かっちゃった、みたいだな……。


 真っ白なシーツと布団が、目覚めて真っ先に目に映ったものだった。そして、次に見えたのは、壁にコツンと頭をぶつけながら眠っている島松の寝顔。

 ははは……ここで女の子がいないあたり、僕っぽいというか……なんというか……。

 病院、か。


 話によると、栄養失調と風邪とが重なっていたらしい。確かにここ五日間はまともなもの食べていなかったし、栗山さんがいなくなってからは食生活もひどかっただろうなあと他人事のように感じてはいた。

 島松が病室にいたのは、通報したのが島松と古瀬さんだったから。なんでも、古瀬さんからのラインを既読スルーし続けたところ、これまですぐに返信を送っていたのにおかしいと古瀬さんが心配になり島松に話した。島松は僕の家を知っていたのでそこに行き、大家さんに事情を話して鍵を開けて貰った。で、倒れている僕を発見し今に至る、というわけらしい。大学にも僕が倒れた話は伝わったようで、大学を通じて僕の実家にも連絡がいっているはず。


 案の定、すぐに僕の母親が病院に飛んでやって来た。島松に散々お礼を言った後に僕の頭を軽くコツンと叩いて……ええ、僕一応病人なんですけどお……「心配かけるんじゃない」と一言。

 まあ……はい、倒れたのは僕が全面的に悪いので何も言えません……。


 それからしばらく様子を見るために僕は入院することになったのだけれど、そんなある日。

 暇だから漫画を読んで時間を潰していると、病室のドアがノックされる。

 少しの間を置いて、姿を現したのは、絶賛喧嘩中の綾だった。きまりが悪そうに視線をこちらには寄越さないまま、ベッドの隣にある丸椅子に腰を落とす。

「べ、別に……心配で来たわけじゃないので」

 何このツンデレ、可愛い。

「……上川さんの友達だって言う女の人がどうしても会ってって言うから、来ただけで」

「え……? だ、誰……?」

「……確か、古瀬、って名前の人だったと……」

 古瀬さんが……? どうして? どうやって綾のことを知ったんだ?

「な、なんで……」

「それは私に言われてもわからないですよ。……会って欲しい、って必死にお願いされただけなんで……」

 病院特有の、静けさがしばしの間僕らの間に流れる。ときどきカートの車輪の音や、エレベーターのチャイムの音、看護師さんと患者さんの会話などが流れ込んでは、また遠ざかっていく。

「その……この間の話なんだけど……」

 古瀬さんがどういうつもりで綾をここに連れたのかはわからないけど、こうしてチャンスが来たんだ、今話さないと。

 綾は表情をピクリと動かして、一瞬視線を僕のほうに移す。

「……ごめんね……僕が、ちゃんと言わなかったのが、いけなかった……」

「何が、ですか……?」

 掠れる声で、綾も相槌を返す。

「……綾はいい子だけど……いい子、なんだけどね……。どうしても、もう妹みたいな感覚になっていてね……。僕は、綾を女の子として好きにはなれないんだ」

 今言う言葉が、どれだけ綾にとって辛いものか、僕はわかっている。でも。

 言わないでずっと放置しているほうが、余程辛いってことも、この間の一件で痛いほど身に染みた。

「確かに、綾は可愛いし、頭もいいし、真面目だし、気も利くし家事もできるし、ちょっと思い込みが激しいところはあるけどそこもまあ愛嬌だしで、非なんてないんだけどね……。もう、僕のなかじゃ、とっくに家族みたいな存在で」

 近すぎて、遠いものになってしまったんだと思う。僕と綾の関係性は。

「綾は悪くないよ。悪いのは……今まではぐらかしてきた僕だから……まあ、だから……さ。頬をぺチンと叩くなり罵るなり……好きにして、いいよ……」

 僕がそこまで話すと、椅子に座る彼女はぷるぷると肩を震わせ始める。微かに向けられていた視線もくるっと反対になり、僕は彼女の小さい背中だけが目に入る。

 それだけでも、今綾がどういう顔をしているかは、想像がついた。

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