幽霊

 どこかの民族音楽だろうか。拍子を取りにくいリズムと独特の音階は、インドとも中東のものとも思えるが、どちらにせよかつて耳にしたことのあるどの音楽とも異なっており、真夜中のドライブで流すにしては少しばかり不気味なように私には感じられた。


「詮索するわけではないけど、正直、僕も面識のないあなたを乗せて不安なんですよ。たとえ幽霊じゃないとしてもね。だから、いくつか質問させてもらいますよ?」


 私が車内の音楽をそう思ったように、男は私に対して同じ気持ちを抱いたらしい。許されるものならこのまま眠ってしまいたいのだが、まだ事情を伝えていないどころかまともに挨拶すらしていないのだ。車に乗せてもらった手前、男の質問に答えないわけにもいかないだろう。


「でもその前に、まだ行き先を聞いてませんでしたよね。どこの町へ行こうとしていたんですか?」


ふもとの、駅が、駅名が」


「ああ、この辺の人間じゃないと読めないですよねぇ。闇が無い川で闇無川くらなしがわって読むんですよ」


 たしか真々白氏が言っていた駅がそんな名前だったように思う。


「それで、何があったんですか? そんな泥だらけの血だらけで。もしや、二、三日遭難していたとか?」


 果たして何と答えたものか。


 宿から逃げるように抜け出してはきたものの、村人たちが悪事を働いているという話にせよ、彼らが私に対して暴力を振るったり殺そうとしたりしたという事実にせよ、男に示せるような説得力のある証拠は何一つとして手元にないのだ。


 もし、山の中にある集落で殺されそうになったなどと答えようものなら、中村が私に送ってきた突拍子もない内容のメールと同じく、薬物で頭のイカレた男とでも思われてまともに取り合ってはくれないだろう。最悪の場合、狂人として車から放り出されてしまうかもしれない。


「あの、かすつもりじゃなくて、黙っていられると僕も怖いんで、何とか言ってもらえませんか? いやだってね、その格好、申し訳ないけど普通じゃないですよ。まさか警察沙汰じゃないですよね?」


「友人、はぐ、はぐれた。山で」


「えっと、それはお気の毒ですけど、そうではなくて、あなたのことを話してもらえませんか? ご友人とはぐれたからって、そんなボロボロにはならないでしょう?」


 どこから何をどう話せばいいのだ。村人に襲われて気絶し、起きたら薪の上に寝かされていて、生きたまま焼き殺されるところを逃げてきたなどと言えるはずがない。村で祭りを見ていて友人とはぐれ、探しているうちに森で迷ったあたりに話を差し替えるべきだろう。


 それにしても、いくらカーブの多い山の坂道とはいえ、運転が少しばかり慎重になりすぎていやしないだろうか。先ほど私の前を通りすぎたときでさえ、もうちょっとスピードが出ていたように思う。


「またそうやって黙る。そのご友人とはぐれた後のことを教えてくれませんか? 記憶喪失というわけでは、ないんですよね?」


 不安をあおるような疾走感のあるアコーディオンの音に、コントラバスの不穏な低音と女性の叫ぶような高音の歌声が絡まって車内に響く。英語のようにも思えるが歌詞はまるで聴き取れない。


「山の、村で。祭り」


漁火いさりびで? あれ、漁火の夏祭りって来週だと思ってたけど。じゃあ、あれからもう一週間も経ったのか」


 男は独り言のようにそう呟いたあと、「それなら、あれだ。祭りで興奮して誰かと取っ組み合いの喧嘩になったとか?」と私に訊ね、勝手な解釈をしたらしく「若いなぁ」と皮肉にも聴こえる言葉を漏らした。


「違う」


「冗談ですよ。最近の若い人は殴り合いの喧嘩なんてしないでしょうからね。いやもちろん僕だってしませんよ。若い時分じぶんはあれだったけど僕ももう四十六だし、何より今は家族を養う身ですからね」


「漁火、違う」


「え? でも、この辺にある村といったら、漁火ぐらいしかないはずですけどねぇ。その村の名前は覚えてます?」


 言われてみれば私はあの集落の名前を知らない。


「かむ、らた」


「かむらたは村の名前じゃなくて、ほらそこのって今は見えませんけど、右手側にある山の名前ですよ。漁火と勘違いしているんじゃないですか?」


 そうなのだろうか。いや、そんなはずはない。真々白氏は漁火から来たと言っていたではないか。


「そうそう、かむらたといえば面白い伝説が残っているんですよ。知ってます?」


 男がかむらた山にまつわる何かを思い出したらしい。間賀津なにがしかの話かとも思ったが、喉に異物でも詰まっているかのように息が苦しく、喋るどころか声を出すのさえ難儀な私は、ただ首を横に振っただけで男に話の先を促した。


「昔、かむらたには神様がいなかったらしく、そのせいで多くの悪鬼あっき蔓延はびこる土地だったようで、神無かむな羅刹らせつ多しで神無羅多かむらたと漢字で書いたそうなんです。つまり、もともとは人が住めるような場所ではなかったんですよ」


 では八ツ足様とかいう化けグモもその悪鬼の一種だったのだろう。


「それでね、山の中にはセコイアって物凄く巨大な樹があるんですけどね。いわゆる御神木というやつで、それには多くの霊が祀られているんですけど、ご覧になられました?」


「しめ、注連縄しめなわの」


「そうです、それです。で、その祀られている多くの霊というのが、とあるヒサイの犠牲になった人たちでしてね。あ、ヒサイって災害をこうむるほうのじゃなくて、秘められた祭りの秘祭のことですよ。だから供養塔くようとうも兼ねているというか」


 私があの巨木に畏怖いふを感じたのは、単に大きさのせいだけではなかったのかもしれない。


「秘祭」


「これが参加はもちろん、外部の人間は撮影も肉眼で見ることも、それどころか内容を知ることすらも禁止されてましてね。もう完全に門外不出というやつなんですよ。その理由、おっと!」


 下を向いていた私は車が急に停止した反動で顔を上げ、何事かと思うと同時にフロントガラスを通して前方へと目をやり、ヘッドライトに照らされた一頭の鹿がいるのを見るなり事態を把握して安堵した。


 男がヘッドライトを明滅させたりクラクションを鳴らしても鹿は逃げず、最終的には我々のほうが道を譲るかたちで走行を再開させた。どうやら度を越した徐行運転はこういった野生動物の飛び出しを警戒してのことのようだ。


「でね、この秘祭のもとになったのが、神無羅多を荒らしまわっていた悪鬼を封じるために行った禁術らしいんですよ」


 そういえば、禁呪だか禁術だかの話も真々白氏がしていた。あれはたしか、退治した化け蜘蛛を人柱で封じたとかいうくだりではなかったか。


「その禁術というのがいわゆる人身ひとみ御供ごくうというやつで、あれ? もうすぐ四時になるのかぁ。いえね、キャンプの帰りなんですけど、さすがに息子はもう寝ちゃったかなと思いまして」


 この男の息子がいくつか知らないが、深夜勤めや早朝に仕事がある人間以外、ふつうは誰でも寝ている時間だろう。子供だったらなおさらである。


「というのも、人身御供に選ばれるのは子供ばかり八人なんですよ。それでつい息子のことをね」


 私が黙っていると、「あれ? 今のとこ、怖くありませんでした?」と男がさも心外そうに言い、「あ、あなた、子供いないんでしょ? だからかぁ」と一人で勝手に納得したような声を上げた。


 子供がいるいないに関わらず、昔の話なのだから怖いことなどありはしないではないか。こんな時間に息子が起きていると思ったり、そうかといえば子供のいない私を子持ちの心情などわかるまいと揶揄したりと、男の話はどこかズレているような気がする。

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