第19話 人畜無害そうな男でもきっちり三大欲求は(大抵)兼ね備えているから油断は禁物だよ。
ポタポタと雫が垂れている。その様子は、雨に振られた葉から雨が少しずつ零れているような様だ。
「す、すみませんっ、今タオル持ってくるので──」
僕は飛び跳ねるようにして洗面所に向かい、バスタオルを一枚持ち出す。
濡らしてしまった栗山さんの頭にそっとタオルを掛ける。
「と、とりあえずこれで拭いてください、今お風呂沸かしちゃうので」
「う、うん……」
僕は逃げるように浴室へと向かい、栓をしてお湯はりを始める。
空っぽの浴槽に少しずつ温かいお湯が注がれていくなか、僕はコツンと頭を固い浴室のドアにぶつける。
「なにやってんだよ……僕は……」
いくら慌てたとは言え、相手は女性でしかも酔っている人だぞ? さすがにあれはやり過ぎだよ僕……。
……女性の経験ないのがこうも仇になるとは……。いつか言った通り、僕は彼女ができたことがない。つまるところチェリーボーイ君であるため、そういうのを本とか映像でしか見たことのない残念な奴なんだ。……綾のは含む気はないし、含むと本当に終わりな気がする。
だから、さっき僕の胸元に一瞬感じた柔らかさは、多分人生で一番緊張が走った瞬間だったんだ。それがさらに押し付けられて思わずはねのけたけど……。
余裕ないにもほどがあるだろ……。何度も言うけど相手は酔っ払いだぞ?
本気なわけないだろ……。夢みてんじゃねえよこのオタクが。
勘違いは誰かの相談を受けるうえでやってはいけないことのリストに真っ先にあがることのひとつだ。事実関係をきっちり把握することで、満足のいく回答をすることができる。
確かに栗山さんは僕のことが好きって言っていきなり僕とかかわり持ち出したけど、いくら僕が好きとは言え出会って間もない男と身体の関係持つのは常識的に考えて嫌なはず。それは、一週間も経っていなければ「出会って間もない」にいれていいはずだ。栗山さんがビッチとかそういうのでない限り。
なんだかんだで栗山さんの行動に悲鳴をあげたりツッコミを入れることも多いし、常識あるのかと思うことはあるけども。
さすがにこと栗山さん自身の貞操観念に関してはまだ一定の信頼を残していた。まあ、色々揺らぐ場面はあったけど。まだ。
それゆえに、さっきの事故が起きてしまったわけなのだけど……。
「ああ……最悪だよもう」
お湯の水位がどんどん上がってきている浴槽から、お湯が注がれる音が聞こえなくなったのは僕がそう呟いたときだった。
浴室で頭を冷やした僕は、部屋に戻った。まだ頬が桃色に染まったままの栗山さんは、頭にタオルを掛けたままカーペットに横たわっていた。
「栗山さん、そのままにして寝ちゃったら風邪引きますよ、もうすぐお風呂沸くんで、入っちゃってください、その間に洗濯機回すので」
「……すぅ……すぅ……」
聞こえてきた返事は、穏やかな寝息のみ。……酔ったあとは眠くなるタイプなのか栗山さんは。
でも、さすがに濡れた服のまま寝たら体冷やすし、僕のせいで風邪を引かせたとなると申し訳ない。
「く、栗山さーん、起きてくださーい」
「……すぅ……すぅ……」
「栗山さんったら」
僕は声だけでなく、肩も揺らしてみるけど効果がない。
ど、どうしたものか……。もう夜だし、隣の部屋に音が聞こえないわけではないから大声を出すわけにもいかないし……。さっきの大声、聞こえているんだろうな……。
仕方なく、僕は栗山さんの背中に手を回し、多少強引にでも体を起こしてしまうことにした。
「目覚ましてください、栗山さん」
部分的にお姫様だっこしているような体勢になるが、そんなことは気にしていられない。
「栗山さん……」
長いまつ毛、閉じられた瞳に、薄い色素が浮かぶ唇、小さい鼻に、まるで生まれたての子供みたいにスベスベとしていそうな肌色、そこに染まっている桃色。
改めて、しかも完全無防備な状況で間近にその顔を見ると、栗山さんの可愛さがより鮮明に視界に入る。
割り込んできた邪念を振り払い、僕は彼女に声を掛け続ける。
「起きてくださーい。栗山さーん」
……こういうときって、名字でなく名前で呼ぶと反応したりするケースをよく漫画とかで見る。……もしやとは思うけど。
「……ゆ、由芽さーん……起きてくださーい」
僕が初めて彼女の名前を呼んだそのとき、閉じられていた瞳がゆっくりと開いたんだ。
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