囚人
何かしらの気配を感じるたびに背後を振り返ってはライトで照らしつつ、鉄球をつけられた囚人のように重い両足を引き摺って坂道を上っていた私は、道が前方で別な舗装路と合流しているのを目にしてうんざりした気分になった。
スマホのバッテリー残量は十パーセントを切ろうとしているが、ここで進むべき道の確認をしないわけにはいかない。足を止めて地図アプリを開くとネットワークエラーの文字が表示された。画面をよく見ると左上の
私はどうしてこのタイミングでと舌打ちをしながらも、もしや集落を抜けて幹線道路に出たのかもしれないと思い至り、まだ確証はないにも関わらず自然と身体の緊張が解けていくのを抑えられずにいた。
合流地点に立った私は右手の道が下りになっていることと、車道の反対側にはガードレールが設けられていることに気がついた。
ひょっとするとこれは、女将が言っていた町から商品を売りにくるトラックが利用している道路ではないのか。そうであれば、どちらか一方、もしくは両方の道が近くの町へと続いているに違いない。うまくすれば
可能なら
すでに足を引き摺って歩くのがやっとの私は、山の奥へと伸びている左側の上り坂ではなく、なだらかな下りとなっている右手の少しでも楽そうな道を行くことにした。
スマホのバッテリーを節約するため、ライトを消して左手でガードレールに触れながら歩いていると、二度カーブを曲がったところでモーター音のようなものを耳にし、私は足を止めて背後を振り返り暗闇に目を凝らしてみた。たしかに音はするが闇の他に見えるものはない。
しばらくそのままで待ってみると、まだずいぶんと後方のようではあるが、右手の目線よりも高い位置にある木々のあいだに、車のヘッドライトらしき光がちらちらと現れはじめた。
これで助かったと力が抜けそうになるのをどうにか
やがてヘッドライトが右奥の木々を照らすのを見た私は、右手に持ったスマホのライトをフラッシュモードへ変えて立ち上がり、運転手の注意を引こうと頭上に掲げた腕を必死に振りまわした。怪我をしているせいか身体がうまく動かない。
迫りくる車が減速したように思えて近寄ろうとすると、モーター音とともに私の眼前を通り過ぎて左手のカーブを曲がっていき、
止まってくれるはずがない。常識的に考えて、たとえ私が綺麗な格好をしていたとしても、こんな時間に山中をうろついているような人間となど誰が関わり合いになりたいものか。自分も相手の立場ならそうしただろうと考えると運転手を恨むことはできない。
私は弱々しいストロボのように明滅するライトを消し、今のたった十数秒で充電が二パーセントも減ってしまったスマホをデイパックにしまい、先ほどまでと同様に左手をガードレールに添えて歩みを再開させた。
急な坂を下りながらカーブを左へとまわり込んだ私は、はるか前方で灯っている赤いテールランプに気づいて目を見開き、急ぎたい気持ちとは逆の
車道へ出て運転席側の窓をノックしようとしてうまく力が入らず、ちょうど拳で撫でるようにしながら中を覗こうとしていると、わずかに窓の下がった音がして「あの、何かお困りですか?」という男性の控えめな声と奇妙な音楽が聴こえてきた。
「村、逃げて、助け、さい」
喉が詰まったようになってうまく言葉が出てこない。
「え? ごめんなさい。ちょっと聴き取れなかったんですけど」
「たす……乗せて、せんか」
「え? ヒッチハイクですか? こんな場所で?」
相手が怪しむのも当然である。なんと答えるべきか考えていると、時計を確認したのか「こんな時間に?」と男が驚いたように言い、続けて「まさか、幽霊じゃないでしょうね?」と冗談めかしく言って笑い声を上げた。
「お金、ます。お願い」
「別にいりませんよ。何か事情がおありなんでしょう。どちらへ行かれようとしているんですか?」
「町。近くの」
「近くの町っていったって。まぁ、いいや。これも何かの縁でしょうし、こうやって言葉まで交わしておいて、じゃあこれでってわけには僕もいかないんで。いいですよ。前まわって助手席へどうぞ」
私は礼を言ったつもりが声が出ず、餌をねだる
ボンネット伝いに助手席側へとまわってドアを開け、車内灯に照らされた橙色に染まる四十代らしき男性の顔を見るなり、「ちょっ、どうされたんですか? 浴衣、え? それ、
「もしかして、事故に遭われたとか、動物に襲われたとか。それとも、変な事件に巻き込まれてるとかじゃないですよね?」
重たい身体を持ち上げた私は苦労して助手席へと滑り込み、背中をシートへ深々と預けてから大きく息を吐き出した。
「えー、ちょっと、本当に幽霊じゃないですよね?」
言葉を発する代わりに男のほうへと顔を向けた私は、目を合わせて首をゆっくりと左右へ振って否定の意思を表し、左肩の激痛に耐えながら腕を伸ばしてドアを閉めた。
「具合でも悪いんですか? 普通に喋ってくださいよ。怖いなぁ」
車内灯が消えると男が「あ、そうだ」と呟き、「足元のクーラーボックスに水あるんで、よかったらどうぞ」と言ってハンドルを切り、車を道路へと戻してゆるゆると坂を下りはじめた。
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