脱兎
追跡者の気配がまったく感知できないなか、私は転ばないことだけに意識を集中させ、
耳のすぐ内側で鳴っているかのような心臓の激しい鼓動と、己の荒く小刻みな呼吸音とがやたらと大きく聴こえる。地面を踏んでいる感触もなければ、道路を上っているのか下っているのか、どこへ向かって走っているのかさえもわからない。
はじめのうちにあった叫び声を上げそうになるほどの痛みや、その場で横になってしまいたくなるような
走っているあいだ、枝や草葉らしきものに腕や脚を打たれたり、蚊柱と思われる小虫の集まりに顔を突っ込んだりもしたが、そんな些細なことを気にしている場合ではなかった。
さっきの薪は荷物だけを焼却しようとしたのではなく、私もろとも火に
おそらく禁忌を破ったり神社を穢したりしたことが原因なのかもしれないが、たとえそうだとしても命が代償では割に合わない。それに、ライトを点けたことは別にして、
だがそう考えると、落としたはずのスマホがバッグに入れられていたことも、バッグを含めた私の衣服や靴などが
説明はつくのだが、そんな非現実的な考えをにわかに信じるのは難しい。もしそうであるならばこれはれっきとした殺人未遂行為であるし、いくら地図にも載っていない山深い場所で行われているとはいえ、いつまでも世間の目から隠し通すことは不可能である。ネットへ流せば物好きな人間が誰かしらすぐに飛びつくだろう。
焼けた薪のあいだに挟まっていた黒い足や、燃える炎の中に見えた仔牛ほどの大きさの塊などが脳裏をよぎりはするものの、きちんと確認もしないであれらが人間であったと断定することはできない。
仮に、村ぐるみで殺人が行われているのだとして、わざわざ細工を
たしか、炭になってしまうとDNA鑑定もできないと聞いたことがあるが、証拠が残らないように殺すだけならば、山中にあった沼にでも沈めたほうがよっぽど
急に酸素を取り込めなくなったかのような息苦しさと、殴られたような鈍い痛みを左の脇腹に感じた私は、追っ手が迫っているのかどうかも確認しないうちに走る速度を落とし、逃げなければという意思とは裏腹に歩みを止めて近くの
ライトで照らされた眼前の草葉がゆっくりと右へ回転しているように見える。
全力とはいっても太陽のもとで走るのとは違い、スマホのライトで地面を照らして足元や周囲に気を配りながらでは、出せて七割ほどの力といったところだろう。
そういった意味では加減して走ったというのに、もう両脚にはうまく力が入らず、まるで喉を締められているかのように息もしづらいうえに、風邪の引きはじめのときに似た酷い寒気までする。
私の身体はどうしてしまったのだ。頭を殴られた影響が今になって現れたのだろうか。
追っ手のことを考え、どこかへ身を隠すために立ち上がろうとした私は、突然の吐き気に襲われて我慢できずにその場へ
そばの樹木を頼りに立ち上がり、両膝に両手をついて何度か
いつまで待っても症状が良くなる気配はなく、それでもともかく身を隠さねばと無理やり身体を起こした私は、木に背中を
時刻は二時四十七分。夜明けまでまだたっぷり数時間はある。返信をしていないせいか、それとも向こうのスマホのバッテリーが切れたのか、中村からの新しいメッセージは届いていない。SMSの受信箱を開いて最後に届いたメッセージを再び確認してみる。
『誰も逃げない。危険ない。大丈夫ですから村で会います。あなた逃げらない』
さっきは終わりの文だけが気になったのだが、よく読み返してみるとどれも奇妙な感じがする。メールを画像保存してから送信済みのカテゴリーへ移動し、今度は自分の送った最後のメールを開いてみた。
『何から逃げるって知りませんよ。自分が言ったんじゃないですか。
同じようにこちらも画像を保存し、アプリで加工して両方のメッセージを一つの画面内で同時に読み比べられるようにした。
どれだけ読み返してみても私のメールに対する返事とは思えない。これではまるで、メールから拾い読みした単語を適当に繋げて答えたようではないか。
ふと画面の右上へ視線をやると、長いあいだライトを点けっぱなしにしていたせいか、すでにスマホの充電が残り二十パーセントに迫っていることに気がついた。
少しでもバッテリーを節約するために画面を消し、なるべく静かに息をするよう口を大きく開き、迫りくる何者かの物音がしないかと耳を澄ます。己の呼吸の音と虫たちの鳴き声が前衛的な音楽のように響いているだけで、誰かの足音や息遣いなどはまったく聴こえてこない。
おかしい。一向に追っ手が現れないのはどういうわけだ。たしかに男の「早ぐ追え」という声を聴いた。ライトを持って先を走っていたとはいえ、地の利は村人にある。途中で追いつかれていても不思議ではなかった。
私は十分に時間を置き、誰も来ないという確信を得てから再びスマホのライトを点け、乱れた呼吸で肩を震わせながら、鉛のように重たく感じる一歩を舗装路へ向かって踏み出した。
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