デラシネ

「写真は撮られてないんですか?」


 私は男からの唐突な質問に対し、考えることなく「村では、何も」とすぐに答えを返した。集落へ入る前にスマホのバッテリーが切れてしまっていたのだから間違いない。


「スマホ、お持ちですよね? そんな珍しいものを見たらふつう撮るでしょう? そんなこと言って、実はもうSNSに上げているんじゃないんですか? まさか何も撮っていないとは言わせませんよ」


 たしか最後に写真を撮ったのは村に入るかなり前、神社で人間の頭をした蜘蛛の像を見たときだったように思う。中村と遭遇してからは一枚も撮っていない。


「神社。クモの像。頭が、人の」


「ああ、あれね。不気味な像ですよねぇ。他には?」


 不気味という言葉に反応してか、墨を塗られたように黒く痩せ細った手足をした人物のことが頭をよぎり、私は思わず「黒い人、見た。影みたいな」と口走っていた。


 さっきから一向に息苦しさがおさまらないのはどういうわけだ。タンギングのような呼吸をやめられないせいでまともに話すことができない。


 私の様子はあまり気にならないらしく、男は「影みたいに黒い人ねぇ」と何かを思案するように呟き、「じゃあ、あなた、ホジリかヤブリかのどちらかに会ったんですね」と静かな声で続けた。黒い人物のことだろうが人の名前のようには聴こえない。


「立て札があったでしょう? 神社に。それに名前が並んでいたの見ました?」


 あるにはあったが名前が立て札はなかったように思う。男はそこに書かれた人物に私が会ったと言っているのだろうか。


「陰陽道では名前をこの世で一番短いしゅ、つまり呪いとする考えがあるんですけど、これは名前によって存在を縛られているという意味でして。いや、名前を与えることでこの世に存在するのを許してしまう、と言ったほうが正しいかもしれませんね」


 名前が呪いとはまた妙なことを言う。それに普通は存在が先にあって名前はあとからつくものではないか。男の言い方だと、想像したものに名前をつけるとそれが実体化でもするかのように聴こえる。


「名前を書くことでその場に連中を縛りつける効果があるらしいんですけど、実際に封じてあるのは山の各所にある鎮め石の下なんですよ。それでも立て札に書かれた名前を呼ぶと災いが起こることから、昔の人は呪いだのたたりだのといって恐れていたそうで。だからこの辺りに住んでいる人間は『神様の名前に気をつけなさい』と子供のときに教わるんです」


 あの神社に祀られていた神様というと間賀津なにがしのことだろう。伝承にも残る実在した人物という話であったし、村人たちもとくに気にせずその名を口にしていた。呪いが実体化したというならば、八ツ足様とかいうバケモノのほうがしっくりくる。いずれにせよホジリだのヤブリだのという名前ではないが。


「まあ、あれを神様というか悪鬼というか、それは人や場合によりけりでしょうけどね。人間がおそれる存在という意味ではどちらも同じですし、だからフウジの儀式も悪鬼ではなく、神様への供物と言い換えられたりもするわけで」


 あれとは具体的に何を指して言っているのだ。男の口ぶりだと間賀津とも八ツ足様とも当てはめられる。


「もともとは連中も神様として扱われていたんですけど、神社に祀られている御神体がね、とある難病を治すのに効果的だなんて神社愛好家、マニアっていうんですか? そういった方たちのあいだで噂がたったらしくて。もう大変でしたよ。次から次へと御神体を狙った部外者がやってくるもんだから。それで神様から悪鬼ということに」


「誰の、話、して」


「え? ほら、さっき話したでしょう。八不浄、八匹のバケモノですよ」


 意味がわからない。バケモノとは毒蜘蛛を指していたのではなかったのか。それに、どうしてこの男はこんなにも秘祭やあの集落に関して詳しいのだろう。何より、外部の者はその内容を知ることすらも禁じられていると言っていたはずなのに、なぜ私に事細かに話してくれるのだ。


「ところであなた、臭み消しのいい香りがしますね」


 そう言って男がハンドルを切ると車体が右へと傾き、同じ方向へ身体が引っ張られるのをどうにかこらえようとした私は、突如として右の首筋に針で刺されたような痛みを感じ、「つっ!」と声を上げつつ反射的にそこへ右手をあてがった。


「さっきも言いましたけど、キャンプの帰りなんですよ。息子との」


 身を起こして背後を振り返ると、二つの眼球らしきものが暗闇に輝いているのが微かに見え、「あんた」と言ったところで急に声が出なくなって身体が硬直し、私はシートベルトに引っ張られるまま倒れるようにして座席へ横ざまに押しつけられた。力が入らない。


「安心してください。ただの鎮静剤ですから。暴れられないための対策ですよ。まあ、もうそんな元気もなさそうですけど、念のためということで」


 何を言っているのだ、この男は。


「決まりでしてね。神様の客人を帰すわけにはいかないんですよ。察してくださいな」


 心地の良い浮遊感と抗いようのない安らかな感情が身体の内側に満ちていくのと、自然と顔の筋肉が弛緩していくのを感じながら、私は薄れゆく意識のなか上方から迫ってきた暗闇に視界を完全に閉ざされてしまうまで、名前も知らない男の姿をただぼんやりと眺めていることしかできなかった。




                               了

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登山客 混沌加速装置 @Chaos-Accelerator

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